Porta fabula ーポルタ・ファブラー
金襖子
1章 神話回生
第1話 銀髪の乙女
――かつて世は、魔の界と人の界とに分かたれたり。されど時至りて、魔のものと人とは地を奪わんと争いを始めたり。
――人の神と魔の神にその
「大切な物って、何?」
一人の男の子がぽつりと尋ねた。
その声が響いたのは、村の外れにひっそりと佇む古びた教会の中だった。石造りの壁は年月を感じさせ、砂埃でかすれた窓からは柔らかな陽光が差し込んでいる。教会の祭壇の背後に位置する大きなステンドグラスの上部には、二人の戦士が向かい合い何かを掲げる模様が描かれた色とりどりの薔薇窓がはめられていた。教会が建てられた頃の流行りだろう、円形の窓の中心から放射線状に伸びる模様が光を受けてきらめいている。光の中で彼らの姿が浮かび上がる様は、まるで時を超えて今そこにいるかのように神聖で、見る者を引き込む力を持っていた。
暖かな昼下がり、ステンドグラスから落ちる七色の光に照らされながら十数人の子供たちは木製の長椅子に座り、老婆の話に耳を傾けた。
老婆の膝の上には、厚みのある革表紙の書物が開かれている。表紙には擦り切れた金文字で何かが記されているが、判読は難しい。彼女はその書を指でなぞりながら、ゆっくりと静かに語り始めた。
「ええ、良い質問ですね。シュテナは翼を、イザンは大刀を。」
また別の子供が手を振った。
「それで、それでどうなったの?」
老人はその子の方にも顔を向けて話し始める。
「二人は自分の大切な物を相手に渡してしまったので、その時代での生は終わり、深い眠りについたのです。」
「死んだってこと?」
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ。神様はひとつの時代を終えると一度眠りについて、目覚めてから新しい時代ができるのよ。だからきっと今はもう起きて、私たちを見守ってくださっているわ。」
子供たちは今ひとつ納得していない顔をしながら聞き続けている。
「ふーん。」
老人は柔らかな笑顔のまま、胸元のペンダントを手に握り、顔を
「それでは、私たちの神に祈りを捧げましょう。いいわね?」
教会を彩るステンドグラス。その中でもひときわ目立つ、祭壇背後の薔薇窓の中心には、力強く立つ二人の戦士の姿がある――自らの翼をもぎ取ったシュテナの背からは痛ましく血が流れ、大刀を掲げるイザンの片腕は無残にも地面に転がっていた。
まるで時間が止まったかのように、ふたりの誓いの瞬間が窓の中で繰り広げられているかのようだ。過ぎ去った時代、そしてこれから訪れる運命を告げるように――静まり返った礼拝堂に、ヒヨドリの声が小さく響いた。
目を瞑って祈る子供たちの中、一人だけ背筋を伸ばして顔を上げている少女がいた。ステンドグラスからこぼれる光が、くりくりとした大きな瞳を虹色に染めている。
見つめる先には、片腕を失いながらも力強く立つイザンの姿があった。少女は小さな手でペンダントを握りしめると、そっと光にかざしてみた。翼と刀をかたどった細工の中心に埋め込まれた小さな石が、差し込む陽光を受けて、熟した果実のように赤く染まって見える。
彼女は、その色が綺麗だと思った。とても綺麗で、たいそう美味しそうだと思った。
◇
〈ピピピピピピーッ……―午前7時!晴天、気温は24度。過ごしやすい1日になりそうだよ。〉
机上の置き時計型AIアシスタント、バーチャルヘルパー【バルパ】が、目覚ましの音とともに起動した。猫型のコンパクトな本体に搭載されたスクリーンがちらりと光り、柔らかなトーンで今日の天気を告げる。
バルパに起こされて、窓際のベッドから気怠げに起き上がった若い女。ボブカットの黒髪は四方八方に跳ね、おでこから突き出た二本の角にぶつかって更に明後日の方向へと伸びていた。彼女はカーテンの隙間から外を眺めた。工場からの煙が太陽を覆う
〈こちら、ニュース速報です。西都では獣人グループによる拉致事件が続いており、犯人は依然として捕まっていないとのことです。地元治安局は引き続き捜査を続けていますが、詳細は明らかにされていません。続いて、ビジネスの話題です。世界的大企業の3社が合併を発表しました。新設合併するのは、時価総額100
「もういいよ、バルパ。」
髪を雑に直しながら彼女が制止すると、プツッという電子音とともにバルパは喋るのをやめ、ディスプレイを閉じた。
