4-1



 九月になって、黒木の誕生日を祝うことにした。

「小さいけどホールケーキを買っちゃいましたー」

 ぱちぱちぱち、と手を叩く碧に、黒木は苦笑する。

「大袈裟だねえ。また一つおじさんになっただけなのに」

「なにを言います。めでたいめでたいお誕生日じゃないですか」

 食事は、外ですませてきた。ケーキだけ家で食べようというわけである。

 碧はこの日のために、いつもとは違う花を飾った。ふだんは二百円くらいの菊などを活けているが、今日は特別な日なので二駅行っていい花を取り扱う花屋で薔薇を買ってきた。

「はい、これ。私から」

 紅茶を淹れ、ケーキを食べながら、碧は黒木に包みを渡した。

「碧ちゃん。無職なのに、いいよこんなの」

「買ったのは正真正銘、仕事をしている時なのでセーフです。罪悪感なしで受け取ってください」

 文庫本くらいの大きさのその包みを、黒木は丁寧に開けた。

 中身は、銀のジッポーであった。詰め替え用のオイルもついている。

「ライターか」

「いつも百円の使ってるでしょ。これでもうライター買わなくてすみますよ」

 裏を見ると、S.Kと刻印があった。

「名前まで彫ってある」

「サービスで入れてくれるお店を探したんです。ちょっと遠かったけど、失くしてもわかるかなーって」

 黒木は何度かそれを擦って、火を点けてみた。ぼおっと燃える音がして、彼はそれを蓋で消した。

「ありがとう。嬉しいよ」

「よかった」

 碧は微笑んだ。

 黒猫が台所でえさを食べる音が、かりかりと響いている。オレンジがこたつの下で大きく伸びをした。

 その晩碧を抱いた後、黒木はベランダで彼女にもらったジッポーで煙草に火をつけた。

 暗闇に煙が一筋漂って、うさめが出てきて足にすり寄ってきた。

 いつまでこうして一緒にいられるかな。

 高橋に言われた言葉が、頭のなかで何度も響く。

 背後で彼の飼い猫が鳴く声が聞こえて、うさめがなかに入っていった。

 黒木は煙草を灰皿に押しつけて消した。今は考えまい。

「碧ちゃーん、起きて。俺先に風呂入っちゃうよ」

 黒木は碧にそう声をかけると、部屋のなかに入った。

 風呂に入っていると、碧が台所で猫と話している声が聞こえる。

 黒猫は、ひゃあ、とかすれた声で碧に話しかける。碧は高い声でなあに? とこたえる。 それにまた、ぴゃあ、という声が聞こえる。ご用? 碧が言う。ちょっと待っててくださる? これが終わってから。ひゃあ、猫が鳴く。あ、ぶーぶー? ひゃあ。ぶーぶーね。

 そこで黒木は風呂から出て、碧に尋ねる。

「ぶーぶーってなに?」

「おやつのことです。こう呼ぶとわかりやすいかなって。うさめもぶーぶーって単語、わかってるんでぶーぶーって言うとおやつの入ってる引き出しの側まで行くんですよ。ほら」

