ー2ー


「おうい、まじかよ……」上田さんは猫背になってハンドルにしがみついた。「じゅういち、これってまさか……。あっちの世界に飛びこんだんじゃぁ、ねぇよなぁ……」

「それはない。ただの霧だ」


 師匠は茶化さず、まじめに答えた。しばらくして霧を抜けると、だだっ広い空き地が現れた。


 雑草なのか苔なのかはっきりしない緑色の植物が、濃茶の地面をまばらに塗っている。アスファルトは見当たらない。車は徐行で進む。タイヤに砂利が食いこむ音が車内に満ちた。


 人がいたらしい形跡といえば、錆びた鉄のポールとひどく黒ずんだロープの柵だけだ。それはおそらく、いちおうではあるが駐車場の範囲を教えているのだろう。と警告するロープにも見える。


「こんな場所があったとはな……」上田さんも初めて訪れる場所らしい。「マリちゃんは、こんな場所に何度も来たのか? いったいどうやって……?」

「ここへ来る前、釣具屋さんがあったでしょう? あそこで待っているとね。この湖に来る釣り人さんに会えたりするの。うちの手は透明だから、お墓をいじれないし。だから、人間として山に行きたかったん」

「なにも釣具屋で待ってなくたって、この湖でずっと待ってたらよかったんじゃないか?」


 そう言って上田さんは車を停めた。シフトがパーキングに入る。


「それができないんだよ。あんたにはわからないだろうがな。湖は霊が多い。多いなんてもんじゃない」


 たしかに師匠の言うとおり。

 わたしはいまとても気分がわるい。

 顔が真っ青になっていると思う。


 車窓から見えるだけでも三人の霊がぼんやりと地面を見つめて立っているし、そのうちのひとりがこちらを向いてニヤリと笑うまで車窓に顔を向けていられたが、もう無理だ。運転席の背中から目を離せずにいる。


 呼吸が大げさになるし、まばたきをする余裕すらない。 まだ湖そのものを見ていないのに、これだ。この奥にはどれだけの霊がいるのだろう、考えただけで吐き気がする。


「善良な霊だったのに、わるい霊の波動にひっぱられて、気づいたら悪霊になっていた、なんてよくある話だ。それを避けていたんだろう? 水の近くには霊が集まる。どんなやつだろうが、集まってくる。そんな場所にずっといたら、自分が自分じゃなくなる」


 師匠が言うと、マリちゃんはうなずいた。


「人間も、生まれた瞬間から悪に染まっているやつはいない」師匠はつづける。「いろんな縁や環境によって思考が歪むから悪人になる。上田あんたならよく知っているだろう」

「なんだ、幽霊にもそれなりの人間関係みたいなのがあんだな」


 わかっているのか、いないのか。

 上田さんは間の抜けた口調だ。


「でもよ、ともあれ、人に取り憑くなりして湖には来られていたんだろう? なんでいままで肝心の山奥に行けなかったんだ?」

「船に乗って、湖を渡るとこまで行けたとしても、それ以上、行けなかった。とても強い世界を持つなにかが、山におるから」


 マリちゃんが言うと、師匠はとたんに真剣な雰囲気をまとった。


「世界……。狭界をつくるほどのやつか?」

「……言葉は知らないけど。それはわるい幽霊で片付けられるほどのもんじゃない気がするん」

「いつからだ」

「ずっとだよ。何十年も、ずっと。そいつは山にいる」

「そいつのせいで、いままで行けなかったのか?」

「そいつの世界に近づくとね、うちの憑依はだめになってしまうん」

「——憑依の相性……」


 師匠は考えこむように言って、鋭い目つきを横に流す。


「借り物の躰だと、うちの魂はすぐに息を切らしてしまう。憑依が崩れてしまうん。でも、この誠子さんなら大丈夫な気がするん。——フィット感? って若い人が言うやつかな。今日なら、山に行けそうな気がする。わるい霊がつくる世界にも勝てそうだよ」


 師匠とマリちゃんにしかわからない会話だった。口を挟む隙を見つけられず、わたしと上田さんは沈黙に置かれた。


「自信がありそうだな」


 頭のなかで結論が出たような仕草をしてから師匠は言った。


「うん」マリちゃんは笑みを浮かべた。「心強い用心棒さんもいるからね。今日はうち、自信あるよ」



 後部座席のドアが開いた瞬間、全身を氷に舐められたようなひどい悪寒を感じた。首から下の皮膚がすべて鳥肌に覆われているのはまちがいない。


 師匠を追うようにして、わたしたち全員は車から降りた。周囲は葉色の濃い針葉樹に囲まれていた。木々のあいだには光が十分に届いておらず、気味のわるい闇が景色の隙間を埋めている。