彼女はベッドの下に投げ捨てられた黒い編み上げブーツを拾い上げ、緩んだ紐を巻き込むように足を突っ込むと、そのままベッドから5歩先にある玄関のドアノブを握った。
玄関を開けると冷たい風が部屋の中に吹き込み、ドアから差し込んだ朝日が舞い上がった埃をチラチラと照らした。彼女は大きく息を吸い込み、部屋を後にした。
ヤポーニア帝国、その帝都から遠く離れた西の玄関口――港町「
港からまっすぐ伸びる大通りは、朝の競りで賑わう市場を通り抜け、日用品や食料品の店が軒を連ねる商店街へと続いている。
港市場のすぐ裏手にある古びた建物から、先ほど起きたばかりの彼女は出てきた。
港では、今朝とれたばかりの魚がすでに競り落とされ、次々と運び出されている。その中でも、銀色に輝く一際美しい魚が目を引く。体の側面に不規則な斑点を持つ細長い魚ラワサ。クセがなく淡泊ながら甘みのあるその味は、誰もが舌鼓をうつ名産品だ。だが彼女は、そんな賑わいに目もくれず、市場を抜けて大通りへと足を運んだ。
港の潮の匂いは、いつだって同じだった。
「おい、大人しくしろ!」
どこかの怒鳴り声は、市場の喧騒にかき消され誰の耳には入らなかった。もちろん彼女にも。
開店準備中の衣料店の横、通りの隙間にぽっかり口を開けた細い路地へと身を滑り込ませると、そこは金匣町の裏通り――通称「
大通りに並行して伸びている裏通りは、表の活気と打って変わって訳有りの人々が集まっている。影を失った人間、目を失った百目の妖怪、片翼のハーピー、足の生えた人魚……。ずっとそこにいたのか、それともどこから来たのかも分からない。彼らはこの薄暗い路地を住処にしているようだった。
「いらっしゃい、凪。いつものかい?」
店の店主がしわがれ声で挨拶した。凪と呼ばれた彼女は首を振って商品棚を覗き込んだ。裏通りにある雑貨屋「シャンマオ」は、白黒の動物が描かれた看板が目印だ。
こじんまりとした店内には、食品から衣料品、薬まで生活のほとんどを賄えるほど多種多様な商品が並んでいる。所狭しと積み上げられた商品は天井に達し、そのどこからか、流行りの曲を子供用の楽譜にアレンジしたような軽い音楽が流れている。
「いや、あー・・・今日は薬はいいや。これだけ頼むわ。」
彼女——凪は、総菜パンと即席麺をいくつか手に取り、袋に詰めると、そのままレジ台に乗せた。
「こんなもんばっか食ってると体に悪いよ。じゃあ・・・1040
「お前が売ってんだろうがババア。」
「誰がババアだ。あたしゃまだピチピチの180歳なんだからね。」
「ババアじゃねぇかよ。ったく。」
ーピッー
凪が手首をレジ横の機械にかざすと、機械からチャリンと音が鳴った。決済が完了したらしい。腕を引いて手首から発された光を操作すると数字が表示された。
「げっ。今月もうヤベぇな……。」
「まいどあり。あんたがこの店を継いでくれたらアタシも安泰なのにねぇ。」
「悪いな婆さん。まだ”仕事”を引退する気はないんでね。」
「気を付けなよ、凪。ほら、サービスだ。」
店主は深くかぶったフードから紫の触手を伸ばし駄菓子を1つ凪に投げ渡した。
「お、レタス太郎じゃん。これ好きなんだよ。サンキュー婆さん!」
店主は伸ばした触手をそのまま左右に振った。
凪が店を出たその瞬間だった。
「どけ!邪魔だ!!」
遠くから地面を叩くような重い足音が聞こえたかと思うと、直後、横から何者かが勢いよく凪の体を勢いよく弾いた。埃とカビの臭いに混じって不釣り合いな甘い香水の匂いが鼻をかすめる。
「ってぇ。おい!ぶつかっただろうが!」
すぐに怒声をあげたが、向こうは一切振り返ることなく走り去っていく。だが指先まで毛に覆われた手足にマズルの伸びた顔が見えた。
「オオカミの獣人か?」
凪は去っていく獣人の背中に目を凝らした。何かを背負っているようだった。大きな頭陀袋から何かはみ出している。それは、だらんと垂れ下がった白い腕と、銀色に靡く長い髪の毛だった。
「ったく。…もう仕事かよ。」
凪はすぐに走り出した。
前方を走る獣人はほどなくして角を曲がり、路地裏へと消えた。すぐに追いついた凪は息を潜めて角に身を寄せ、そっと覗き込んだ。路地の影で良く見えないが獣人とその仲間が頭陀袋を囲って話している。
「こいつは高く売れるぞ。」
「純潔だ。どこで見つけた?」
「いいから早く移動しよう。見つかったらヤバイ。」
凪は建物の物陰に隠れながらゆっくりと近づく。
(三人か、面倒だな。・・・考えるのも面倒だしいっそ飛び込むか?)
