十二月二十日 午後九時(3)

 クロは俺の話を黙って聞いていた。大した話でもない。どこにでもあるようなつまらない、自分の理想と現実のギャップに悩んでいるというだけだ。誰だって起きうるし、それに悩んでいるのは、重々承知だ。問題になっているのは、それに立ち向かえず、負けてしまったまま心が動かなくなってしまったことだ。

 つっかえながらも短くまとめた俺の話を聞いたクロは、揺らぎのある表情で、じっと火を見つめていた。興味か、それともありきたり過ぎて無関心になったのか。俺がクロに話さなかったのは、彼が俺に向ける興味を失ってしまうことを恐れているから。どこまでいっても結局俺は自分勝手な人間だ。

 自分のために他人を利用して、縋って、挙句の果てに見返りを求めて。

 大学ではノートのコピーも出欠の代行も文化祭の実行委員もやったけれど、最終的にその見返りが得られなかった。それ自体はともかくとして、見返りを求めていた自分が、酷く浅ましく不健全で、善くない人間のように思えてしまった。

 それと同じことを俺はクロに繰り返している。

 自己嫌悪。

 クロは焚火から俺に視線を移す。夜空よりも深い黒の瞳に、揺らめく炎が映りこんでいた。優し気な顔つきになって、言った。

「話してくれてありがとうな」

「…………」

「んだその顔。オレがこんなこと言うと思ってなかった、とか言うなよ」

「いや、マジで意外なんだけど。俺はてっきり」

「オマエへの興味を失うとか、そんなこと考えてたんだろ。はーあ。オマエ、本当にアレだな、めんどくさいやつだな」

「うっせぇ」

「ま、オレは良いと思うぜ。めんどくさくて上等だろ、人間なんざ。オマエの価値観の中ではそうじゃないんだろうが」

 クロはそう言うと、自虐的に笑って、手元のチラシを火の中に投げ込んだ。水を吸っていたのか、一際大きな火花が爆ぜる。真っ黒になった紙片が完全に炭になり、焚火の声が囁きになってから、クロは口を開いた。

「オレはな、ハチ。誰にでも言えるようなことを言うつもりはさらさらねェんだわ。親みたいにそんなこと誰でも思ってる、とか、教師みたいにあなたは自意識過剰なんです、なんてのは言わん。無駄に程がある。オマエのことだからどうせそんなありきたりで常識的なこと、自分に何百編も叩きつけてるだろ」

 これは、クロなりの信頼だと思う。

 知識欲が何よりも優先されるクロだからこそ、俺を知っていると宣言することが、彼なりの誠意だ。

「だからオレはもう少し先の、深い話をする。オマエは何が問題だと思う?」

 クロの表情は、すぐに切り替わった。

 俺は、クロのこういう顔が見たかったんだ。背筋にぞくりとした痺れが走る。

 クロは、犬歯を剥き出しにしていた。

 俺だってこの感情が良いものじゃないと分かっている、健全じゃないと突っぱねるのだって簡単だ。

 でも、俺は見たい。こいつが何に興味を持っているのか、その果てに何があるのか。

「問題、か。クロはどこが問題だと思ってるんだ?」

「アホなことぬかすな。それにオレが答えても、結局オレの答えでしかない。そんなの後回しでいい」

「それなら、そうだな……まず一つ目は、俺が自分の価値観に縛られているところ。二つ目は、それに苦しめられているのにも関わらず変えられないこと。最後の一つは、それに因る不眠、これで……いや、この三つだ」

 間違ってないか? と聞きそうになったけれど、それを聞く相手はクロじゃない。俺自身だ。僅かな逡巡をクロは見破っているだろうけれど、それでもいい。言葉に出さないことに意味があるのだから。

「喫緊の問題として、俺が子どもと争うことになった時に、子どもには優しくしなくちゃいけないっていう善悪の価値観に殺されるって、そう言いたいんだろ?」

「ご明察。百点を上げたいね」

 クロは眉をわざとらしく上げながら、指を鳴らした。

「俺は……やっぱり、子どもを相手にしたくない。そこに理由は必要ないだろ」

「そういう価値観ならそうなんだろうよ。オレが言いたいのはそこじゃねぇ。もっと考えろ。悩むことに逃げるな。自己嫌悪で蓋をするな。しっかりと目の前の問題を見据えろ。そうすりゃ自然、見えてくるもんもある」

 言葉は鋭く、視線は俺を貫く。けれど悪い気分じゃない。これが他の人間に言われていたら曖昧な笑みで躱していただろうけれど、目の前の人間に、そんな態度はとりたくなかった。それはクロに対して不誠実だ。

 誠実であることは善である。この価値観に縛られているけれど。

 待て。誠実であること?

