第6話

 愛車を走らせること二時間弱。鬱蒼とした山奥に到着した。

 バイクで進むことが出来るのはここまでだ。整備されていない道をスポーツバイクで走ることはできない。


 美羽は耳を澄ます。微かに聞こえてくる戦闘音。怒声や咆哮、爆発、打撃音などが美羽の耳朶を打っている。距離は、ここから約一キロと言ったところだろう。どうやら間に合ったようだ。

 美羽はジェラルドから頂いたジンのボトルを一気に空ける。九百ミリリットルのジンが、十数秒で美羽の胃に消えた。


「さて、行きますか」


 ウェポンケースからスリング付きのPSG‐1を出し、しっかりと背負う。美羽は湿った土の坂を、ローファーのまま駆け上がっていった。

 遠方で巨大な火柱が上がる。ベリアルの炎だろう。あんなものに焼かれれば、人間の体など一瞬で灰だ。無謀なハンター達は、あとどれだけ残っているのだろうか。

 美羽は木々の間を縫うように駆け、断崖の前で停止する。ここからなら、火柱のあがった地点が良く見える。


 半径数十メートルほどの焼け野原になっていた。森林地帯である山地の、その部分だけ爆撃でもされたように焦土と化している。

 その中心に、ベリアルの姿。


「げ」


 ベリアルの姿は映像で見たものと同一だったが、実物のサイズは驚愕に値した。

 一キロ先からでも解る。まるで巨人だ。目算だが、その身長は十メートルにも達するだろう。


「あんなに大きかったの?」


 凹凸のある黒々とした体表。獅子にも似た頭には、山羊のような角が生えており、キリスト教における悪魔を彷彿とさせた。最も特徴的なのは、全身に纏う真っ赤な炎と、背中から生える火炎の双翼だ。常に炎が噴出しており、大きく拡散している。その炎と同じく、燃え盛るような真紅の双眸が周囲を取り囲むハンターを捉えていた。


「うひゃー。こりゃすごい。なるほどねぇ」


 大金がかけられるのも頷ける。魔界でも有数の強者に違いない。

 美羽の決して短くないハンター人生でも、これほどの獲物とは出会ったことがない。


「桁違いの興奮を感じる。腕がバシバシなるわね」


 ベリアルを取り囲む十数人のハンターらは、決死の様相で波状攻撃を仕掛けている。ある者は氷の槍を撃ち飛ばし、ある者は雷の刃を放ち、またある者は光の弾丸を降らせている。

 が、ベリアルの纏う炎の鎧が意思を持っているかのようにうねり、その全てを燃やし尽くす。ベリアルに届いた攻撃は一つとしてない。ベリアルの拳が地を打てば、そこを中心に広がった炎の渦がハンター達を呑みこみ、舞い上げ、吹き飛ばす。


「弱っているんじゃなかったっけ」


 魔装兵器によって強靭な肉体を獲得しているハンターですら致命的なダメージを負っている。あんなものを喰らえば、何の加護も受けていない美羽の体など一瞬で黒焦げになってしまう。


「ま、近づかなきゃ大丈夫か」


 美羽はその場に膝をつくと、スナイパーライフルを構えた。ベリアルほどの大きな的に当てることなど容易い。大して集中することもなく、美羽は引き金を引いた。

 銃声。音速を超える鉛の弾丸が夜風を切り裂いて飛ぶ。狙いはベリアルの頭部だ。いくら巨大な魔族とはいえ、頭部にライフル弾を撃ち込まれて無傷であるはずがない。

 弾丸はベリアルの側頭部に吸い込まれるように飛来して――炎の鎧に阻まれて消えた。


「……やっぱりね」


 ハンター達の攻撃を無効化したあの鎧がある以上、遠距離からの狙撃が通用するとは思い難い。予想はしていた。していたが、実際に狙撃が通用しないとなると色々と面倒だ。

 美羽は溜息を吐く。遠距離攻撃が弾の無駄ならば、接近するしかない。ハンター達の攻撃が防がれていたことを鑑みるに、相当近寄らなければならないだろう。それこそ、ベリアルの体に銃口を押し当てるくらいの気概が必要だ。それを実行するべきだろうか。考えるまでもない、ただ自殺行為だ。冗談でなく、飛んで火に入る夏の虫になってしまう。