あと1メートルの距離まで近づいたところで、凪は一気に踏み込み手前の獣人の背後まで距離を詰めた。
「それで?見つかったらどうヤバいんだ?」
凪が獣人の耳元で囁いた直後、体をひねって一気に回し蹴りを叩き込んだ。不意を突かれた獣人はそのまま吹き飛び壁に叩きつけられ、呻きながら崩れ落ちた。
「見ねぇ顔だな。どこの犬っころだ?その袋の中身はドックフードじゃなさそうだが。」
突然の出来事に仲間の獣人二人は身構えた。
「あん?一人かクソ女。」
赤毛の獣人が怒鳴りながら牙をむいたが、もう一人の黒毛の獣人はじっと凪を見ている。つま先から頭まで、そして何かを悟ったように赤毛の獣人の腕を掴んだ。
「黒い羽織にコンバットパンツ・・・二本角の女だ。」
「はぁ?こっちは三人だぞ。」
「ふーん、有名で困っちゃうね。」
凪は羽織をパタパタと仰がせながらクスクスと笑ってみせた。
「・・・割に合わん。惜しいがそれは捨ておけ。」
制止した男は壁際でうずくまっている仲間に駆け寄り、その体を乱暴に背負うと、一瞬だけ凪を横目で睨んでから駆け出した。
「なんなんだよ!」
残された赤毛の獣人も苛立ちに満ちた声を上げ、頭を搔きむしりながら仲間を追って路地の奥へと駆け抜けてゆく。
「おい、逃げるな食い扶持!」
すぐに追いかけようとした凪は、足元に横たわっている頭陀袋が目に入り深くため息をついた。地面に置かれたそれは人が一人入れそうな大きさをしており、袋の口からは銀色の髪の毛のようなものがはみ出ている。
「しかし追う訳にはいかんよなぁ。」
凪はゆっくりと肩の力を抜き、羽織を整えながらその場に立ち尽くした。
「これは……どうしたもんか。」
地面に転がされた何か。凪は周囲を何往復かしたのち、意を決して袋の端に指をかけ、ゆっくりと開けた。
その瞬間、袋から伸びた白い手が凪の手を掴んだ。
「あ、あの、助けてくれてありがとうございます!」
「うわぁあああああ!」
突如起き上がったそれは、凪の手を握ったまま丁寧に頭を下げた。
まさか生きているとは思わなかった凪は、目を見開いてその場で尻もちをついてしまった。
長い髪の毛は朝焼けに照らされた水面のような美しい銀色をしており、目鼻立ちのハッキリした顔は陶器のように艶やかだった。凪と同じ十五歳頃の少女だ。細かな刺繍にレースがあしらわれた青いドレスをまとい、キズ一つないよく磨かれたブーツを履いている。そしてほのかに、甘い香水の香り。
「お前、珍しいな。魔法使いか?そんな髪の色じゃ目立つだろ。」
「ええまぁ……。フードで隠してたん……ですけど……。」
少女は言い終える前にふらりと前のめりに倒れ、そのまま意識を失ってしまった。
「おい、大丈夫か?……どうすんだよ、これ……。」
◇
「それで、なんでうちに来るんだよ。」
「なんでって、もともと来る予定だったからだろ?」
「だからって……知らん人間を……。」
「放っとけないだろ。飯も買ってきてやったし文句言うなよな。」
金匣町の大通りから一本西に入った住宅街。少女を担いだ凪は、通りに面した三階建ての低層マンションの一室を訪れた。玄関先に現れた男は謎の少女を背負った凪の姿を見るなり眉をひそめたが、ため息交じりにドアを開けた。
男は自宅だと言うのにドレープの効いた白いブラウスにアイロンのかかったスラックスを履いている。背の高い痩せ型の体に、紫と青が溶け合たような色の巻き毛、左右の耳の上には顔の大きさほどある巻き角があった。
一人暮らしにしては広いリビングに入ると、凪は背負っていた少女をソファに静かに寝かせた。ずいぶん何も食べていないのか、少し頬が痩せているように見える。凪は少女を起こさないよう静かに移動してテーブルの上に先ほど購入した品々を取り出した。それを見た男は深くため息をつく。
「お前なぁ、こんなもんばっか食ってると‥‥‥、まぁ良い、どうせ期待はしてなかったからな。ちょっと待ってろよ。俺様お手製ナポリターナを作ってやるから。」