「……クロ」

「いちいち許可とか求めんなよ、だりーから。さっさと吐き出せ」

「お前なあ……」

 思わず苦笑いになってしまう。歯に衣着せない態度は、今の俺には心地いい。頭の中で噛み合ったそれを、俺はクロにぶつける。

「お前が言いたいのはさ、子どもを傷つけたくないって思いは、俺の価値観を護るためであって、子ども達それ自体に向いたものじゃないって、そう言いたいのか?」

「ま、概ねそうだよ。オマエが仮想敵に置いてるのは現実のガキじゃねぇ。お前の中の子どもっていう、護るべき概念だ。あとは、それを護っている自分。そこを履き違えてんだよ」

「そうは言ってもその二つは不可分だろ。お前はともかくとしても」

「いいや、可分だね。だってよ、現実のガキをぶん殴っても、オレは痛まないんだから」

「……いや、それはそうかもしれないけど」

「重要なのはそこじゃない。良心が痛もうが、それはオレの中で完結されているものであって、オレが存在しないと意味がなくなる。だからこそ、オレはオレの保護を、良心の上に置く」

 実用主義的な、合理主義的な、効率主義的な話だった。

 それと同時に、自分の中にある矛盾点が克明に曝け出された。すなわち、俺は現実の子どものことなんて、なんにも見ていないということ。少なくとも俺が傷つけばいい、という自分のコントロールできる範囲内で物事を解決しようとしていた。

「つまりだ、俺は俺をきちんと護った上で子どもに相対しないと、なんの意味も無くなっちまう、ってことか?」

「正確に言えば選択が鈍る、ってことだ。考えてもみろ。本気でガキのこと心配して善人らしく振舞うのであれば、ガキが人間を傷つけるようなクソ野郎にしないために行動するはずだ。でもオマエはそうじゃない」

「俺は善人にはなれないってことか」

「そうじゃねぇよ。しょぼくれた顔すんな。オマエの中の善悪基準が捩じれてることを自覚しろっつう話だ。ま、それを考えたくねぇって言うんなら、それもいいだろうよ。オマエの精神が疲弊してるのは十分わかってる。だからせめて、そういう事態に遭遇した時に選択を誤らないように考えとけってことだ」

 クロは煙草に火を点けた。今度はカプセルを噛まずに。

 善か悪か、それよりも先の話、か。

 自分の価値がどうあれ最善手を見つけ出す。次に直面した問題に、自分の中でごちゃついたしがらみとは関係なく決断を下せるはずだ。

「お前って、スパルタだよなぁ」

「おう。オレは別に優しさでメシ食ってるわけじゃないからな」

「なんだよそれ」

 クロの冗談に、俺は笑った。少なくとも笑うことができた。

 俺の不眠の原因の最たる理由は、起床できないことに対する不安だ。けれど、もう一つの大きな要因がある。

 次に起きた時、自分の価値観に縛られて生きなければならない人生がまた始まること。それへの恐怖だ。そちらの方は、クロとの会話で多少紛れたような気がする。

 だって、価値観にそぐわなくとも、生きていけるのだと、自分を認める術があるのだと、クロが教えてくれたから。

 クロは確かに言った。ガキを殴れば良心が痛むと。けれどクロは確実に、子どもだろうと容赦なく脅威を排除する。それはつまり、自分の中の善悪観と、行動は必ずしも一致していないということだ。

 さりげなく、クロは自分の中のギャップを俺に曝け出した。意識的にか無意識的にかはわからないけれど。少なくとも、クロの弱い部分を知れて、俺の心はほんの僅かだが、軽くなった。