 見ると、黒猫が食器戸棚の横の引き出しの側で座っているのが見えた。

「ははーん」

「と、いうわけで、おやつタイムです」

 碧は引き出しからぶーぶーですよーと言いながらおやつを出し、台所に座り込んでうさめにおやつをやる。二人のスキンシップの大切な時間である。

 黒木はリビングに行って、俺はオレンジとそういう暗号を使ってるかな、と考えた。

「おい」

 茶トラの猫は、ベッドの上で眠っている。

「おいってば」

 しっぽがわずかに、動いた。

「ぶーぶーだぞ」

 オレンジがちらりとこちらを見て、すぐにまた目を瞑った。だめか。

「なにやってるんですか」

 碧が戻ってきて、横に座る。

「一朝一夕というわけにはいかないなあ」

「?」

 碧はわけがわからないという顔をしている。

 通院の日がやってきて、書類をもらった。碧は早速それを社労士に送って、次の日に区役所に行って障害者手帳の交付の手続きをしてきた。

 その間にも、碧は派遣会社の手を借りずに障害者雇用の募集をしている会社の面接を受けに行った。

 しかし、軒並み不採用になった。

 毎日のように送り返されてくる履歴書の数々を見ていると、それだけで憂鬱になった。

 少しすると障害者手帳が交付されて、それを写真に撮って碧は派遣会社と面接をした。

「宇藤さんは事務としての職歴があるので、きっとすんなり決まると思いますよ」

 と言われ、少し勇気が出た。

 そうか、健常者として働いてた実績があると、強みになるのか。たかが一年でも、使えるもんなんだな。

 家に帰ってパソコンを開くと、早速数社からオファーがあった。

 コピー取り、備品交換、ファイルの管理。そんなもんか。まあ、お給料が十万だしな。

 とりあえず、面接してみないことには始まらない。

 『オファーを受ける』にチェックを入れて、一斉送信した。こうすると、先方が碧の履歴書を詳しく読んで、その上で面接をするかどうかを決めるのだ。

 三社のオファーを受けたが、四日後、二社の面接が決まった。

 今時、面接はすべてウェブ面接である。パソコンを用意して、着替えて指定された時間に座った。

 色々なことを聞かれたが、二社に共通して質問されたのは、

「障害特性はなにか」

「毎日通勤できるか」

 ということだった。

 最初の質問に関しては、忘れっぽいのでメモ魔と言われるほどメモして予防しています、と言った。

 二番目に対しては、自信を持って、できます、とこたえた。

「毎日職場に通っていたので、それは大丈夫です」

「眠れていますか」

「よく眠っています」

 変なこと聞くな。なんでだろう。

「薬は飲んでいますか」

「飲んでいます」

「なるほど、わかりました」

 あ、そうか。具合が悪くて毎日通勤できないひともいるんだ。鬱とかで。眠くて仕事にならないひととかもいるんだな、きっと。

 それで面接は終わったが、正直手応えはなかった。それはその通りで、結果は二社とも不採用だった。

 翌月、障害年金が下りることになった。二か月で十三万と少し。これで、少なくとも家賃は払っていける。

 毎日派遣会社のマイページをチェックしていると、山のようにオファーが来た。なかには思わずなんじゃこりゃ、と声が出るような会社もあって、そういうのはやめておこうと思い、オファーを断った。

 二か月間、毎日のように面接を受けた。

 しかし、結果はどれも思わしいものではなかった。

 年が明けて、正月になった。

 碧は三が日だけ実家に帰って、三日に着物を着て黒木と会った。

「やあ、晴れ姿だね」

「たまにはこういうのもいいかなって」

「きれいだよ」

 二人でいつもの神社に行って参拝して、喫茶店に入った。

「なにをお願いしたの」

「仕事が早く決まりますように。あと、獅郎さんといつまでもいられますようにって」

 はは、と黒木は笑って、それ以上はなにも言わなかった。

 三が日が明けて週末に碧の部屋で彼女と過ごしながら、黒木は以前から不思議に思っていたことを考えていた。

 こんなにいい子なのに、なんであんなに男運が悪いんだ。単に男を見る目がないというよりは、もっと言うと愛情に飢えているような。だからおかしな男にひっかかる。付き合ってる俺に敬語使うくらい育ちもいいのに、なんでだ。

