ー7ー


 マリちゃんはゆっくりと歩きだした。そのまま切り株のあいだを通る——その瞬間、空気が急に変わった。パキッ、と別の世界に切り替わったような感覚が全身を突き刺してくる。師匠が突然走りだして、マリちゃんの腕をがしりと掴んだ。それを見たのが最後で、さらに濃い霧が視界を包んだ。前後左右が完全にわからなくなった。


 ……りん

 ……りん

 ——りん


 その鈴音は、遠くで聴こえているのかと思うほどちいさな音からはじまって、だんだんと大きくなって、耳の鼓膜がぶるぶると震えるほどの大音になった。視界は変わらない。なにも見えない。


 ……りん

 また鳴った。

 ——りん

 いままででいちばん大きな音だ。


「殺した」


 大人の女の声だ。はっきりと、スタジオで録音された音声みたいにまったく反響がなかった。


 またこれか、またこの感じか、とわたしは反射的に思った。しかし今回はこれまでにない強い殺気を感じた。自分に向けられたものでないとしても、その場から全力で逃げたくなるほどの。


 ——上田さんと、本谷さんがなにかを叫んでいる。慌てるような声。しかしそれは、さっき聞いた女の声とはひびきがまったくちがう。海中で喚く声のようにこもっていて遠い。


「おい、どうした」

「なんだ、なにが起こった!」

「どこに行ったんじゃ!」

「おい、起きろ、マリちゃん!」


 さわぐふたりの声がさらに遠くなっていく。

 数秒もしないうちに、わたしはひどい眠気を感じた。

 真っ白だった視界は、閉じたまぶたのせいで漆黒に染まった。



 体を起こそうとしたとき、腰が軋んだ。ずっと板の上で寝ていたように全身が固まっている。まぶたを強くつぶって、何度か瞬きをした。視界を整えようとしたが、焦点がいうことを聞かない。


 立ち上がろうとした。腕を畳に押しつけただけで全身が痛んだ。それでいて、足元が浮いているような、おかしな感覚がする。中腰になったところで、頭のてっぺんになにかが当たった。人間の足につつかれたような感触だ。


 違和感は寒気に変わり、鳥肌が両腕を走る。眼前——すこし見上げたところ——に見えた光景にわたしは絶句した。


 何人もの人間が首を吊っている。毛羽だった茶色の縄が頚椎の深くで食いこんでいて、全員、髪からつま先までびしょびしょに濡れていて、顔はむくんで膨れあがっている。泥が塗られているのか、全身がやたらと汚い。手や足の先からぽたぽたと雫が落ちていて、それは濡れて変色した畳をさらに濡らしつづける。全員、明治くらいの着物すがたに見える。


 起き上がろうと手をついたとき、畳の目に爪が食いこんだ。そこではじめて、どことも知れない和室のなかにいるとわかった。


 三六〇度をぐるりとたしかめた。黒い皿に穿たれた蝋燭が等間隔でならんでいて、不気味な光量の火を灯している。


 揺れるオレンジ色の光に照らされる壁面には赤い札が何枚も、何枚も、壁紙の色がわからなくなるほどの数が貼られていた。それぞれの札には墨でなにかの文字が書かれている。すくなくとも現代語ではない。


 真上に視線をやると、人の足があった。もし上を見ずに立ち上がったなら、そのだらりとぶらさがっているだけの足に頭をぶつけていただろう。


 どうにか進める方向を探して、四つん這いでの移動を試みた。後頭部や背中に雫が落ちてくる。それが死体から垂れてきていると思うだけで吐き気がした。


「し、師匠?」


 震える声を投げた。返事はなかったが、あと一〇歩分進んだところに障子があることに気づいた。


 わたしは障子に近づいた。

 手を触れて、すっ、と開ける。

 木製の床が見えて、一メートルないくらいの距離に壁があった。廊下に出たらしい。右に、左に、廊下はつづいているが、どちらも奥が真っ暗でよくわからない。


 ——りん


 右から鈴音が鳴った。

 そちらに目をやる。

 雫が落ちて、右手の甲が濡れた。

 それが自分の冷や汗なのか、首吊りの死体から垂れた水分なのか、いまは考えたくない。


 ひた、ひた、ひた


 奥から足音が聞こえる。

 濡れた裸足が、床板を舐めるような。


 ひた、ひた、ひた


 だんだんと近づいてくる。


 青白い足が見える。細い足。

 白い生地の着物は、ぎりぎりのところ床に当たらず空を滑っている。生地に紅い花が刺繍されているが、その種類は不明。


 すると、ぼうっ、と音が連続して鳴った。


 廊下の壁に備えられていた蝋燭が一気に灯った。いままでその存在すら気づかなかった。黒い受け皿に穿たれている蝋燭それは、何度も融けては固まってを繰り返したようで、魔獣のよだれみたいにひどい見てくれだ。


 白い着物がオレンジ色に照らされ、刺繍された紅い花の色が炎のように煌って見えた。


「さぁ。ならんでください。あなたもみんなとおなじになりましょう」


 着物の女が言った。その顔を確認しようとしたが、長い黒髪に覆われていて見えない。


「い、いやだ……」わたしは本能で答えた。

「そうですか」


 女は一歩進んだ。

 わたしは廊下に這い出て、どうにか立ち上がった。女とは反対側を見ると、漆黒の廊下がずっとつづいていた。逃げられるのだろうか?