 俺より強いクロだって、そう思うときはあるのだから、俺がそう思わないなんてことはありえない。

「あーだこーだ言ったけどよ」

 クロは煙草を咥えながら、靴紐を結び直していた。その仕草は照れ隠しなのか、いつもより動作がもたついている。

「結局はアレだ、オマエが死んだり怪我したら、オレはつまらん。そんな面白くねぇことには興味が無い」

「……はは、最後にそれかよ。お前らしいっちゃらしいけど」

「うるせーな」

 遠回しな言葉の中にある意味は、俺にしっかりと届いていた。

 クロに誠意を示すには、俺はとにかく自分の身を護る事。それがクロにとってもっと良いことだと、そう伝えたかったはずだ。

「……なあ、クロ。そもそもの話なんだけどさ、どうして俺にそんな興味を」

「待て」

 クロは低く小さな声で、俺の言葉を切った。それまでとは打って変わって、完全に敵対心剥き出しの、鋭い語調だ。なにかクロの気に障ったのだろうか、と考える暇も無く、クロが矢継ぎ早に言葉を吐き出す。

「自然なまま。変に動くな。靴紐を縛れ。荷物は置いたまま動けるように。そのまま待機」

「く、クロ……?」

「オレの言うとおりにしろ。すぐにわかる」

 言われるがままにリュックを脇に寄せて、靴紐を確認した。ずぶぬれで重くなっているだけで、いつでも走り始めることができる、はずだ。せめて上に何か着たいけれども。

 毛布を握り締める。クロの纏う雰囲気が、僅かに変わった。俺じゃなかったら気づかないくらいの些細な違いだ。

 クロは煙草がまだ長いというのに、それを口で器用に飛ばして、焚火の中に放り込んだ。

「なあ、ハチ」

 と思うと、クロは能天気な声を張り上げる。

 まるで誰かに聞かせるように。

「オマエの悩みはすぐ解決するさ。少なくとも、もうじきチャンスは来る。だからまあ、寝とけよ」

「……そうさせてもらうよ。その前に、服を着ていいか?」

「ああ、もう乾いてるだろ。オレのもな」

 クロはいつもよりも緩慢な動作で立ち上がり、乾いた服を手に取った、黒いシャツがはためいた、次の瞬間。

 もう一つの黒。夜の闇と焚火の煙が交差した中に、影が現れた。クロの隣を凄まじい速度で横切って、そのまま俺に体当たりしてくる。パーカーを被ろうとして、俺の視界が狭まる瞬間を狙って。

 反射的にパーカーをその影に投げつける。事前にクロが示してくれていなかったらとんでもないことになっていただろう。火の中に投げ入れるのだけは回避できた。

 影はパーカーを鮮やかに避けた。野生動物を思わせるしなやかな脚捌き。そのまま俺にドロップキックを放つ。そこまでするか。咄嗟に後ろに跳ぼうとしたけれど、そこは俺の運動能力の限界。腹に思いっきり衝撃が響く。ちくしょう、ちょっと前にクロに蹴られたところと全く同じだ。

 俺はそのまま後ろに転倒した。影は俺に見向きもせずに、リュックに手を伸ばす。クロの視界は遮られたままと計算しているのだろう。リュックを掴んだ影は来た方向に体を反転させ、焚火をクロとの間に置いて逃げ出そうとした。

 が、影は一歩踏み出したところで、立ち止まった。

 上半身裸のクロが、シャツを放り投げていたクロが目の前に立っていたからだ。

「おう、泥棒さんよ。チェックメイトだ」

 クロが飄々と放った言葉に、影の肩がひくりと動いた。挑発に乗った、という感じではない。クロを倒せるかを頭の中で試算しているのだろう。すぐに行動に取り掛かった。

 影は腰を落として、足を強く踏み出した。強行突破を試みるようだ。クロの犬歯が、炎を反射する。

 決着は一瞬だった。俺だったら突破されていたかもしれない、と思うくらいには機敏な動作だったけれど、相手が悪い。アメフトのランニングバックだって、クロを抜くには難儀するだろう。

 いくら腰を落とそうと、機敏に動こうと、運動能力の高い人間は頭が動かない。だからこそ、クロはそこを狙った。

 一秒もしないうちに、強盗犯はクロの腕の中にすっぽりと収まっていた。影の体が暴れ出すも、クロの力はそれを許さない。やがて抵抗は無駄だと諦めたのか、影は動きをぴたりと止めて、力なく手を重力に任せた。

 決まり手はフロントチョーク。鮮やかな勝利である。3カウントしたほうがいいのか? これ。

 クロは得意げな顔で、倒れてる俺に向かって言った。

「縛るもんねぇか?」

 まさしく泥縄である。

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