 美羽が考える間も、ハンター達は果敢にベリアルに挑んでいる。が、やはり炎の鎧は堅牢だ。ベリアルが傷を負っているようには見えない。

 どこの誰だかは知らないが、あの魔人を追いつめたというハンターには敬意を示さねばならないだろう。

 美羽は再び狙いを定める。たとえ狙撃が効かなくとも、何かしら攻略の手がかりが得られる可能性はある。間を開けず続けて二度、トリガーを絞る。二発の銃弾はまったく同じ軌道を描き、前後に並んで飛んでいく。堅い装甲を持つ敵などに、美羽が良く使う手だ。一発目で十分なダメージが与えられなくとも、まったく同じ箇所に命中する二発目が敵を貫く。


 これならば通用するだろうか。四半秒の思考の末、美羽は更に二度引き金を引いた。計四発の弾丸が、全て寸分の違い無い軌道を描いた。

 弾丸の接近に呼応して、ベリアルの炎がうねる。その鎧を貫かんと、四発の弾丸が飛び込む。


 一発目は高熱で溶解し、炎が揺らぐ。

 二発目の放つ衝撃波が、炎に針の穴ほどの隙間を空けた。

 三発目が更なる追撃で、炎は隙間を広げられ。

 四発目で止めばかりに、炎の鎧を貫いた。


「おおっ!」


 思わず歓声を上げる美羽。弾丸は固い表皮をも貫通してベリアルのこめかみに潜り込んだ。ほんの一瞬、ベリアルの動きが止まる。

 そして次の瞬間、美羽はベリアルと目が合った。

 背筋に寒気が走る。直感が死を意識する。半ば無意識的に、美羽は全力で横跳びする。


 直後、美羽が陣取っていた地点に巨大な火の玉が飛来した。運動会で転がす大玉ほどの大きさだ。人の身より大きな火球は、火炎の残滓を残して大地と木々を抉り取っていった。

 余波で吹き飛ばされた美羽は、土の斜面をごろごろと転がって、ようやく立ち上がる。

 九死に一生。もし回避が間に合っていなかったら、美羽の体は消し炭と化していただろう。想像するだけでぞっとする。


「冗談きついわ……」


 この距離で、この夜闇の中で木々の陰に隠れていた美羽の姿を正確に把握するなど、普通ではない。銃撃の方向というヒントがあったとはいえだ。にわかに信じられない。

 ベリアルは足元のハンター達を薙ぎ払うと、再びに美羽に目を向けた。


「見えてるっての? 嘘でしょ」


 ベリアル膝を折る。そして、跳躍。十メートルに達する巨体が宙高く舞い、炎の双翼をはためかせて滑空する。一キロ離れた距離から接近してくる炎の魔人に、美羽は些か以上に狼狽した。ベリアルの姿はみるみるうちに大きくなる。


