鎖骨上の葉
Leaves on collarbone
502号室
一つ詩を書くとしたら、僕は間違いなくあの風景について書くだろう。
僕の言葉が、まだこの世に音として残されていくなら、僕はあの木や、空の色や、窓枠の冷たさを、人間らしい言葉で表現するだろう。それから僕の言葉を聞いている物静かな機械に言うだろう。言葉一つ一つに、色や匂いがあると言うのを、そっと教えてあげるだろう。彼の陶器のような肌をなぞり、指の継ぎ目ひとつひとつを数えながら。
「人間はどうやって肌に墨を入れるのでしょう?肌に墨を入れると、その人間の老いるうちも消えないのでしょうか?」
「どこで聞いたんだい?そんな話」
僕たちは真四角の窓から遠くを見つめていた。空はうねりながら橙やブルーに色変わりし、丘の上には写真のように動かない奇妙な木も見えた。水平線に白い道が消えては現れていた。
「人間は肌に墨の針を刺して様々な模様を彫ると、隣人が教えてくれました」
「ペルネーだね」
「はい」
その時、後ろのドアがパタン、と軽く開いた。
「時間だよ!」
僕たちの隣人であるペルネーは嬉しそうにそう言った。その笑顔は小さなひまわりのようだ。
彼女はダンサーだった。いつも軽やかなステップを踏んでは、僕たちの病棟の長い廊下を、くるくるターンしながら渡っていく。
ペルネーはダンスを終える時、いつも僕たちの方を向いて、軽くお辞儀してみせる。それは拍手を待っているという合図だった。拍手がないと舞台は終わらないのよ、と彼女はいつも口癖のように言っていた。
だから機械の彼は、毎度拍手をした。でも、彼の手を叩く動きがあまりに遅いので、人間のように弾ける音は出なかった。代わりに、微かに金属の擦れる音がきいきいと鳴った。彼の指の関節の作りは、他の機械に比べてあまり精密ではなかったし、丈夫でもなかった。コップや絵筆をゆっくり持ち上げるので精一杯だった。
それでも彼は、僕の頬をピッタリと包むように指の形を合わせられるほどの繊細な動きができる機械だった。僕たちの世界では時間と空間は連動しているものだったから、小さな時間は、小さな空間でのみ観察されることができた。反対も然り、小さな空間には小さな時間が流れているのだった。
それを感じることが、僕の喜びだったが、それが、「繊細」と言う言葉一つでしか表せられないのは少し残念だった。
優しい、豊か、儚い、静か、小さい、透明、柔らか。
どの言葉も僕は満足いかなかった。だから僕はいつも文を書いた。
しかし僕たちの世界では、その時、文や言葉というのはあまり必要なものだとされていなかった。機械の彼を生んだ文明や考え方の方が重宝されていた。多くの人間はまだ縦方向に物事を考え、その先に明るい未来があると信じていた。過去は未来に向かって一直線に前進し、解決と改善がいつもそこにあると技術者たちは考えていた。
しかし僕は、彼らの意見に反対しているわけではなかった。むしろ、僕はその意志が、機械の彼を、あの美しい手の動きやものの言い方、それに考え方までを形作って物質世界に現してくれたのだと思うと、僕は不思議と賛成や反対といった二元的な考えを超越することができた。
なんと言っても、機械の彼は————製品名をイプシロンと言った、単なる番号的な名付けだが−−僕が初めて物質世界に興味を持つようになったきっかけ、いわば僕のミューズなのだ。有名な芸術家にはいつもミューズがいるものだ。僕はそういうのに憧れていた。
でも、彼を初めて見た時、僕が突然絵筆を握りたくなったのは、そういう憧れからではない。僕は初めて、人間の造形が神に与えられたものだということを、言葉ではなく、感覚で理解したのだ。神の模倣をする人間もまた然り、その美しさを表現することに憧れていたのだろう、彫刻師はやはり人間の骨の構造をしっかりと理解し再現しようとしていたようだ。
僕は彼に近寄ると、その美しい両の鎖骨が落とす陰に指をなぞらせた。その表面は何度も丁寧に仕上げられた工芸作品のように、一点の曇りもなく滑らかだった。
「私の肌は冷たいでしょうか?」
彼はそう言った。それが、彼が初めて僕にかけた言葉だった。彼はいつも肌というのに深い関心を持っていた。どういったアルゴリズムやデータ、プログラムやシグナル位置がそれを彼に言わせるのか、僕は見当もつかなかった。
「また減点です」
厳しい声が僕の頭に響いた。僕はまた「大事な講義中」に考え事をしていたようだ。ペルネーは横でクスクス笑っていた。ペルネーは、僕が減点をされるたびに笑うのだ。でもそれは彼女が意地悪だったからではなく、みんなと違う僕を素敵だと思っていたからだった。僕が「最重要の講義」中に様々なことに思案を巡らせて、ちっとも真剣でないことを、彼女は大変気に入っていた。僕は、いつだって真剣だというのに。
機械の彼、イプシロンは僕の行くところならどこでもついてきた。だから彼もまた「最重要の講義」に出席し、熱心に講義を聞き、出題される試験や問題を解い
た。もちろん彼は機械だから計算は得意で、いつも満点だった。先生は一番成績がいい彼を、誉めることはしなかった。なんと言っても彼は機械だ、誰が計算機を褒めるというのだろう?
