この恋は、まだ春を知らない

小林 雄次

第1章(1)初恋の予感

 息苦しかった。


 古文の授業で、またあの感覚がやってきた。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、喉元に何かが詰まったような窮屈さ。県立桜坂高校、この地元でも指折りの進学校の教室で、私は息ができなくなりそうだった。


 教室の窓から見える校門の両脇には、葉を茂らせた桜の木が並んでいた。四月に散った花びらの記憶だけを残し、今は深緑の葉だけが風に揺れている。あの桜が咲く季節が私は苦手だ。桜の花びらが舞う様子が、あの日の記憶と重なって、胸の奥が痛くなる。


「先生、体調が悪いので保健室に行ってきます」


 佐々木先生は漢文の訓読に夢中で、私の方をちらりと見ただけで頷いた。教室を出る時、クラスメイトの視線が背中に刺さる。彼らは知っている。山﨑陽菜はるなはよく保健室に行く。授業から逃げている、と。


 別に反論する気はなかった。そうかもしれない。でも、それが何?


 長い廊下を歩きながら、締め付けられていた胸の圧迫感が和らいでいく。六月初旬の陽光が窓から差し込み、廊下の床に明るい四角形を描いている。外では体育の授業が行われ、男子たちが騒がしく走り回る声が聞こえた。窓の外に視線を向けると、校庭の向こうに並ぶ桜の木々が、初夏の陽炎に揺らめいていた。


 夏服に切り替わったとはいえ、桜坂高校の紺のブレザーは蒸し暑かった。入学時は憧れだったこの制服も、真夏が近づくこの季節には拷問道具と化す。首元のリボンは汗で湿り、背中にシャツが張り付く不快な感覚が常にあった。


 保健室のドアを開けると、中は静まり返っていた。誰もいない。牛乳色のカーテンが風もなく垂れ下がり、窓からは木漏れ日が差し込んでいた。消毒薬の匂いと微かな緊張感が漂い、どこか安心感をもたらす。


「先生?」


 声をかけても返事はない。今村先生はまだ学校に来ていないか、どこかに出かけたのだろう。


 バッグからスマホを取り出し、AirPodsを耳に入れる。Spotifyを開き、あいみょんの「マリーゴールド」を再生。柔らかなメロディと共に歌詞が心に染みる。音楽が流れ始めると、一気に現実から切り離された感覚になる。


 制服のまま白いベッドに横になると、カーテンの向こうから覗く青空が目に入った。浮かぶ雲の形を追いながら、私はゆっくりと呼吸した。締め付けられていた胸が解放されていく。


 ブレザーのボタンを上から二つほど外し、首筋に溜まった熱気を逃した。オレンジの香りが鼻をくすぐる。朝シャワーで使ったボディソープの香り。水滴が肌を伝い落ちる感覚。束縛から解放された瞬間の開放感。保健室という避難所の静寂が私を包み込む。


 部屋には誰もいない。その確信が、私の身体から緊張を解き放った。保健室の時計の秒針が規則正しく動く音だけが静寂を破る。


「また、ここに逃げてきたのね」


 心の中で母の声が響く。完璧を求める母の声。小学校の頃から、テストで95点を取れば「あと5点は?」と言い、中学の時も「普通」という言葉を嫌った母。「山﨑家の子として恥ずかしくない振る舞いを」と口癖のように言っていた。そんな母に「演劇部に入りたい」と言った時の冷ややかな表情が脳裏に浮かぶ。


 私はぼんやりとした気分で、膝を立ててスカートの裾をバタバタとさせた。熱気を逃がすような、子供っぽい仕草。でも、ここなら誰にも見られない。誰にも判断されない。保健室のベッドは、私だけの小さな舞台。誰に見られなくても、完璧を求められなくても、自分だけの時間を持てる空間。周りのギャル系の子たちみたいに、最初から制服のスカートを短く裁縫し直すほど大胆でもない私だけど、一人の時くらい自由にしたい。


「いい風景だね」


 突然聞こえた低い声に、私は飛び上がるように上半身を起こした。AirPodsを慌てて耳から外す。


 足元に見知らぬ男性が立っていた。黒いスーツに身を包み、少し長めの前髪が時折目にかかる。左手で払う仕草がある。きちんとアイロンのかかったシャツは真っ白で、タイはネイビー。端正な顔立ちと、どこか知的な雰囲気を漂わせている。