男は凪の買ってきたパンや即席麵を後目に「やれやれ」といった仕草でキッチンに入りエプロンを付けた。鍋にたっぷり水を注ぎ沸かしている間に、カゴから香りづけの香味野菜とよく熟した赤い実、それから燻製肉を取ると、手際よく包丁で切りフライパンに入れた。軽く炒めながら調味料を何種類か振りかけると、まるで有名料理店の側を歩いているような、お腹を空かせる匂いが広がった。そうしていると鍋のお湯がぐつぐつと煮え始める頃合いだ。棚から取り出した乾燥麺を手で大雑把に量ると、そのまま鍋にねじりながら入れる、すると手を離した時に麺が放射状に広がるのだ。男は食器棚から三人分の皿を取り出した。
まもなくして部屋の中は一層食欲をそそる芳しい香りが立ち込めた。
「ん……?あれ?私一体……ここは?」
ソファに寝かせていた少女が目を覚まして辺りを見渡した。部屋は整理されていてシンプルな家具が多い。白を基調とした配色は清潔感があり花瓶に活けた花の色どりが際立つ。
「あら、食事の匂いで起きたかな。流石は僕の料理だね。ちょうど出来たから召し上がれ。」
男は少女の前に出来立てのナポリターナを置いた。赤いソースが絡まった麺から白い湯気がほんのり揺れている。
「わぁ……美味しそう。あの、助けていただいた……んですよね?私。」
青白かった少女の頬が少しだけ赤く染まった。
「ちょうど店出た時にお前が獣人に担がれてるのを見たからよ、なんか怪しいと思って追いかけたんだ。そしたら拉致られてるみたいだからボコっといたわ。まぁ逃げられたけど。んんっ……、それで、お前が気を失ったからダチの家連れてきた。……あ、アタシは凪、そんでこいつはモーラ。お前の名前は?」
凪はナポリターナを口いっぱい頬張っては
「えっと、凪さん、モーラさん、ありがとうございます。私の名前はカンナ……と申します。」
少女カンナは深く頭を下げると、遠慮がちに手元のフォークを手に取った。
「あぁ、すみません。いただきます。」
カンナは出来立てのナポリターナをゆっくりとフォークに巻いて、口元へ運んだ。唇に触れた瞬間、ふわりと立ち上る湯気の中から、炒めた野菜の甘みと燻製させた魔獣グラナの香りが鼻を抜ける。そのままそっと口に含むと、柔らかくもちっとした麺の歯ごたえに、ほんのり甘くて濃厚なソースの味が広がった。
「……おいしい……!」
思わず漏れた声に、自分で驚いたように目を丸くするカンナ。伸ばした背筋と控えめな動作とは裏腹に、フォークを動かす手は止まらない。気づけば皿は空っぽになっていた。
「……ふぅ……ごちそうさまでした。」
大きく息を吐いて静かにフォークを置いた後、カンナは二人が目を丸くしてじっと自分を見ていることに気が付いた。
「あっ……ごめんなさい、すごく美味しくてつい!」
ソースの赤色に負けないくらい、瞬く間に頬が染まっていく。
「いやいや、良い食べっぷりだったからついつい最後まで眺めちゃった。美味しそうに食べてもらえてうれしいよ。おかわりはいる?」
モーラは微笑みながら腰を上げたが、カンナは下を向いて小さな声で断った。
「お腹空いてたんだな。家にちゃんと帰れるか?見たところこの辺りの住人じゃねぇよな。」
凪はカンナの服装を足元から頭まで眺めながら、そう尋ねた。カンナは困ったように下を向いて頭をかいた。
「それが、えっと……実を言うと、家は……ないんです。」
「「ない?」」
凪と同時にモーラもナポリターナを食べる手を止めてカンナの方を見た。
「はい。えっとその、家が競売にかけられまして。親戚の家を探しに来たんですけど、知っている住所にいなかったものですから、途方に暮れまして……。」
カンナは定まらない目線で指と指を擦り合わせたり、細い指先で爪をなぞったりしながら落ち着きどころを探した。
「こりゃなかなかワケありって感じだな。」
モーラは冷ややかな視線で凪を見つめ、フォークの先を凪に向けた。
「……言っとくがここはダメだぞ。」
「あぁ?んなことまで頼んでねーだろ。言いたいことがあるならハッキリ言えよモーラ。」
凪が身を乗り出すと同時にカンナが立ち上がった。
「あ、あの!助けて頂いたお礼と言ってはなんですが、少しばかり持ち合わせております。ご迷惑をおかけしたのでどうか受け取ってください。私はすぐに行きますので!すみません!」
