ふざけんな、なにが血だよ
ー1ー
空と水しかない世界。
見渡すかぎりの青と青。
雲ひとつ見当たらない。
魚の一匹も泳いでいない。
わたしはいま夢を見ている。
気を失っていることを自覚している。
不思議な感覚だ。
ぴた、ぴた、と水の上を歩く音。
振り返ると鏡があった。
——いや、鏡じゃない。
わたしがもうひとりいる。
「どう思う? いまの自分を」
別のわたしがたずねてくる。
「どう……」
「人を助けた」
無邪気な声で言って、彼女は軽く笑む。
「師匠を、マリちゃんを……、助けられた?」
「実感がない?」
「まだ、確認したわけじゃないから」
「夢を見ているから。夢から覚めたらだいだいのことがわかる」
いい加減な言葉に思えた。
「だいたい?」
「そんなに信じられる? 自分の目が」
「目……」
「そうやってオウム返しでたずね返せば、なんだって教えてもらえると思わないことね。人との会話は、ネットで検索するのとはちがう」
別のわたしは水の上を歩く。まるで、童話の少女みたいなステップだ。無邪気で幼い。そして軽やか。ときおり見せる上目づかいで、こちらの考えを見透かしている気がする。
「人間の目は万能じゃない」別のわたしが空を見上げる。「しょせんは動物の、しょせんは肉体の一部。サーモグラフィーや顕微鏡に頼らないと視覚化できないものがあるように、魂や霊が肉眼で見えるわけがない。普通はね」
「でも……、師匠やわたしには霊が見える」
「それは目で見ているのではないわ。六感が捉えたものを、視界のなかに描写しているだけよ。脳のなかでミックスさせているだけ」
まばたきをひとつする瞬間で、別のわたしはこちらの背後に立っていた。一瞬で移動した。
「ほら、これ」
おどろきながら、わたしは振り返る。
「なに……?」
「写真よ。ただの風景写真」
見覚えのある風景だった。田んぼが広がる、一本の道。ゴミ出しに行った朝に通った道。うちの近所だ。そのときわたしはパジャマ姿で、だれにも会いたくなかった。
「これに、この切り絵を重ねる」
別のわたしは、人間の切り絵を風景写真に重ねた。
切り絵は、中年女性の姿を写している。
「あなたは、この女性の霊を見たとき初めて霊感を自覚した。でも信じたくなかった。白夜くんに会って、家に帰っても怪奇現象に遭って、いたずらっ子の霊に右手を切られて、入院してからも霊に騙され殺されかけた。師匠に会って、身の丈とは程遠い事件に巻きこまれて。あげくの果て、狭界で死にかける。それでもまだ、あなたは思っている」
——霊感なんかいらない
「そんなわけ……」
「ない?」
「ない……」
「山を降りる必要はないわ」
「どうして?」
「死人みたいな顔をしている。このまま死んじゃえば楽よ。すべてから解放される」
「いやだよ、そんなの……」
「幽霊の仲間入りをすればいい。それとも、自分だけ都合よく成仏ができるとでも思っている?」
「まだ死にたくない! あなた、なんなの……」
「なんなのって。自分でしょう? 自分のこともわからないの?」
「こんなのわたしじゃない。あんたなんかわたしじゃない」
言葉をぶつけるもむなしく。
別のわたしは余裕を蓄えて微笑む。
見下すような笑みはこの短時間にして、すでに見飽きた。
「なら自己紹介をするわ。——わたしは毒。あなたが生まれもった毒。ついさっき、受け入れて生きいくと決めたモノ」
「そんな……。毒は……、霊感のことで……」
「あってる。けど、まちがってる」
「なに? なにが言いたいの」苛立ちが声に出る。
「あなたが抱える、ほんとうの毒——それは」
己を否定しつづける、自分自身
別のわたしが言うと空が真っ赤に染まった。夕焼けとは程遠い赤。血の色みたい。それにおどろいていると、どぽん、と音がしてわたしは水のなかに落ちた。いままで水面に立っていられたのに。
不思議と息はつづいた。
水の冷たさは感じない。
髪は凪いでいるけれど、濡れてはいない。
服も乾いたままだ。
海底の暗さ。
てんてん、と光の粒が見えはじめ、それが星だとわかった。
すると足下に月が現れる。
黄金色の月。
カーベットほどの直径。
だんだんと欠けていき、三日月になる。
そして響く女の笑い声。