 私と目が合うと、彼は薄く笑った。その笑みには皮肉が混じっているような気がした。上質な大人の男性特有の余裕を感じさせる表情。


「あ...!」


 慌ててスカートを整え、足を閉じる。頬が熱くなるのを感じた。下着を見られたかもしれない---その羞恥心と恐怖で全身が硬直した。中学の時の悪夢がフラッシュバックする。文化祭の舞台で固まった私を誰かが撮影していた恐怖。またSNSにアップされる。そんな思いで頭がいっぱいになった。


「いつから...そこに?」震える声で尋ねた。


「君が天井を見つめ始めた頃からかな」彼は涼しい顔で答えた。「見られたくないなら、人のいない場所でスカートをバタつかせるのは避けた方がいい」


 その言葉に、恥ずかしさと怒りが一気に湧き上がった。


「あなた誰!?」


「瀬名たくみ。週一でカウンセラーを務めることになった」彼はポケットから名刺を取り出した。動作に無駄がなく、洗練されている。若く見えるが、大学生ではない。


「君が山﨑陽菜さん、高校3年生だね。よく保健室に来るって聞いていた」


 私は名刺を受け取らず、睨みつけた。「そうやって女子生徒を覗くの?変態じゃない?」


 彼の表情が一瞬硬くなり、それから皮肉めいた笑みを浮かべた。その表情の変化を見逃さなかった自分に、小さな勝利感を覚えた。瀬名匠という男の防壁に、一瞬だけひびが入ったような気がした。


「いくつなんですか?大学生みたいに見えるけど」思わず聞いてしまった。


 彼は少し意外そうな表情をした後、「二十五だよ。君より七つ上だ」と答えた。その返答の仕方にも、大人の余裕が感じられた。


「ここは私の勤務場所だ。むしろ君こそ、授業をサボって保健室でくつろぐなんて、どうかと思うけどね」


 彼の冷静な反論に、さらに頬を赤らめた。白いシャツの襟元から覗く鎖骨のラインが妙に目に焼き付いた。確かに私が悪いのかもしれないが、それでもこの男の対応は最低だと思った。


「帰ります」


 私は冷たく言って立ち上がった。


「どうぞ。授業に戻るんだろう?」彼の声には皮肉が含まれていた。「それとも、また別の場所で休憩?」


 振り返らずにドアに向かった私だったが、その言葉に足を止めた。まるで私の心を読まれたかのよう。実際、私は教室に戻るつもりはなかった。


「あなたにそんなこと言われる筋合いはないわ」胸の内で沸き起こる感情を抑えながら言った。


 彼はあっさりと認めた。少しだけ意外だった。


「でも一つだけ忠告させてもらうと---」


 彼は窓際に歩み寄り、校庭を見下ろした。五百人ほどの生徒を抱える桜坂高校の敷地は意外と広く、窓からは体育の授業中の生徒たちが汗を滲ませて走る姿が見えた。その先には校門、そして並木道のように続く桜の木々が緑濃く茂っていた。


 彼のシャツの襟元から漂う柑橘系の香りが、部屋の消毒薬の匂いに重なる。男性の香水の香りに、私は思わず息を飲んだ。妙に大人の存在感を感じさせる匂い。


「逃げ場所を失った鳥は、遅かれ早かれ巣に戻らざるを得ない。その時が来る前に、自分で戻る勇気を持った方がいい」


 その言葉は妙に心に刺さった。「逃げている」と言われるのは初めてじゃない。中学の担任にも言われた。でも彼の言い方には何か違うものがあった。単なる非難ではなく、もっと深いところを見透かされたような不思議な感覚。まるで私の心の奥底にある恐れや不安を、この初対面の男性が一瞬で見抜いたような。


 私は身震いした。でも彼に理解されたなんて認めるわけにはいかなかった。私はただ無言で、早足でドアを開けて保健室を後にした。廊下に出た途端、目に涙が浮かんだことを誰にも見られなくて良かった。


 最悪だった。


 最低の出会いだった。


 私は瀬名匠という名前を頭の片隅に刻みつけた---絶対に関わりたくない相手として。しかし同時に、初めて私という人間を見透かした大人として。


 空は相変わらず青く、校舎の廊下には陽光が差し込んでいた。窓から見える桜の木々は、青空を背景に深い緑の葉を茂らせている。あの桜が再び花を咲かせる頃には、私はどうなっているのだろう。そんな漠然とした思いが浮かぶ。


 白いシャツの襟元のボタンを一つ外し、夏の風を肌に感じながら歩いた。でも何かが変わった気がした。私の心の中に、小さな亀裂が入ったような。そして、その隙間から少しだけ、新しい風が吹き込んできたような気がした。まだ春を知らない私の心に、変化の予感が漂い始めていた。

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