カンナはドレスの袖を少し引っ張り手首のマジェットを出した。マジェットはヤポーニア帝国で使用されている国営の決済魔法だ。
カンナのマジェットの送金欄は、さらりと「5万侖」と表示されている。その数字を見るや否や、凪とモーラは同時に目を開いてお互いに顔を見合わせた。
「……少なかったでしょうか?」
カンナは上目遣いで不安そうに尋ねた。
「ちょちょちょ、馬鹿お前。そんなつもりで助けたわけじゃねぇよ!」
凪は立ち上がって露骨に慌てた。無理もない。5万侖といえば2カ月分の食費になる。凪は手を振って断る仕草をしているが、目はマジェットに釘付だ。
「んまぁ~でもよ、まぁ~くれるっつーんなら、……有難く頂いとくよ。アタシらはこの町でちょっと顔効くんだわ。アタシらに出来ることがあれば助けてやるよ。なぁ、モーラ。」
凪は横目でモーラを見て大げさに言った。モーラもやはり横目で凪を見て大げさに話し出した。
「まったく。まぁ袖振り合うも他生の縁ってやつだな。その、親戚を探すんだろ?協力するよ。よろしくねカンナちゃん。」
モーラは立ち上がるとカンナに向けて手を差し出した。カンナは快く握手をした。
「お前も現金だよな、モーラ。」
凪は小声でモーラに耳打ちした。
◇
凪たちがモーラの部屋でナポリターナを食べている頃、裏通りでは凪から逃げた獣人達がまた違う何かに追われて走っていた。
肉球の擦れる音、濡れた鼻先から漏れる荒い息、足元がもつれようが、膝が笑おうが、走るのをやめれば即死だという直感が背中を押す。
「ハァハァハァ―—」
「やばいぞアイツ!」
「……振り切ったか?」
多々良横丁の路地は地元の者でも迷うほど入り組んでいる。もともと少なかった人通りも一層なくなり、違法増築の積み重なったビルがひしめく路地は朝か夜かも分らぬほど薄暗い。
路地の先、薄明りの先に白い影が不意に現れた。
「人さらいの獣人集団っていうのは、お前らかな?」
狭い路地に反響して、その声は響いた。
そこに立っていたのは、白衣を羽織った長身の男だった。場違いなほど真新しい白衣は風になびき、その下に覗く黒いスーツと手袋が異様に際立って見える。
「くそっ!今日はツイてると思ったのに最悪だ!」
獣人達はお互いに目配せし、次の瞬間それぞれ三方向に走ったが、ほどなくして路地裏の闇からは悲痛な声が響いた。
黒毛の獣人は、仲間の叫び声を聞いて両耳をピンと立たせた。そして、歯を食いしばって走り続ける。振り返らず真っすぐに。しかしそれも意味がない事だとすぐに悟った。目の前に、その男は立っていた。
「なんで一日に2人も『
「おや?よくご存じで。しかし……二人目というのはどういうことでしょう?教えてくれますか?」
白衣の男はゆっくりと近づきながら尋ねた。丁寧な口調だが、威圧感のあるくぐもった声だった。
「お前が……来る前に、もう一人いたんだよ。この辺りでちょっと有名なお宅の同業者さんがよ。」
「へぇ。そうなんですか。土地勘がないもんで。ありがとう。さようなら。」
その男が何をしたのか、獣人には分からなかった。ただ自分の意識が遠くなっていくのを感じるだけ。
金匣町の裏通り多々良横丁は、暫しの静寂を取り戻した。
◇
「このナポリターナ、ほんっっとうに美味しいです。」
カンナは器用にくるくると麺を巻いては飲むように食べている。一度は断ったものの、結局おかわりを頂いたのだ。
「こいつは飯だけはガチで美味いからな。」
凪も2皿目のナポリターナを大きな口で啜り込む。
「だけはってこたぁねーだろ。それで、なんでまた獣人に捕まってたんだ?」
モーラが尋ねると、カンナは食器を置いて口元をハンカチで拭った。
「はい、先ほど説明した通り、私は家を失い唯一の頼りである親戚に会うためこの町に来ました。今朝がた船で港について、港の近くにある親戚の家を訪ねたんです。しかしそこはすでに違う人が住んでいました。」
カンナは思い出したようにドレスのスリットに手を伸ばし、彼女の手のひらよりも一回り大きな棒を取り出した。それは、主に若い魔法使いが持つ小型の杖である「
