十二月十七日 午後二時(1)
目覚めるととっくに太陽は最高到達点を過ぎ去って、落下していく途中だった。仄かな温かさが掛け布団の上から滲んでくる。俺は名残惜しくも温いベッドを出て、亀より遅く立ち上がった。その瞬間、体中に激痛が走る。筋肉痛が数時間で出る若さに感謝しつつ、俺はリビングに向かった。
リビングに入るとクロが一人でソファに寝転びだらけていた。テーブルの上には地図が広げられ、マーカーがその上に数本転がっている。その隣には缶詰の残骸。昼飯はもう摂り終わったらしい。
「おはよう、クロ」
「おう、おはようさん。キッチンに缶詰やら乾きもの置いといたからテキトーに食っとけ。流石に腹減ってんだろ」
「あんまり。昨日動きすぎたせいだと思う。胃が痛ぇよ」
「それなら無理矢理詰め込んどけ。回復するもんもしなくなるからな」
クロの言葉はもっともだった。俺はキッチンからツナ缶と水、乾パンを持ってきて、クロの対面の地べたに座って、それらを機械的に口に運んだ。
穏やかな陽光は冬らしく、柔らかに庭に生えた植物たちを照らしている。朝露はもう消えていた。寒さを感じるものの耐えきれないほどじゃない。足元に毛布を掛けて、しばらくぼうっと庭を見つめていた。
無言の時間は心地よかった。俺とクロの間柄で、沈黙は決して忌避されるものじゃない。むしろ過ごしやすい。下手に会話をしなくてもいいのは本当に楽だった。
とはいえ、気になることが余りにも多かった俺は、少しの間静寂に浸ってから、クロに目を向けた。
「なあ、色々と聞きたいことあるんだけど、今いいか?」
「いいぞ。オレも暇になってきたところだ。何から聞きたい?」
クロは俺の疑問を予想していたかのように、テーブルの上に広げられた地図を指で叩く。今俺達がどこにいるのかが既に書き足されていた。
地理的に言えばここはもう埼玉県内だ。当初思い描いていたルートとは大きく逸れている。今後のすり合わせが必要だった。
「クロ、これから先、どう動く? このまま最短ルートで行けば、多分やべー奴らに絡まれるぞ。っていうか、そもそもここだって安全とは言い難い」
「ああ。東京に向かう人間を狩るには一番もってこいの場所だからな、ここらへん。埼玉だし」
「それは……関係ないだろ」
埼玉県民に怒られそうな発言だった。しかしクロは首を振る。どうやら冗談を言っているようではないようだ。
「土地柄とかそういうんじゃねぇよ。問題なのはベッドタウン、ってことだ」
「あー、人間が単純に多いってことか」
「そう。会社に行く必要なくなった人間が何をするかはガソスタで身をもって知ってんだろ?」
「容易に想像できるな。想像できちまうってのが一番いやな話なんだけどさ」
「人間は本質的に善である、って考えは美しいがね、それは自分に危険が及ばない時に限る。お前には難しいだろうが、そこらへんはわかってくれや」
クロは眉尻を下げて、素直に申し訳なさを前面に出していた。そんな風に思わなくてもいいとは思うけれど、彼が俺を尊重してくれているということを、俺も尊重することにした。納得を示すために大きく頷くと、クロは満足して、それ以上は追及しなかった。その代わりに、現実的な話にシフトしていく。
「オレたちが居るのは県境を抜けてすぐ、越谷あたりだ。こっから道路の舗装されているさいたま市を抜けていくのは危険性が高い。ただ、迂回したところで東京が近いのは同じなんだから、掛ける労力と回避できる危険の多さは比例しないと、オレは考えている」
寝ころんだまま地図を見ずに、指で地図の表面をなぞる。恐ろしいことにマーカーで書かれた線とまったく一致していた。なんだその意味わからん技能。
「どうするつもりなんだ? クロ。お前の意見を聞きたい」
「今考えてるのは最短経路だ。多少ゴロツキがいて、歩きにくかったとしてもメリットはデカい」
俺の頭の中で、疑問が再び燻ぶった。
ここで言うメリットは時間だ。旅程が短くなればなるほど必要な体力も、食料や休憩場所を探す時間も少なくて済む。襲撃の可能性も長い旅程よりかは格段に少なくなるはずだ。それは理解できる。
だが、それだけではないように感じるのだ。それ以外に時間を短縮させる要素が、クロには見えているのではないか。それを聞くか聞くまいか、悩む。悩んだ末に、俺は疑問をクロにぶつけることにした。
「なあ、クロ。何をそんなに焦ってるんだ? 確かに無駄に時間を浪費するのは危うい、ってのは理解できるけど。それ以外になにか懸念があるんだったら、教えて欲しい」
クロはぴたりと動きを止め、天井に視線を向けた。それから腹筋だけで体を起こして、ソファの上で胡坐を組み、気持ち真面目な顔つきになって、俺を見据えた。
「あると言えばあるし、無いと言えば無い。オレの中でまだ固まってないんだよ。それでもいいなら」
「随分殊勝な心掛けだな。どうしたんだ、お前らしくもない」
「オレにだってそういう時くらいあるっつうの。そんで、どうなんだ」
