第34話 彼と彼女の事情

 焼きたてのパンや色鮮やかなサラダ。

 そして、こんがりと焼かれた肉のグリルに煮込まれたスープ。

 たくさんの料理がテーブルに並べられていて、部屋の中は温かな香りで満たされていた。

 

 リビングにはにぎやかな声が飛び交い、笑い声が絶えず響いている。


 フォークを手にしたマナがふと視線を上げると、向かいのアルトがパンをちぎりながら肉にまで手を伸ばしているのが目に入った。

 

「アルト、美味しいのはわかるけど食べ過ぎじゃない?」


 口元に苦笑いを浮かべて軽く首を傾げるも、アルトは気にする様子もなく、にっと笑ってパンを口に放り込んだ。


「そうだよ! 兄ちゃん一人で食べすぎだよ!」


 アルトの隣に座るタクトが頬を膨らませながら抗議する。

 とはいえ、その目はどこか羨ましげだった。

 自分も兄と同じくらい食べられたらと、そんな思いが伝わってくる。

 

「俺は、たくさん食べて強くなるんだよ」


 アルトは得意げに言い放ち、豪快に肉料理へとかぶりついた。


「じゃあ僕も! たくさん食べて強くなる!」


 タクトも負けじとフォークを握りしめ、意気揚々とパンを口へ運ぶ。


「二人とも、むせないように気をつけてよね」


 目の前で競うように食べ続ける兄弟を見て、マナは小さく苦笑する。

 それでも、無邪気にはしゃぐ二人の姿はとても微笑ましい。

 

 クロエとリラも、そんな三人を見て顔をほころばせていた。

 

 …………

 ………

 …

 

 食事が終わり、テーブルの上にはきれいに空っぽになった皿やコップが並んでいる。

 みんながそれぞれの席でくつろぎ、軽い会話が続いていた。


 マナは席を立ち、皿を片付けながら少し考え込んでいる。


 ──みんなと過ごせる時間も、あと少し……。


 現実を噛み締めるように深く息をつく。

 テーブルに振り返ると、みんな何気なく楽しそうに過ごしていた。

 当たり前だった景色が、明日からは思い出に変わる。

 寂しくも思ったが、そんな時間を一緒に過ごせたことが、今は何よりも幸せだと感じた。


 ──この時間があったから、私は頑張ってこれた。だから、この先もきっと……。


 顔を上げて、胸を張る。

 そして、目の前の景色をまっすぐ見つめながら口を開いた。


「みんな、ありがとう」


 マナは一人ひとりの顔を見渡しながら息を整え、再び言葉を続ける。


「明日、私は旅に出ます」


 その言葉にみんなが動きを止め、マナと目を合わせた。

 けれど、それは驚きの反応ではない。

 どこかで覚悟していた、そんな表情だった。

 きっとマナがこの言葉を口にするのを、みんな待っていたのだろう。


「マナちゃんなら大丈夫! おばさんは、ずーっと応援してるからね!」


 重くなりかけた空気を吹き飛ばすように、リラが満面の笑みを浮かべる。

 

「そうね。マナなら立派な聖女になれるわ」

「僕も応援する! マナがんばれ!」


 リラに続くように、伯母おばもタクトも励ましの声をかけてくれた。

 けれどその中でただ一人、アルトだけが黙ったままだった。

 うつむいたまま、じっと手元を見つめている。


 ──アルトとは、ちゃんと話そう。


 小さく息をついて、彼に微笑みかけた。

 

「……アルト。一緒に外、出よう」


 呼びかけた彼の肩がわずかに揺れる。

 しばらく沈黙が続いた後。


「……おう」


 ゆっくりと顔を上げたアルトがそっけなく答えた。


 マナは玄関へ向かい、扉を開ける。

 彼が無言のまま外へ踏み出すのを見届け、自身もその背中に続く。

 そして、そっと扉を閉じた。


 夜空には星がまたたき、どこからともなく虫の音が聞こえてくる。

 いつもの平穏な夏の夜なのに、アルトの心は平常心を保てないほどにざわついていた。

 

 ──この瞬間を、覚悟していたはずなのに。


『明日、私は旅に出ます』


 そう言った彼女の揺るぎない瞳と声に、何も言葉が出てこなかった。

 マナの顔が見れなくて、じっと足元を見つめる。

 

「ねえアルト。あの木、昔よく登ったよね」


 不意にマナが口を開く。

 指差した先には、家のそばに立つ大きな木。

 幼い頃、何度も登った思い出の木だった。


「そうだな。枝を何本も折って、よく母さんとクロエおばさんに怒られた」

「懐かしいね」


 マナがくすくすと笑い、顔をこちらへ向ける。

 