カンナが杖を振ると、杖の先から紺色の煙がふわりと広がり、夜空の星のような小さな光の粒がちらちらと舞った。煙がカンナを隠すほど広がったかと思うと、ポスッと音を立てて
「こんなこともあろうかと、荷物は魔法で隠しておいてよかった。ここに親戚の手掛かりが入っていまして。」
古風な人だから、と言いながらカンナはバッグから古びた一通の手紙を出した。差出人の住所は確かに金匣町の港近くだ。
「ご近所の方が何か知ってるかと思い、周りの人に声をかけながら歩いていると、だんだん大通りから外れてしまって……、気づいたら暗くて誰もいない道を歩いてて……あの方たちに……捕まって、しまったんです。」
話すうちに捕まった時のことを思い出したのか、カンナは体を震わせて、かすんだ声で説明した。
「本当に……なんとお礼を言えばよいのか。こんなこと、初めてで。」
手紙を握りしめたままカンナの目から大粒の涙がぽろりと落ちた。
「あらら、そりゃ災難だった。でも、凪がたまたま通りかかって良かったよ。でなきゃ今頃……」
モーラは途中で口を閉じ、キッチンに戻った。食器棚の隣には調味料や香辛料、乾燥した食品が並べられている。モーラはその中から小さなガラス瓶を取り出した。春になるとハマドリュアスの根本に咲く白い小さな花、カモミュアスを焙煎したものだ。
モーラはティーポットに茶葉を入れてお湯を注いだ。湯気と共に果実のような甘酸っぱい爽やかな香りが広がる。モーラはティーポットを少し揺らしながら蒸らしてテーブルに運んだ。
「熱いから気を付けて。飲めば少し落ち着くから。」
カンナは涙を拭ってティーカップを持ち上げた。
「私……ごめんなさい。ありがとうございます。」
カップを覗き込むと、琥珀色のお茶の中にわずかに残留したハマドリュアスの魔力が煌めくのが見える。暖かい湯気と爽やかな香りが心を落ち着かせる。一口飲むと全身にじんわりと熱が広がり、二口飲むと体の震えが止まった。
「美味しい。」
カンナの血色が良くなっていくのを見てモーラは微笑んだ。額縁をはめればそのまま飾れそうなくらい爽やかだ。
「モーラさんて、お料理もお茶もすごくお上手ですね。モーラさん自身もすごく素敵な方ですし、なんだかモデルさんみたいです。」
カンナは無意識に、モーラと凪を交互に見つめた。
「ところで、お二人って、その……失礼かもしれませんが、お付き合い、されてるんですか?」
モーラはお茶を吹き出しそうになるのを手で押さえた。
「ゴホッ!んんっ!あーいやいや、カンナは仕事仲間だ。」
「こんなのと付き合えるかよ。」
凪は同意するように、顔をしかめた。
「あっ。そうなんですか。てっきり、ごめんなさい。」
カンナは少し赤く染まった頬を指で撫でた。
その様子を見たモーラは、先ほどより少し険しい目線で凪の方をちらりと見た。
「カンナちゃんは……人間かな?この辺じゃ珍しい。」
「ええ、そうです。確かにこちら、金匣町に来てからは魔人の方が大半ですね。私は帝都から来たものですから少しびっくりしました。お二人も魔人の方ですよね?」
「帝都からだって?あー、まぁそうだな。ここらは治安悪いからよ。」
凪は歯切れの悪い返事をした。
この地は古くから魔人の集落として栄えてきたこともあり、人間と魔人が一緒に暮らすようになった近年も依然として魔人が人口のほとんどを占めている。
モーラは何か考える素振りをして、そっと時間を確認した。
「さて、飯も食ったし悪いがそろそろ帰ってくれ。」
「えー?この部屋妙に居心地良いんだよ。もうちょっといさせろよ。」
「それはお前の部屋が汚な過ぎるんだ。」
モーラはぐずる凪を無理やりに立たせて食器を片付けた。
「確かに、なんだか良い香りがしますし、とても落ち着きます。」
カンナはうっとりしたように部屋を見渡した。どことなく浮ついている。カモミュアスのお茶が効き過ぎているようだ。
「悪かったって。帰るから!引っ張るな。」
「ごめんねカンナさん!本当はゆっくりしてもらいたいんだけど、ただちょっとこの後用事があるってだけだから気を悪くしないでくれ。後は凪が面倒見てくれるから安心して!」