先生はいつも眉を寄せて彼に冷たい態度をとった。先生はこんな時代だというのに、人間に信頼を置いて機械を毛嫌いした。
僕たちは講義が終わると、中庭に出た。中庭の区切られた塀の隅に、いつの間にか大きな蜘蛛の巣が張っていて、そこに雀の雛がかかっていた。雀の雛は可哀想に、絡まる糸の中でもがいて、命の最後に抗うように自分の首を絞めていた。
機械の彼は何も言わなかった。機械には生き物の苦しみがわからないからだ。その無機質なところが、また僕を夢中にさせた。生き物はせっかちで、生きるということが炎のように震えて僕をグラグラと揺らすのに、彼は一つもそういうことを気にしなかった。
僕はまた、「肌」の話をした。たとえ彼の肌の下で血液が揺れていなくても、僕は彼と「肌」の話をするのが好きだった。
「影というのは、どこから光を当てるかで変わるんだ」
僕たちはゆっくりと中庭を渡り、植え付けられた緑の草たちを踏みながら歩いていた。
「私を描写する際に、光の差し方向は重要なのでしょうか?」
彼は、僕がよく彼の横顔や、胸より上をスケッチするときのことを言っているようだった。
「うん、そうだね。その時の空模様で、君の肌の様子が違う風に見える、鎖骨の影が薄くなったり深くなったり。君は木の葉の影がよく似合うね」
僕たちは中庭に植えられた大きな木の下に二人で並んでいた。
「似合うというのは、嬉しいことですね」
彼は静かに言った。僕たちはその後も、他愛のない会話を交わしながら、部屋に戻った。連日、講義で減点をされ続けた僕は、到底宇宙飛行士にもなれなかったし、技術者や点検者や、下働きにもなれなかった。今の地球には全く必要のない人材だった。今の僕にできることはただ一つだった。
「僕はきっと、この終末を生きられないよ。僕は科学者でも、数学者でも、天文学者でも、技術者でも、お金持ちでもない」
僕たちの部屋に戻った僕と機械の彼は、窓のそばまでくると、お互いに向かい合わせになって見つめあった。
さよならを言う場面のように思えた。それは、ペルネーがどこで踊りを終える
か、彼女自身の感覚で知っているのと同じだった。物事には「リズム」があった。それは大小の暗号と合図の不規則的なまとまり、すなわち混沌の中の秩序、すなわち音楽だった。ペルネーはそれを区切るのがうまかった。その中に動きを見つけて、彩るのが得意だった。
「僕はもともと、死んでしまいたかったんだよ。でも君に出会えて、もう少し世界を観察することにしたんだ。そうすると、あのうねる空が、少し明るく見える」
僕は、チラリと、遠くで燃える赤い空に目をやった。
「太陽がもう一周しているからですね」 機械の彼も、そちらを見た。
「君、録音機能はついているかい?」
「はい」
「では、僕が今から言う言葉を録音して」
僕が言うと、彼は少し屈んで、顔を近づけた。僕は短い言葉を、何個か選んで彼に囁いた。
「それだけですか?」
僕が言い終えると、彼は僕に向き直って確認した。
「うん」 僕は満足げに答えた。
「少しいいかな?」 僕は続けて、彼の首にそっと触れた。
「なんでしょう」
そう応えた彼の肌に、僕は軽く口づけをした。彼の肌はやはり冷たかった。
小さな時間の中で、何かと何かが触れ合うときの、糸の編み目のような偶然の交差点に、僕はこの上ない幸せを感じた。そして、僕はプツンとその糸を切った。
ペルネーが踊りを終えたようだ、廊下が再びしんとなった。
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