「どうかしました?」

 あまりにもじろじろ見ていたからであろう、碧が視線に気がついた。

「あ、いや、なんでもないよ」

 黒木はそう言って誤魔化した。

「就職活動、どうだ」

 一月の病院の日、主治医は碧にこう尋ねた。

「だめ。ぜんぜんだめ。最近はオファーも来なくなった」

 それは事実だった。あんなにたくさん来ていた山のような案件はぴたりと静まり、どの会社ももう碧には見向きもしなくなっていた。

 何事も最初が肝心、という言葉があるように、碧は売れ残ってしまったのだ。

「そうか」

 医者はため息をついて、

「なんでかなあ」

 と首を傾げた。

「イラストの方はどうだ」

「順調。この前、シルバーの称号になった。今度大きな事務所のロゴのデザインのコンペがあるから、出てみようかと思ってる」

「そうか。男の方はどうだ」

「そっちも順調。こわいくらい」

「ならいい」

 病院の帰り、街角に置かれている就職情報誌を持って帰って電車で読んだ。

 どれもお給料はいいけど、そんなとこはどうせミスの連発ですぐまたクビだ。

 次の日が水曜日だったので、黒木の事務所に行って昼食を一緒に食べた。

 彼もタウン誌を見ながら、

「こんな仕事があるよ」

 とか、

「こんな仕事はどう?」

 とか碧に聞いてきた。そのたび、碧は言った。

「レジ、できないです。いっつも失敗しちゃって、怒られるんです。だからだめ」

「お金を扱う仕事は、多分無理だと思います。数字は危険」

 黒木の親切を無下にしているようで、心苦しかった。

「火曜日が病院の日だから、火曜勤務じゃなくて、年金をもらい続けるためには月収が八万円くらいの仕事か」

「そうです。あんまり収入があると、健康だとみなされて年金が止められちゃうんですって」

 ぱらぱらとページをめくりながら、黒木は懸命にそういった仕事を探し続けた。

 やがて、彼の手がぴたりと止まった。

「あ、碧ちゃん、花屋は?」

 碧は彼の方を見た。

「お花やさん?」

「と言っても、工場だよ。レジの仕事はない。力仕事とか、花の仕分けって書いてある。 月水金だから、火曜日休みで、通院できるよ。時給千百円」

「でも、なんでお花やさん?」

「だって碧ちゃん、花好きじゃない」

 碧は沈黙した。

 それは事実だった。どんなに貧相な花でも、碧はいつも部屋に飾った。菊、薔薇、季節の花を買ってきては、玄関とベッドの上に吊るした花瓶に活けているのだ。

「面接常時だってよ。どう?」

「……行ってみようかな」

 碧は家に帰る電車のなかで、その工場の担当者にサイトを通じてメールした。

 夕飯を食べる頃には返事が来ていて、面接の日時が三つほど提示され、来られる日はいつかと聞いてきた。それでも都合が悪ければ教えてほしい、先方はそう言っていた。

 碧は都合のいい日を選んで、面接に行くことに決めた。そこで気がついた。

 アルバイトの面接って、なに着てけばいいんだろう。

 スーツじゃおかしいな。スカート? 