ハッとしたようにカンナは身支度をして玄関に向かうと、モーラの方を向いて頭を下げた。
「もちろんです!ご迷惑をおかけしました。素晴らしいお食事をご馳走様でした!」
「あぁ。大変だと思うけど僕たちに出来ることは協力してあげるから、気を強く持ってね。——あぁそうだ、凪、これ取りに来たんだろう?」
モーラは棚の奥から小さな袋を取り出すと、何も言わずに凪に手渡した。凪は袋の重みを確かめるように片手で受け取り、中身を確認した。振ると袋の中からジャカジャカと音がする。
「あーそうだった。ありがとう。じゃあな!」
二人はモーラの部屋を後にした。
「さっきの道はこの辺りでも輩が多い場所だから、こっちの大通り歩いた方が良いぜ。」
モーラのマンションから北方向にある凪のアパートに向けて二人は歩いていた。
昼下がりの陽射しが柔らかく路面を照らす金匣町の商店街。パン屋の甘い香りと、どこかで焼いている串焼きの匂いが混ざり合い、穏やかな午後の空気を満たしていた。
「アタシが住んでるボロアパートがちょうど一部屋空いてんだ。お前住むところないんだろ?大家に掛け合ってやるよ。まぁ壁は薄いけどな。」
凪が冗談交じりに言うと、カンナはくすりと笑い少し安堵した表情を見せた。
「そんなことまで!本当に助かります。頼りの親戚が見つからなくて途方に暮れていましたから。数日ならホテル泊まりも出来ますが……。親戚の手掛かりはもう……。」
その時だった。
「誰か!あいつを捕まえて!」
大通りの喧騒をかき消すような悲鳴が響いた。振り返ると、一人の女性が足元をよろけさせながら叫んでいる。
人混みを縫うように一人の男が凪たちの横を駆け抜ける。その腕には女性もののハンドバッグがしっかりと抱きしめられていた。
「はぁーっ!!今日は事件が多いね!ごめんな、ちょっとどいててもらえるか?」
凪は先ほどモーラから受け取った袋を開け、中から橙色の容器を取り出した。その中には銀色の錠剤が入っている。
「それ、増強剤ですか?——キャッ!」
カンナが薬を覗き込んだ瞬間、凪は素早く彼女の腕を引っ張り、近くの店の軒先に立たせた。
「だから離れてろって!」
凪は錠剤を口に放り込み、瞬時に両腕を広げた。すると、広げた両腕からみるみると羽根が生え揃い、真っ黒な翼となって凪の体を包み込んだ。
凪は低く身を屈め、ひったくり犯が逃げた方向を見据えると、息つく暇もなく翼を力強く羽ばたかせた。空気が裂ける音と共に、彼女は驚くほどの速さで五軒先の店まで一瞬で飛んで行ってしまった。
「すごい!!!」
カンナは風に煽られるスカートと髪を必死に押さえながら、目を見開いて叫んだが、その目の前で、凪の姿はもうほとんど見えなくなっていた。
凪が空を飛んで行った方向を見つめるカンナは、しばしその光景に目を奪われていた。
「わぁ・・・・。あ、ちょっと待って!凪さん!」
ハッとしてカンナはすぐに凪を追いかけた。
突風に煽られ花屋からは散った花びらが舞いあがり、パン屋の看板はガコンと音を立てて大きく揺れた。カフェのテラス席では談笑中の老人たちは目を細めて空を見上げ、「誰だ今の、見たか?」「黒い影が一瞬で――」と口々に驚く。レストランから出てきた男性は帽子を飛ばされ、美容院から出てきた女性はため息をついてまた店に戻っていった。
ひったくり犯はハンドバッグを抱えたまま全速力で通りを駆け抜ける。逃げ足は速いが、焦りに任せて人の波をかき分けるように走る姿は目立ち過ぎていた。
「チッ……なんだ今の風は。治安局か?」
商店街のはずれまで走ったところで、額の汗を袖で拭いながら男は背後を振り返った。しかしそこには誰もいない。男は周囲をキョロキョロと見まわした。
風が唸る音と共に、男の上に影が落ちた。
「上か!!!」
男が見上げると、太陽を背に大きな翼が目に入った。男は細い路地に逃げ込もうとしたが、遅かった。
地上から数メートルという高さから、凪は一気に急降下した。
「——あんたの足よりアタシの羽の方が早いみたいだな。」
凪のブーツが路面をかすめ、数歩分滑るように着地した瞬間、彼女の手がひったくり犯の襟首を掴んだ。