語調こそ冗談話をするように軽いけれど、瞳の奥に垣間見える、よく研がれた包丁のような真剣さは決して蔑ろにはできない。俺は怯みながらも、話せよ、とぶっきらぼうに吐き捨てた。
クロは目を瞑って、顔に手を添えた。真面目な話をする時の、クロの癖だった。中学生の頃から全く変わっていない友人に、思わず頬が緩む。それを見られなかったのは幸運だ。クロはそんな俺の表情の揺らぎに気づくことも無く、ゆっくりと、しかし簡潔に言い放った。
「タイムリミットを意識したこと、あるか?」
「……何の話だ?」
「寝坊病についての全ての話だよ。推論と仮説ばっかりだから話してもしゃーないんだけどな、まあいいや。オレはな、自分が眠りについて起きれなくなるまでの時間が、それほど残されていないと考えている」
思わず、へぇ、と唸った。俺の気の抜けた反応にクロは目を開いて、呆れたように口を歪めた。
「おいおい、どんな反応だよそれは」
「いや、だって、そんなの分かった上でこの旅をしてると思ったから」
「それはそうなんだけどよ。あー、いや待て、そういう観念的な話じゃねぇ。もっと具体的な話だ。オレは、いや人類全員が眠りに入るリミット、って話だ」
「……どういうことだよ」
「寝坊病に感染して、そんで発症する条件を覚えてるか? 睡眠時間の短さと、月光の認識時間の長さだ。これらを踏まえて考えると、夜が最も長い日、つまり冬至の日に全人類が眠っちまう計算になっているんじゃないかと、そう推測している」
月光の照射時間が最も長くなる日。宇宙センターで聞いた話と統合すると危険な日であると認識してもよさそうだ。だが。
「そうなると、この旅のデッドラインが冬至……ええと、何日だ?」
「十二月二十二日。その日の夜が一年で一番長い」
「その日であると思って行動したい、ってわけだな?」
「ああ。つっても根拠が薄いってのは承知の上だ」
「なんだ、そんなことか」
クロは再び驚愕を顔に張り付かせた。それほど俺の言葉は意外だろうか。
なんというか、こいつにもまだまだ分からないことが沢山あるのだなと、奇妙な安心があった。その感情の出所を分析するのは後に置くとして、今はクロに向き合う必要がある。俺は意識して真面目な顔を作って、クロに言い放った。
「俺は――毎日、眠りに着く前思うんだよ。このまま起き上がれなかったらどうしよう、って。でもさ、そんなのはこれまで通りなんだよ。たくさんの人が眠りっぱなしになる前から、ずっとずっと思ってた。だから俺はそういうのは気にしてない。例え目が覚めなくてもいいように、俺はお前と旅をしている」
「諦め、じゃねぇよな」
「うん。受容だ。そのせいで不眠症になったりとかもしてるわけだけどさ、それはいいや。俺が言いたいのは、クロが冬至の日までに月の石を拾ってなんかしたいってなら、事実とか仮説とか関係なく、俺はそれに二も無く賛同する、ってことだけだ」
「なんつーかお前さ、変なところで肝が据わってるよな」
クロは頭をガシガシと掻いて、それから、笑った。犬歯は出ているけれど、それでも柔和な、子どものような笑みだった。
クロは俺のことを慮ってくれた。もしかしたら冬至の日に目的が達成できないまま眠りに入ってしまうのではないかという不安を、俺に与えたくなかったのだろう。もしかすると、それを一番恐怖しているのはクロなのかもしれない。
見るべきものを見れずに眠ってしまう。クロはそれが何よりも怖いはずだ。
チンピラよりも、食べ物が無いことよりも。
「俺は、クロについていくよ。その結果が中途半端でも、それでいい。だから、なんだ。お前の好きなようにやってくれよ。そんで、どうしてそうなのか、それだけ教えてくれよ。そうしたら、俺にもできることを見つけられるかもしれない」
「……そうかい」
クロは大きく溜息を吐いて、目を細めた。彼なりに覚悟を決めてくれたのだろう。俺はもう一度姿勢を正して、聞く。
「クロ、それなら話は早いだろ。最短経路で最速で、冬至になる前に上野国立科学博物館に行く。その方向でルートを考えてくれ」
「オーライ。多少厄介なことになるかもしれねェが、文句は言うなよ?」
「言うもんか。いや、ごめん。言うかもしれない」
「どっちだよ」
「鳴き声だと思ってくれよ。それでもクロと一緒に行くことを後悔したりはしないからさ」
クロははにかんで、すぐにとても悪い、いたずら小僧の顔つきになった。
あ、少し判断、ミスったかも。文句を言う機会は、それほど遠くなく訪れそうだった。
「そんじゃ、次の経由地点はここだ」
クロの指差した場所は、なんの施設も山も無い場所。普通の住宅街でもありそうな、少なくとも地図上ではそうなっている。
クロのとは違うやや神経質な文字で書かれた、『ギャングの出没頻発地域、恐らく本拠地』の文字以外は。
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