「あの木の下まで行こっか」

「ああ、行くか」


 そう返事を交わし、昔の記憶をたどるように歩き出す。

 すぐに、木から落ちて泣き出した幼少期のマナを思い出した。

 わんわんと大声をあげて泣いている彼女を慰め、不器用ながらに治療をした。

 今でもはっきりと記憶に残っている。

 

 ──あの頃のマナはまだ小さくて、泣き虫で、俺がそばにいなきゃって……。

 

 だが、横目で見たマナの横顔は、もうすっかり大人の顔をしている。

 一人でも立ち上がって、笑って、それは自立した女性のように見えた。


 木の下にたどり着くと、二人は幹にもたれるようにして腰を下ろした。


「怪我、大丈夫? 治癒魔法かけるよ?」


 マナは心配そうにアルトの顔を覗き込んだ。

 

「いや、大丈夫。これは勲章くんしょうみたいなもんだから」

「そうなの? なんか男らしいこと言うね」


 マナがふふっと悪戯いたずらに笑う。強がっているように見えているのだろう。

 だけど、この傷は勲章ではない。いましめと、けじめのようなものだ。

 マナに治してもらったら意味がない。

 

 頭上では夜風に揺れる葉が、時折ざわっと音を立てる。

 その音に誘われるように、彼女はふと明るく話を振った。

 

「ここに帰って来る前ね、木登りしようとしたの。でも、全然できなくてさ。昔はあんなに身軽だったのに、悔しーって思っちゃった」

「そりゃ、大きくなれば身体の使い方も変わるだろ」

「うん……そうだね。昔と同じままじゃ、ダメなのかもしれないね」


 マナは空を見上げて遠くの星々を眺めだす。

 その顔には、どこか凛々しさ漂っている。


 アルトは返す言葉が見つからずにいた。

 否定も肯定もできない自分が、もどかしくて仕方がなかった。


 やがて、マナがぽつりと問いかける。


「ねえ。アルトはどうして、一人でベルエスト山に行ったの?」

「俺は……」

 

 少し沈黙し、そしてわずかな誤魔化しを含ませて口を開く。

 

「自分の力を試してみたかった」

「それだけ?」

「……それだけ」

「嘘だよ」


 誤魔化した事実を見透かしたように、彼女はわずかに眉を下げて微笑んでいた。

 からかうようで優しい、それでいてどこか大人びたマナの表情が胸を締めつける。


 ──そばからいなくなるなら……。今すぐ抱きしめて、無理やりにでも……。


 と、一瞬でも考えてしまった自分にぞっとした。

 そんなことをしたら、きっともう幼馴染には戻れない。

 浮かびかけた衝動を振り払うように頭を振る。

 そして耐えるように深く息を吐き、視線を逸らした。

 

 うるさいくらいに鳴っている心臓の鼓動を抑え込むように、拳を握りしめる。


「……マナに近づきたかった。王宮から帰ってきたお前はすごく成長していて、このまま置いていかれるんじゃないかと思った。だから山頂まで行ったら、マナも俺のことを見てくれるんじゃないかと思った」


 驚くほど女々しくて、情けない理由。

 自分の強さを証明したかったわけでも、試したかったわけでもない。

 本当はただ、不安だっただけだ。

 マナが遠くへ行ってしまうことが、どうしようもなく怖かった。

 

「私はずっとアルトのこと見てるよ。置いてったりなんかしない。アルトだって、水魔法に風魔法だって使えるようになったんだから、すごいじゃない」


 月明かりに照らされている彼女の笑顔は、いつも以上に輝いていた。

 綺麗で嘘偽りないその顔に、心の片隅で切なさを感じてしまう。

 きっとマナには、言葉に込めた本当の意味は伝わっていないのだろう。


 ──マナらしいな……。


 自然体でいる彼女の姿に肩の力が抜け、ふっと笑みがこぼれた。

 

「……ありがとう、マナ。俺もお前が立派な聖女になれるよう、応援してるよ。そんで、俺ももっと魔法を極める」


 マナに追いつくため。

 いや、それだけじゃない。

 これ以上、誰かと比べるのをやめるために。


「うん、アルトならできるよ。私も応援してる」

 

 彼女は目を細め、誇らしげに微笑む。


 ──もう、あの頃とは違うんだ。


 月が煌々こうこうと光を落とし、風が木々を揺らしている。

 空を仰いだアルトは、ゆっくりと目を閉じた。

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