がくん、と男の体が引き戻され、バランスを失って転がった。胸に抱えていたハンドバッグが宙に舞い、中から手帳やハンカチ、口紅などが散らばった。
「今時、婦女子のカバンなんか盗んでどうする気だった?」
男は立ち上がろうと手をつくが、凪は一歩踏み込み、素早く足払いをかけた。男の体が大きく傾く。
さらに凪はすかさず相手の腕を取って捻り上げ、背中から地面に押し倒した。
「うるさい。お前には関係ない!」
地面に伏せた男が、喚きながら懐に手を伸ばす。次の瞬間、鈍い金属音と共に、短刀の刃が光を反射してきらりと光った。
すぐさま手を引いて後ろに下がった凪の頬を刃先がかすめる。
ほんの一瞬、視界が澄んで見える。風の音すら静まり返るほどに。凪は魔力がが身体の奥で炎のように燃えているのを感じた。
凪は男の懐へと一歩で踏み込み、振り下ろされた刃の軌道を読むと、左手をすっと伸ばした。バシッと乾いた音が鳴り、男の手首を掴む。そのまま肘を抱え込むように体を回し、手首の関節に圧力を加える。
「ぐあっ……!」
男の悲鳴と共に短刀が手を離れ、カランと石畳の上に転がった。凪は男の腕を背後に捩じり、片膝で体重をかけて抑え込んだ。
「くそっ!もう少しだったのに!」
遠くでサイレンが鳴り響く。通報が入ったのだろう。治安局の車両が近づいてくる音が聞こえてきた。
「凪さん!だ、大丈夫ですか!?」
ちょうど治安局が到着するとほぼ同時に、カンナが走って駆け寄った。
凪は男を押さえたまま、ちらりと後ろを振り返り口元だけで笑った。
「——ありがとうございます。後は私たちが引き取ります。」
制服姿の治安局員が、呼吸を整えながら駆け寄ってきた。車両のドアが開くと、すでに乗せられていた先の獣人グループ三人が、凪とひったくり犯を見てにやりと笑った。
「すみません、別件で出動していたもので。遅れました。」
凪が男を引き渡すと、治安局員は丁寧に礼をしてから彼を車へ押し込めた。
車内では、獣人の一人が面白がるように呟いた。
「あーあ、お前も不運だな。あの女、刺銀だったろ?」
「……イレガネ?」
「知らないか。まぁなんだ、秘密治安員だとか、掃除屋だとか言う奴もいる。」
「はっ!そんなもん信じてんのかよ。」
「信じなくてもいいけどな。噂じゃ、体に金属の刺青が彫られてるとか――ま、俺も実際に見たことはねぇけどな。」
「クソッ……そんなことはどうでもいい。あの薬さえ手に入れば――!」
車の外では、治安局員が先ほど盗まれたハンドバッグを、落ち着いた様子の貴婦人に手渡していた。
「こちらのバッグ、中身をご確認ください。」
「ええ、ええ、……大丈夫ですわ。ありがとうございます。」
彼女はバッグを開き、奥にしまってある小瓶をこっそりと確かめた。手が一瞬だけ震えたが、すぐに閉じられた。
遠くから様子を見ていたカンナは凪に駆け寄りぽつりと呟いた。
「すごい……強いのね。」
「まぁね。今日は思わぬ臨時収入が多い日だな。」
凪は軽く笑いながら、腕のマジェットを操作する。腕から浮かび上がったディスプレイが何やら映し出した。マジェットは決済に限らず連絡から計算まで多様な用途が詰め込まれた便利機能でもある。
「何してるの?」
「初犯かどうか調べてる。指名手配になってれば賞金が結構貰えるんだけど、初犯だとあんまり貰えないんだよね……。」
操作しながらしばらく見つめ、肩をすくめる。
「うーん。あぁそうだ、これから調書がちょっとあるから時間かかるわ。ごめんな。」
「いえ!私は大丈夫です!ねぇ、凪さんのお仕事って?」
「ん?私の仕事?」
凪はカンナの方を振り返り、腕を組んでのけ反って見せた。
「へへ。賞金稼ぎだよ♡」
凪が軽い調子でウィンクすると、カンナはぽかんとしたまま、彼女を見つめる。
「へぇ……そんな仕事、あったんだ。」
不安そうに眉を寄せたカンナは、ふと空を見上げる。夕暮れの赤が街を染める中で、隣にいる少女が思いのほか遠く感じられた。
(大丈夫かなぁ……)
カンナの心に、そんな呟きだけが静かに落ちた。
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