 足元はやわらかい砂利に埋め尽くされていて、靴底が沈む感覚がした。地面の土そのものが、すでにぬかるんでいるのだろうか。やわらかい砂利——だなんて、自分でもおかしな表現だと思う。


 見上げると、丸く切り取られた鈍色の空が見えた。深森の中心にぽかりと開いた穴に落とされた感覚がする。天気はそこまでわるくないはずだ。が、霞が濃いせいですっきりとした空模様には見えない。どこもかしこも、うすく白っぽい霧が立ちこめている。まるで別の世界に投げだされたような心地が胸に満ちた。


「さぁ……、行くか」


 意を決した師匠の凛とした、頼りになる佇まい、精悍な顔立ちにいま、わたしのうぶな女心が一気に掴まれてしまった。なんとも不甲斐ない。しかしその眼福感も、ほんの束の間のことだった。


 包帯が巻かれた右の拳はぎゅっと握られていて、わずかに震えていて、押し寄せる不安の波をどうにか堪えているようで。


 霊感持ちが心霊スポットに訪れることがどれだけ難儀なことか——それを然りと訴えているように思えてならなかった。


 インバネコートのシワをはたいて、師匠は歩きだした。生きるか死ぬかの闘いに臨む戦士のような背中につづいて、わたしたちもつづく。



 霧深い林道を歩いて一〇分が経った。時間を確認するために、手元のスマホへと目を落としたとき、電波のマークが真っ赤になっていた。圏外の表示だ。人を不安にさせるのが好きな端末だと思った。なぜ電波が届かないのかを考える気にはならない。心当たりが多すぎる。


「さっきから湖畔管理事務所とかって看板が立っているが……。ほんとうにそんな建物たてもんがあんのか?」


 半ば文句を垂らしながら上田さんは先頭を歩く。いちおう道らしい道を歩いているとはいえ、この鬱蒼として不気味な林のなかに小屋のひとつでもあれば、それこそ不気味だ。


「人はおるよ。矢島さんていうおじさんが、ずっとこの湖を守ってるん」

「会ったことはあるのか?」


 師匠がマリちゃんの背中に問う。


「あるよ。うちが……、っていうか。うちが憑いていた人が、会ったことある。船も出してくれたよ」

「このまま歩いて山のほうにむかおうとしても、まずは湖を渡らなけりゃならねぇ。だからの仕事もしてくれているんだな。その矢島さん、生きててくれたらいいけどな……。しっかしきょうは右の足首が痛むな……」


 苦い口調で言ってから、上田さんは周囲を見渡した。なにか敵の襲来でも警戒しているかのようだった。さきほどから一定の間隔で霊がそこらへん突っ立っているのを、上田さんも六感かなにかで察しているのだろうか。


「仮に死んでいたとしても、代わりのだれかが事務所にいるだろう」と師匠が言う。

「おまえなぁ、そんなふうに人の生死をスナック菓子みたいに軽くしゃべるんじゃねぇよ」


 上田さんは歩き疲れたのか、すこし息が上がっている。


「なんだ、まだ冗談を言う元気があったんだな」師匠は無表情で、「あんたの右足首をずっと、肘のあたりで千切れた男の手が掴んでいるが。なんだ、大丈夫そうならこのまま進もう」

「あ!?」


 上田さんはひどくおどろいて、すぐに立ち止まった。まぶたを全開にして、まんまるの白目に点みたいな瞳孔を剥き出しにして、自分の足を確認した。まるでビッグサイズの昆虫が突然足にひっついたかのような大慌てだ。


「お、おい、どこだよ、おれの足を掴んでんのか!? じ、じゅういち、早く、早くとってくれよ!」


 頼まれた師匠はため息を混じえながら、上田さんの足に手を伸ばした。汚いゴミでもつまむような手つきで、千切れた片手の霊体を拾い上げた。そのまま師匠は親指を人差し指だけでそれをつまんで、ぶらぁ、ぶらぁ、と揺らしてみせる。


「こんなものにビビってたら、この先は無理だぞ、上田」師匠はまぶたを半分にした。

「無理だなんだって、その前に霊が見えてねぇんだよ! おれぁ!」上田さんは冷や汗を拭いながら、「あ……、でもなんだか足が軽いな。痛みがすっ……、と引いた感じがするぜ。やっぱりじゅういちはすげぇな」

「上田ほどの無感に霊障が効いているのか、あやしいところだがな」


 覚めた口調で師匠は言った。そして指でつまんでいる千切れた片手の霊体に鼻を近づけて、くんくんとにおいを嗅いだ。


「こいつ、おかしな死に方をしているな……」師匠は視線を真横にずらして、眉をしかめた。

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