 迷いに迷ってわからなくなって、黒木に聞いた。彼の答えは明確だった。

 『うーん、デニムとかでいいんじゃない』

 そうか、デニムか。待てよ、そんなの持ってたかな。

 散乱している服の山を漁ってなんとか探し出し、次の日に面接に行った。

 面接の場所は、花屋の二階だった。

 ベルトコンベアが動いていて、その上を花が移動していて、数人の人間がその側で忙しく立ち働いている。

 面接に来たことを伝えると、奥に行ってください、と言われた。そちらに目を向けると、事務所らしい衝立と机があった。

 小太りの女性が出てきて、

「あ、どうも」

 と言って、狭い場所で面接をした。

「花屋で働いたことはありますか」

「ありません」

「未経験?」

「はい」

「うちは基本月水金だけど、繁忙期は連勤になります。お彼岸、お盆、年末、母の日」

「母の日」

「そう。一番忙しいのは年末、その次が母の日です」

「ははあ……」

「それでも大丈夫ですか」

「はい。火曜日に病院に行かなくてはいけないので」

「毎週?」

「いえ、月一です」

「月水金のうち水曜日はほとんど午前中だけの勤務で、給料も最低賃金だけど、結婚してる?」

「してません」

「実家?」

「一人暮らしです」

「それでやってける?」

「大丈夫です」

「そんなんでなんでうちに来たの」

「花がすきなので」

 と言うと、ちょっと相手の顔が緩んだ。

「とりあえず、お試しで一日体験ということでいいですか」

「はい」

「じゃあ来週の月曜日、九時半にここに来てください」

 やった。なんとか働けそう。

 嬉しくて、帰りはスキップして帰った。黒木に連絡して、月曜日に一日体験で働くことを告げた。

 『よかったね。続くといいね』

 翌週の月曜日、碧は工場に行って、なるべく笑顔で挨拶しようと心がけて現れた。

 パートのおばちゃんがやってきて、

「はい、あなたね。こっち一緒来て」

 と外階段を三階まで上り、荷物をロッカーに入れ、エプロンを借りてもう一度二階に行った。

「じゃああなた桶ね」

 と言われ、一番奥の場所に案内された。

 そこは屋根だけがついている屋外で、風がぴゅうぴゅう吹き込んでいた。

「ここの桶に水を汲んで、この台車に乗せて。台車がいっぱいになったら、運んできて」

 と言われ、山のように積まれている黒い桶を手に取ってひたすら水を汲み続けた。

 水をなみなみと入れた桶を両手に持ってそれを台車に乗せるのだから、全身を使う。

 両腕と腰と背中と肩が悲鳴を上げた。

 台車を持っていくと、

「桶を五つずつ、並べて下ろしてください。ここからはみ出ないように」

 と言われ、桶を下ろした。

「そしたらまた水を汲んできて」

 え、また? と思いつつ、また表に行って水を汲んだ。台車に運び終わると、それを下ろす。そしてまた水を汲む。

 その繰り返しだった。それを八往復もすると、今度は、

「あなた、えーとお名前は?」

「あ、宇藤です」

「宇藤さん、こっち来て」

 ベルトコンベアの前の真ん中辺りに呼び寄せられた。

 その前に、緩やかなU字にカーブした銀色の台が四台置かれていて、そこにフィルム状のものがかかっていた。

「今から、花が流れてきます。それを右手で取って、左手でこの袋を開けて、花を入れて、またこのベルトコンベアの上に置く。ということをやってください」

「右手で取って、左手で置く」

 ぶつぶつと呟いていると、花が流れてきた。側にいるパートの女性のやり方を見ながら、必死になって花を入れた。

 そうしているうちに、あっという間に午前中が終わった。

「お昼休みでーす」

 ああ、休憩時間だ。疲れた。足がパンパン。腰が痛い。肩も痛い。座りたい。

「あ、宇藤さん。あなたはあっち。河西さんのとこ行って」

「河西さん?」

「面接、したでしょ」

 ああ、あの女のひと。あのひとのとこか。

 事務所に行って、話をした。

「午前中やってみて、どうでしたか」

「はい、楽しかったです」

「そう。見てたけど、動きが遅い。今のままじゃ、採用できない」

「はあ」

 ここもだめだったか。いけると思ったんだけどな。

「とりあえず、試用期間ってことでいい?」

 え? それって雇ってもらえるってこと?

「は、はい」

「じゃあ、お昼は上でみんなと食べて。午後もがんばってください」

「は、はい」

 朝行った、ロッカーのある三階の休憩室に行くと、すでにパートの女性たちが昼食を食べ始めていた。

「失礼します」

 碧はそのテーブルの隅で、黙々と食べた。疲れすぎて、口がきけなかった。

 食べながら、周囲の会話に耳を傾ける。よくある世間話。うちの暖房代、すごくかさむの。ああ、近所の電気屋さんに聞いたんだけどね、やっぱりエアコンが一番安くすむらしいわよ。一番高くなっちゃうのはね、なんといってもこたつ。エアコンは高性能だから、部屋の温度が設定した温度に温まると自動的に止まるけど、こたつはずっとその温度のままでしょ。だから、暖房代がかかるって電気屋さんが言ってたのよ。

 へえ、そうなんだ。

 それを聞いて、こたつしかつけない碧はそれを見直そうかとも思った。誰も碧に話しかけない。このひとたちとひと月やっていくのか。まあでも、採用できないって言われたしな。その間の辛抱だ。