「あ、あなたは……? ここはどこ?」


 いつでも逃げられるようにしつつ、わたしはあえて問う。


「わたしは——」女の言葉にはざらざらと雑音が混じった。まるで調子のわるいラジオみたいに。

「え……?」


 緊張のあまり、まばたきを忘れていたわたしの目は乾きを訴えた。ぱちり、と思い出したようにまぶたを動かす。その一瞬で、女は数歩分移動していた。近づかれると条件反射で逃げたくなるもの——わたしは踵を返した。女に背を向けた。


 手首にひどい圧迫感が走った。

 全身の血の気が引いた。

 なにが起きたのか見ずともわかった。

 いままちがいなく、女がわたしの左腕をがしりと掴んでいる。


「どうぞ、こちらへ」


 女の吐息が耳に触れる。冷たく鋭い空気が左の頬を凍らせた。瞬間、わたしは念力のような力に投げ飛ばされて、さっきの部屋に押しこめられた。いくつかの首吊り死体にぶつかりながら、最後には壁に背を打ちつけた。


 障子が強く閉められた。部屋に女がいる。気味のわるい音が何度も鳴ったかと思ったら、首吊りの死体が次から次に落下して、畳を転がりはじめた。それはつまり、女の歩調に合わせて、彼女が歩いている場所から順番に落下していた。


 来るな、こないで、やめて。


 どれを叫んでも正解だ。

 しかし、どれを叫んでも意味がないとわかる。


 女はゆっくりと、確実に歩を進めて、壁際で怯えるわたしに近づいてくる。彼女の手元で銀色が光った。短刀だ。ふと、一部の転がっている死体の浴衣がはだけて、胸元が露わになっていることに気づいた。乳房のふくらみを丸ごと無視するような赤黒いバツ模様が肌に刻まれている。それは短刀で深くまで抉られた傷だと直感した。


 浅い呼吸を三度ほどすると、女は目の前にいた。


 まずわたしの首を片手で締めあげて、それから短刀を逆手に持った。叫ぼうとして口を開けたとき、女の長い髪が何本か舌に触れた。


「ならんでください。みんなと一緒に。どうせ流されるのだから」


 女の声。

 甲高い耳鳴り。

 低く音程で一定のリズムのお経がそこかしこで響きはじめる。

 気が狂いそうだ。

 いや、もう狂っている。

 状況も原因も理由もわからないまま。

 わたしは首吊り死体の仲間入りをするのだろうか。


 直後、半秒ほど景色が真っ暗になった。

 わたしは女の腕を掴み返していた。

 無意識だった。


 あついあついと女は喚きだし、

 ついにはその全身が紫炎しえんに焼かれはじめ、

 長い前髪が乱れに乱れ、

 ぎろりと怨恨に満ちた彼女の片眼が見えた。



 ・…………………………・

【同時刻。本谷と上田に起きた事象】


「お、おい、しっかりせんか!」


 本谷は、意識を失った誠子マリちゃんを抱き起こして揺さぶった。


「そんであいつらはどこへ行ったんじゃ! 急にすがたが見えんくなったぞ! あの鈴の音はなんじゃ! 猟友会が来るなんて聞いとらんぞ!」

「鈴? そんな音したか?」上田が答える。

「霧も濃くなりよって……、こんなときに獣に襲われでもしてみ! 太刀打ちできんぞ!」


 その不安を嘲笑うように、どこからともなく低い音程の唸り声が聞こえはじめた。ヴアー、ヴアー、という独特な響き。その声をよく知っている本谷は背筋を凍らせた。同時に戦う姿勢をとらねばならなかった。


「おい刑事、銃じゃ。銃を持て」本谷が言った。

「なんだって?」上田が答える。

「やつが出よった。きょうはでんでついとらん」

「それってつまり——クマのことか!?」


 そのとおり、と答えるように唸り声は量を増した。びちゃびちゃと口のまわりを整えているような音も混じっている。


「何匹いるんだ?」


 目つきを戦闘モードにして、上田は顔をこわばらせる。


「すくなくとも二……、多くて四か。子クマも混ざっとるかもしれんが、大人のは二匹いると思ったほうがいいじゃろう。にしても変じゃな。唸り声の他に人間の声みたいなんも聞こえとるような……」

「人間の?」


 上田は息を止めて耳を澄ました。




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