月と日の向き、影の無垢

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

Prologue

 冬間近の浜辺には人っ子ひとり居ない。

 いや、嘘だ。私が居て、隣にはおっさんがいる。私はビキニでもなければ水着でもない、厚手の緩やかなワンピースを着て、意味もなく海を見つめる。

 荒々しく叩きつけるような波打ち際を見る度に、背筋が震えて寒気が走る、そして、隣のおじさんを見つめれば、ぬくもりが後悔を纏って感情を包み込む。


「しずく、今、失礼なこと考えただろ?」

「考えてないし」

「おっさんて考えただろ」

「それは事実じゃん」


 呆れたように項垂れたおっさんは、胸ポケットのシガーケースからタバコを一本取り出すと口に咥えて火をつける。吐き出された煙が風に乗って飛ばされてゆくのを見つめながら、そういえば風下に立ってくれていることに気がつく。


「ありがと」

「なにが?」

「なんでもない」

「それならいい」


 短い言葉の掛け合い、言葉は言わずとも意味は通じる。だから、私はここにいるし、ここにいられる。最低なお人形にもなっていないし、憐れまれるようなこともない。


「ねぇ、キスしたい」

「あ?タバコ吸ってんだけど?」

「それでも」

「ダメだ、こっちが先、そっちは後だ」

「ケチ」

「ケチでいいさ、それよりも、これ羽織っとけよ」


 おっさんが着ていたパーカーが背中から掛けられて私を包む。いつものおっさんの香りとタバコの匂い、入り混じったそれに嫌悪感を抱くことはない。


「ありがと」

「どういたしまして」


 再び視線を海へと向ける。

 大きな白い波が横に走り、やがて、大地の砂浜へ叩きつけて、消えてゆく。

 そこにやさしさなんてない。

 唸り声をあげて、大きく振りかぶって、振り下ろされる。

 砂浜はそれに耐えるしかなく、ただ、それを受け止めて、飛び散った波飛沫を涙として泣く。

 無意識にお腹へと手を添えた私におっさんは驚いたらしく、ポケット灰皿にタバコを擦り付けて揉み消した。けれど、言の葉を漏らすことはない。


「大丈夫、ちょっと怖くなっただけ」

「そっか、ならいい」


 再びシガーケースからタバコを取り出して火をつけて、先ほどと変わらず、煙を風へとのせて飛ばしてゆく。


「海は広いな大きいな、月は登るし……」


 童謡を口ずさみ、そして、おっさんを見つめる。


「日は沈む……」


 おっさんが口ずさむ、でも、その後の歌詞は続かない。


「この歌は嫌いだ」

「どうして?」

「しずく、帰るぞ」

「うん」


 話は打ち切られた。

 もう、きっとこの話をすることはないだろう。私はパーカーを纏ったまま、津波堤防の先に止められている車へと向かうおっさんを追いかける。

 そして、その手を握った。

 温かくて大きな手は安心感を私に与えてくれる。

 タバコはすでに消され、彼の息より煙はなくなっていた。

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