 昼休みが終わると、また水汲みだった。

 肩と腰が痛い。

 しかし、動きが遅いと言われた以上は、早くしなければと思って、午前中よりも早く動いた。なるべく素早く動くよう心がけて、何度も何度も台車を運んだ。

「宇藤さん、箱潰して」

「はいっ」

 山のように積まれた段ボール箱を素手で解体していると、手ががさがさになった。爪が割れて、ささくれができて血が出た。ちらりと他のパートを見て、納得した。

 なるほど、みんな手袋をしている。手袋がいるんだ。

「終わったら、また桶ね」

 ああ、また水汲みか。肩が痛い。腰が重い。辛い。しんどい。痛い。今何時だろう。手がかじかんで、感覚がなくなってきた。

 でも、慣れてきた。いける。

 と思った頃に、

「宇藤さん」

 と声をかけられた。

「は、はい」

「上がっていいですよ」

「え、はい」

「お疲れさまでした。水曜日は十時半からです」

「わかりました」

 お先に失礼します、と言って他の誰よりも先に帰った。

 全身が岩のように重くて、行きは十五分の道のりであったのに、帰りは三十分かけて駅まで歩いた。電車に乗るにも、足が上がらない。

 最寄りの駅に着いても、夕飯の材料を買う気力も体力もなかった。駅前のスーパーを素通りして、碧はよろよろと自宅に帰った。

 いつもは三分で到着するはずの自宅までの距離は長く、十分近くかかった。

 どうしよう。疲れすぎて、なにもできない。こういう時は、お風呂だ。お風呂に入ろう。

 碧は帰宅すると風呂のスイッチを入れて、服を着替えて湯が入るのを今か今かと待った。

 そして音楽が鳴って給湯を知らせると、ふらふらと浴室に歩いていき、湯船に身体を沈めた。

 身体の奥底から、絞り出るような声が出た。

 ああ、くたびれた。

 これは、毎日は無理だわ。

 一日おきだから、できる仕事だわ。

 今日はゆっくり寝よう。そうしよう。

 風呂から上がると、珍しく姉から連絡があった。

 『最近どうしてる?』

 『新しい仕事始めた。きつくて、大変』

 『大変だね。どんな仕事なの』

 『お花やさん。でも、採用できるかどうかはわからないって言われた。働きすぎて、身体が動かないくらい疲れた』

 『がんばってね』

 そうだ、明日は獅郎さんの事務所にお昼食べに行く日だ。筋肉痛になってないかな。だいじょぶかな。

 翌日、案の定全身が悲鳴を上げていて、碧はオイルの切れたロボットみたいな動きで黒木と会った。

「あららららー。どうしたのそれ」

「うん、ちょっと。いきなり身体を動かしたから、痛くて」

「横になって。おじさんが揉んであげる」

 黒木はソファに横になった碧の腰を揉んでくれた。

「酷使したねえ」

「今まで力仕事なんてしたことなかったから、身体がびっくりしたんでしょうね。鍛えなくちゃ」

 私も走ろうかな、碧は呟く。

「働くうちに慣れると思うよ」

「そうかなあ」

 一緒に昼食を食べながら、黒木は言った。

「とりあえず、仕事が決まってよかったじゃない」

「でもまだ試用期間ですけどね」

 それでも、週のうち二日は時間が空く。そのぶん、イラストに時間が割ける。そうすれば収入にもつながるだろう。

 水曜日、早めに職場の休憩室に行くと、一番年上のパートの女性がもうやってきていて、

「あら、あなたね。あなた、住んでいる駅はどこ?」

 と話しかけていた。碧がこたえると、

「近くなのね。一人暮らし?」

「そうです。あ、でも猫がいます」

「あらいいわね。どんな猫?」

「黒猫です」

 写真見ますか、とスマホを見せると、その各務という女性は笑顔になって写真を見続けた。その後も続々とパートの人間がやってきたが、各務のおかげで緊張がほぐれた。

 仕事は相変わらず水汲みだったが、今日は月曜日にやった袋入れの仕事もやらせてもらえた。

 それにしても、なんというか今日は人の動きが緩やかだな。なんでだろ。

 なんてことを考えていたら、すぐに一時過ぎになって、

「はーい上がりー」

 と言われてしまった。

「え? 今日はこれで終わりですか」