ああ、聞き覚えがある。
普段の様相とはかけ離れているけれど。
これは——わたしの声だ。
「やめて」
「なにを?」
「笑わないで」
「あなたでしょう? あなたを笑っているのは、あなた自身」
「ちがう」
「どうちがうの? いままでもそうだったじゃない。他人と比べる。芸能人と比べる。お店を歩いていても、すれちがう美人と自分を比べる。なにか賞を取ったという人がいれば、それがテレビのなかの人だろうがおなじ学校の人だろうが羨んでいたじゃない。そして決まり文句を頭のなかで言う」
——わたしにはなにもない
「やめて」
「なにもないから、いてもいなくてもおなじ。他人にはとるに足らない存在。死んでもだれも困らない。いっそこのまま永遠に——」
「ちがう」わたしはさえぎった。
「なにがちがうの? 本心でしょう?」
「いままでは本心だったかもしれない。これからはちがう」
「どうしてそう言えるの?」
「わたしは……、まだ死にたくない」
「理由は? これからも生きる、その意味は?」
「……もっと多くの人を助けたいの。こんなわたしも、だれかの役に立てる気がする。いまはそう思える。なんだか死ぬのが、もったいない、と、いうか……」
わたしの
「やっぱり自信がないのね。情けない」
「……最初から自信のある人なんて、いないよ」わたしは右手に拳を作った。「自信がないから、自分の使い方を必死に考えるんだよ、なにがわるいの! あーするべきだ、こうでなきゃいけない——そんな言葉はもううんざりだよ! 決められた世間の型にはめようとする外側の言葉になんか従いたくない! わたしは人形じゃない!」
いま思っていることを、最後の言葉を別のわたしにぶつけたとき。この夢は覚めるとわかった。離れられると確信した。言う前から、胸がスッと軽くなるような、そんな感覚がした。
わたしはもう迷うことをおそれない。
自信がないことを恥じない。
情けなくていい。
不安になっていい。
泣きたいときがあっていい。
弱い自分を認める強さがほしい。
ほんの一瞬でも、生きててよかったと思える瞬間が来るのなら。
だれかのありがとうに出会えるのなら。
その一瞬のために、目の前のささいな一歩を繰り返していたい。
ほんとうの毒は、
「だれかの指図ではなくて。自分が決めた自分を生きたい。それがわたしの意思だよ……」
海の青さが、一瞬にして空の青に変わる。
すぐに視界は真白に染まった。
風に包まれて、雲のなかを飛ぶ。
さらに強い光へ向かっていく。
カメラのフラッシュよりも明るい光。
けれど、不思議と目は開けていられた。
夢と現実の境目と思われる光景が過ぎる刹那。
時間が止まったような感覚がした。
体感にして一五秒ほど。
そのあいだに別のわたしが言った。頭のなかで声がした。
「他人の視線。他人の意思。他人の思惑——すべてまるっと無視して、さっさと自分の時間にもどることね。最初から自由なのに。なにを不自由なつもりになっていたの。あんたって、ほんとうにばかよ」
景色は滲んでいる。
茶色の屋根がおぼろげに見えた。
心配そうに顔を覗きこんでいるのは、たぶん上田さんだ。
頭の上で落ち着かない足音を鳴らしているのは師匠だろう。
長いこと気絶していたのだろうか。
迷惑をかけたな、と思った。
そういえば、わたしはどうやって狭界から脱したのだろう。
記憶がたしかなら、わたしはシラツユさんに食べられたはず。あの状況で、疲労困憊だったはずなのに、もう一度大蛇の姿になってくれた。門から首を伸ばして、わたしの魂を食べて……。それから、どんな風に吐きだされたのかわからないけれど。幽体離脱したわたしの魂は、あるべき場所——肉体にもどった。
ただでさえ暗い本谷さんの小屋のなかは、昼間よりもさらに暗澹としていた。陽が沈んだ、ということだろう。ぱちぱちと暖炉の薪が音を鳴らす。その優しい熱が肌に届くと、居心地のよさを感じた。いまは初夏だが、湖畔の夜は冷えるみたい。暗くて、山賊の根城みたいに不気味だけれど、この静けさはいい。
「マリちゃんは?」
目が覚めて放った、わたしの第一声だった。
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