5話 Memory(1)

 外から差し込む光を失った廊下を突き進み、彼はトン、トンと階段を降りていく。


 階下の景色は、すっかりと夜の装いに切り替わっていた。

 太陽の代わりに、天井に付けられた小さな電気が煌々と輝き、足下を照らす。

 ふわんと、デイジーが丹精込めて作る夕飯の匂いが漂った。ステーキの芳しい香りばかりか、ロブスターがオリーブオイルでこんがりと焼かれた様な匂いも虚空に流れている。


 腹の底に棲み着く虫を大いに刺激し、ぐうぐうと喚かせる。


 すっかりと、ここは夜の時間なんだな。

 ジャックは「つい数分前までは、こんな匂いは漂っていなかったのに」と独りごちてから、再び足をキッチンの方へ向ける。


「マム、ちょっと良い?」

 マム? と、ひょこと顔を覗かせてみると。そこに、母・デイジーの姿はなかった。


 リビングの方か?

 母の姿がキッチンにないと分かるや否や、ジャックはパッとキッチンに背を向け、廊下を進んだ。

 リビングの方に近づいていくと、ワハハと大勢の笑い声が耳に入ってくる。恐らく、テレビ画面の内に集う人物達の笑い声だ。


 ジャックはその笑い声に導かれる様にして、リビングに足を踏み入れる。

 案の定、ワハハと笑っているのはテレビの世界で、姿が見えなかったデイジーの姿もあった。


 テレビの前に置かれたソファでくつろいでいる。その傍らには、父・ジェイソンの姿もあった。

 定年退職したばかりのはずだが、身体は衰えを見せていなかった。ぶくぶくと肉が付き始めているでもない。

 小麦色に日焼けし、妙に引き締まった身体付きになっている所を見るに、何かスポーツでもし始めたのだろう。そうでなければ、農家と言うセカンドキャリアを手にしているに違いない。


 ジャックは「ダッドは少し変わったな」と思いながら、「ハイ」とくつろぐ二人に声をかけた。


「ん? どうしたんだい、ジャッキー? 顔色があまり良くないぞ」

 ジェイソンが、ジャックを一瞥するや否や、言った。

「あら、本当ね」

 デイジーも、ジャックを見つめながら、ジェイソンの言葉に同意する。

「夕飯の時は顔色が戻っていたのに。やっぱり薬を飲むべきだったんじゃないの?」

 ジャックは彼女から紡がれた心配に、やや面食らった。


 夕飯の時、だって? つまり俺はもう、夕飯を一緒に食べたと言う事になっているのか。

 勿論、俺はそんな覚えはない。こっちは、たった数分、部屋で捜し物をしていただけだ。


 二人の中で流れた時間と築かれた思い出が、自分にはない事を痛感したジャック。

 だが「今は、その驚きで立ち止まっている場合じゃないぞ」と、唖然と固まりかける自分に活を入れ、グッと動かした。


「大丈夫だよ」

 ジャックは曖昧な笑みを浮かべて答えてから、「そんな事よりさ」と膝を進める。

「マムに聞きたい事があるんだ」

 コレなんだけど。と、ジャックは手にしているアルバムをデイジーの方に差し出した。


 デイジーは手渡される物を見るや否や、「まぁまぁ!」と朗らかに相好を崩す。

「貴方の小さい時のアルバムじゃないの! 懐かしいわねぇ!」

 渡されたアルバムを愛おしげに取り、優しい手つきでアルバムの表紙を撫でた。

「それにしても、今日は唐突に懐かしい物ばかりを出してくるわね」

 デイジーはフフと柔らかく綻びながら言う。ジェイムスも「嗚呼、随分と懐かしいな」と、目をやや丸くして同調した。


 だが、ジャックは二人が浮かべる懐古に何も言わず、淡々と告げる。

「そのアルバム、全ページが白紙なんだ」

「えっ? !」「何ですって? !」

 ジャックの告白に、両親であるジェイソンとデイジーは同時に驚きを飛ばした。


 ジャックは二人の驚きを「本当だよ」と、端的に受け止めてから「だから聞きたいんだ」と話を進める。

「どうして、このアルバムは真っ白なのかをさ」

「真っ白? そんな訳ないわよ!」

 デイジーはややムキになって答えると、パッと表紙を捲った。


 ペラリ

 印刷会社の表紙を素早くくぐり抜けた。

 するとすぐに広がる真白。


 ジャックは「ほらな」と言わんばかりの面持ちで、彼女の手がまた早々に次へと移ると思った……が。


 デイジーの手はピタリと止まり、清々しく広がる真白の世界にふにゃりと顔を綻ばせた。

「まぁ、本当に懐かしいわねぇ」

 貴方も見てちょうだいよ、ジェイ。と、デイジーはジェイソンの方にアルバムを優しく傾ける。

 ジェイソンは傾けられたページを覗くと、「ああ、懐かしいな」とデイジーと同じ懐古に笑顔で佇みだした。


「えっ?」

 素っ頓狂な声が飛ぶ。

 今回、驚きを飛ばしたのはジャックの方だった。



「な、何を言っているんだよ!」

「ねぇ見て、ジェイ。これ、初めて歩いた時のだわ! 覚えてる? 貴方が偶々カメラを持っていたのよ?」

「勿論、覚えているよ。なんせ奇跡的瞬間だったからね。それにほら、ここで見切れている君が興奮して、大絶叫している事も覚えているよ。撮って、早く撮って! ってね」

 先程と驚きを弾けさせた人は違えども、やはり、アルバムに対する「驚き」は聞き流される。


 デイジーとジェイソンはゆったりとした手つきでページを捲りながら、微笑ましい当時に浸り始めていた。


 そんな二人に、ジャックは「何を言っているんだよ!」と、もう一度声を張り上げる。苛立ちが、焦りが、綯い交ぜになったかの様なぐちゃりとした声で。


「このアルバムは、真っ白じゃないか!」

 彼の叫びに、ようやく、二人の顔が「今」のジャックに向いた。


 しかし、上げられた二人の顔からは笑みがスウッと消えている。

「さっきから何を言っているんだい、ジャッキー?」

 ジェイソンが怪訝を露わに問いかけた。

「えぇ、本当に。訳が分からないわ」

 デイジーも、夫が息子に向ける怪訝に同調する。


 そして彼女は大きく開いたままのアルバムに目を落として、「ちゃんと、貼られているじゃない」と、ハッキリと告げた。

 「ほら、見てみなさいよ」と言わんばかりに、トントンと指先でページを叩かれる。


 だが、やはり、ジャックの目に「留められた懐かしい光景」は映らなかった。

 ギョッと大きく見開いた目で見ても、長方形に収められる世界は純白であったのだ。

 

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