「うん、水曜日はいつも、こんな感じよ。だいたい午前中で終わるわね」

 そういえば、面接でもそんなことを言われた。

「だから、お弁当も持ってこないことが多いのよ」

 しまったな。お昼ごはん、持ってきちゃった。まあいいや。ここで食べるか。

「お昼、持ってきちゃった? いいわよ、一緒に食べましょ」

 と言われ、各務と共に色々なことをしゃべりながら食べた。

 この日はそんなに動いていないせいか、身体も月曜日ほど痛くならずにすんだ。

 金曜日はまた忙しくて、相変わらず水汲みと袋入れをメインにさせられた。

「宇藤さん、上がっていいですよ」

 それでも、碧は一番新しい下っ端である。一番労働力にならないから、一番先に帰らされる。それだけが有り難かった。

 定時は、だいたい四時か、遅くても五時。黒木にメッセージして、今終わったと告げると、駅で待ち合わせしよう、と返事が来た。

 身体は疲れていたが、最初ほど疲労困憊というわけではない。それでも、駅の階段を上るのはやっぱり碧が一番後ろだった。

「あらら。くたくただね」

 お疲れ様、と黒木が駅で出迎えてくれて、

「これ、試用期間お祝い」

 となにかの袋に入れたものをくれた。

「なにそれ」

 そんなお祝い、聞いたことない。碧はちょっと笑って、なかを覗いた。大きな円筒状の容器が入っていた。碧はそれを取り出した。

「入浴剤? 岩塩って書いてある」

「帰って真っ先にお風呂に入るって言ってたから、お風呂の時間が楽しみかと思って。シリーズで出てるみたいだから、色々試してみるといいよ」

「わー。後で早速使ってみよう」

 それは、赤い粗めの塩のような入浴剤で、ジャスミンとロータスの香りとあった。どちらも碧の好きな花である。

 帰宅して、まず風呂のスイッチを入れた。それに、容器の蓋を開けてそれに入浴剤を量って入れると、なんともいえないよい香りが浴室からたちこめた。

「わあ、いいにおい」

「気に入った?」

「はい、楽しみ」

「そりゃよかった」

 碧が入浴している間、黒木は夕食を作った。

「お風呂出ましたー」

「こっちはもうちょっとかかるかな。ごゆっくり」

 碧が髪を乾かす頃には食事はできあがって、二人で並んで食べた。

 なんとなく観ているテレビのCMのタレントが、男にむかって指輪がほしいと言っている。

『指輪がほーしーいーの』

 そこから画面がぱっと変わり、ブランドの宝石店の広告になった。

 ひどい広告、と碧が呟くと、それを黙ってみていた黒木がぼそっと言った。

「やっぱり女の子って指輪がほしいもんなの?」

「どうなんでしょうね。ひとによりけりなんじゃないですか。私はほしくないですけど」

「そうなの?」

「指輪ならもういっぱい持ってますし。それに、なんか結婚するみたいで重いですしね」

「ふうん……」

 そういえば、碧は会うたび違う指輪をつけている。それも、高そうものばかりだ。

 そういやこの子の家は金持ちだった、とそこで黒木は気がついた。

 でもな、彼は思う。

 この指、細いし長いし、きれいなんだよな。指輪が似合う手ってあるんだよな。

「今してる指輪は、サファイアだよね」

 碧は右手を見た。そこに、小粒だがはっきりとした美しい冴えた青い石が入っていて、その両脇にダイヤがいくつも並んでいるというものだ。

「母の知り合いの宝石やさんのお店の、ワゴンセールで安く売ってたルビーの指輪があったんですよ。それを、クリスマスに買ってもらったんです。高校生の頃だったかな。それを友達と出かけたときにしていって、帰るときになくしちゃいけないと思って、財布のなかにしまっていたんです。で、それを忘れて、そのままにしちゃって。で、その宝石やさんに行くときに、たまたまその指輪があるのに気づいて、指につけて。そしたら社長さんに、碧ちゃん、その指輪、どこで買ったの。ひどい石だねえ。って言われて。ここのお店のワゴンセールですよって言ったら、僕の店でこんなひどい石を売ってたの? って言われちゃって。貸しなさい、もっといい石に変えてあげるから。って言われて、交換することになって」

「でも、ルビーだったんでしょ」

「そうです。でも、私成人のお祝いにルビーのいい指輪を作ってもらっていたので、もうルビーの指輪はいらないなあ、と思って、おじちゃま、私サファイアがいいなあ。って言ったら、よしきた、まかせなさい。って言ってくれて、それでサファイアになったっていう、曰くつきの指輪です」

「金持ちの家はやることが違うなあ」

 碧はくすくす笑いながら、

「小学校の頃、よく言われてました。公立の学校だったんで、歯医者の娘って珍しかったみたいで。一年生の時の担任の先生に入学して初日に、ああ、お前が歯医者の娘かあ、って言われて、きょとんとした覚えがあります」

 黒木は真顔になった。

「私、生まれつき歯質が弱くて、歯並びも悪いんですけど、歯が弱くて矯正器具に耐えられないので矯正もできなくて。歯も、祖母の体質を受け継いですごく悪くて。歯科検診ではいつも悪い診断を受けてたんです。それで、いつも笑い者にされてました」

「……」

「好きで父親が歯医者なわけでもないし、歯が悪いのは体質で自分が悪いわけじゃないのに、口を開けば歯医者の娘のくせに、って言うんですよ。周りの子もそれを真似して、馬鹿にするんです。だから担任がその先生じゃなくなっても、六年間言われ続けました。

 歯医者の娘のくせに、って」

「それは、辛いね」

「相手に悪気はないんでしょうけどね。だから、余計のことしんどいんですよ。悪意のない悪意が一番棘があって。ちょっとなにか言うと、二言目には金持ちの家はいいよなあ、って嫌味を言われるんです。私はそんなつもりで言ったわけじゃないのに。だから、言葉を慎重に選ぶようになりました」

「そっか……」

「先生に恵まれない六年間だったんです。一年生と二年生の時はそんな先生に当たっちゃって、四年生から六年生の時は、とにかく気分屋の手を上げる先生で」

「手を上げる?」

「学芸会の時、クラスでピーターパンをやったんです。練習ではうまくできていたのに、本番ではみんな緊張しちゃって、声とかも出なくて。先生はそれが気に入らなくて、学芸会が終わって全校生徒が教室に帰った後の体育館に私たちを呼び出して、お説教を始めたんです。芝居っていうのはな、はっきり、くっきりものを言わなくちゃいけないんだ。って言うところを、はっくり、って言っちゃって。お説教の途中でそんな風に噛んだら、ふつう小学生だったら笑っちゃいますよね。みんな吹き出してました。私も。それを、たまたま先生が見たんです。それで、先生は私の方につかつか歩み寄ってきて、なにがおかしいんだよ、って言って、顔を張り倒されました」

「……碧ちゃん」

 黒木は起き上がった。

「それは、立派な暴力だよ。大人がしたらいけないことだ」

「他にも、給食当番で並ばない男子を探し出して並ばせようとしてたら、お前ら連帯責任だ、って言って、十二人いっせいに張り飛ばされたりとか。私は三年間で三回、そういうことがありました」

「なんでお母さんに言わなかったの」

 碧はちょっとうつむいた。

「一年生の担任の先生のことが嫌で、ぽろっと言ったことがあったんです。私あの先生やだな、って。そしたら母、言ったんです。でもあの先生、他のお母さんたちの評判はいいのよ。って」

「――」

「自分の子供の言うことより、他人のお母さんたちの言うこと信じる母親なんて、頼りにできないな、と子供心に思ったんでしょうね。それ以来、母には学校で起こったことは言わないようにしてました」

 よく覚えてないですけど、と碧は言った。

 黒木はそっと碧を抱きしめた。碧は笑って、

「どうしたんですか」

「俺には言っていいからね」

 碧は黒木の背に手を置いた。

「わかってますよー。ちゃんと言いますって」

「好きだよ」

「――」

「愛してる」

 碧は目を伏せて、その胸に顔を埋≪うず≫めた。そして深々とため息をついた。

 オレンジがベッドの上ですやすやと寝息をたてている。黒猫が台所で大きく伸びをした。


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