「うそ。うそうそうそうそ!」


 わずか数秒で美羽の頭上を越え、木々をなぎ倒しながら着地。つい先程まではるか遠方にいた巨体が、今は数十メートルの距離で背中を向けている。

 ベリアルの体が、こちらへ向いた。

 近くで見れば、如何に巨大であるかを再認識する。この近さでは、視界に収まりきらない。ベリアルの放つ熱気が、美羽の肌を撫でた。


『効いたぞ』


 地を揺るがすような、低く分厚い声。


『よもやあの距離から我の防備を破るとは』


 何をするべきか。美羽は必死で頭を回しながらも、不敵に微笑んで見せる。


「褒めてくれてるの? 光栄だわ」


 今手にあるのは弾切れのPSG‐1のみ。つまり丸腰だ。その他の武器は全てバイクのウェポンケースに収納したまま。


「とても痛がっているようには見えないけどね」

『であろうな』


 ひとまず退却しなければ話にならない。しかしどうやって? 敵がみすみす見逃してくれるわけはない。丸腰だと悟られてはより駄目だ。

 べリアルは先程まで自分がいた場所を見据えて、赤熱の目を細める。


『あそこにいるのは雑魚ばかりだ。退屈が過ぎる。あれならば、何もしていないほうがまだ趣がある』

「へぇ?」

『貴様は違うようだがな。小娘』


 厳つい容姿の割に饒舌であることは、美羽の意表をついた。


「その言い方だと、ただ人間を狩りに人間界こっちにきたってわけじゃなさそうね」


 お喋りが好きなら、時間を稼ぐことくらいはできる。


『そのような低俗な遊び、我には不釣り合いだ』

「だったら、どうして?」


 人間狩りが目的でないのなら、なぜ二百もの一般人を殺したのか。戦闘を求めてハンターをおびき寄せるためだとするならば多すぎる。魔族が人間界にわたってくる理由の大半は、ただの人間狩りか、もしくはハンターの討伐および決闘だ。だが目の前の魔人はそのどちらでもないようだ。


『世界を救う英雄は、異界の者でもかまわんということだ』


 ベルアルは何を意図してそう口にしたのか。話の内容など、今の美羽からすれば何の意味も持たない。どうでもいいことだ。


『理解できんと見える』


 理解しようとしていないだけだと、美羽は内心呟いた。


『ならば、これで終わりだ』


 べリアルが一歩を踏み出す。それだけで土煙が舞い、地が響く。

 最低限の時間は稼げただろう。美羽はふぅと吐息を漏らす。


「気を付けたほうがいいわよ」


 銃口をべリアルに向け、


「目の前の敵だけに集中するのは、素人のすることよ」


 その言葉でやっと気づいたか、べリアルはとっさに背後に振り返った。

 一瞬でもべリアルの視界から美羽が消えた。絶好の機だ。美羽はライフルを担ぎながら地を蹴り、斜面を滑り落ちるように駆け下りていく。


『ム』


 ベリアルが逃げた美羽を捉え追おうとするが、それは叶わなかった。ベリアルに追いついたハンターらが、一斉に攻撃を再開したからだ。

 ベストなタイミングだ。足止めには十分だろう。

 愛車のもとに帰還した美羽は、髪や制服についた土を払うと、ウェポンケースを開いた。ポーチやホルスターなどの装備を身に着け、愛用の銃器類を全身に備える。


「反撃開始ね」


 美羽は再びベリアルへ続く斜面を駆け上っていく。間近に聞こえる戦闘音。熱気が周囲を覆っている。立ち回りを続けるハンター達に混ざり、美羽も戦闘に飛び込んだ。

 ハンターの奇襲が成功したのか、ベリアルの左胸には太い氷の槍が突き刺さっていた。背中まで貫通している。しかし、どうにもダメージを受けている様子はない。変わらぬ炎による猛攻を継続している。


 美羽は持ち前の目を活かして位置取りを意識し、飛来する火球や拡散する火炎を回避しつつ頭を巡らせる。ベリアルの言葉を信用するなら、銃弾でも効果的な傷を負わせられる。だが、痛がりはしない。つまり痛覚が無いということだろうか。痛みを感じないのなら傷程度による戦闘能力の低下は期待できないだろう。そのためには肉体、器官そのものを破壊しなければならない。

 しかしそれも案としては不確かだ。現に氷の槍はベリアルの胸を貫いている。人の形に似ているからと言って内臓器官まで同じ位置にあるとは限らないが。


 ハンター達はベリアルを囲み、周囲を回るように駆ける。敵を中心とした衛星軌道。

 美羽はH&K社製G3アサルトライフルを構えると、ベリアルの延髄を狙いトリガーを引いた。十数回の連続する銃声。フルオートで連射された弾丸は一つ残らず狙い通りに飛び、うち数発が炎の鎧を貫いて着弾した。ベリアルの黒い皮膚が弾け、傷から赤々と光る火の粉が漏れた。


 ベリアルがこちらを見た。攻撃を予感した美羽は数度のバックステップで距離を取りつつ、敵の眉間に銃撃を行う。

 同時に他のハンターらの攻撃がベリアルを襲う。美羽の銃弾も含め、ほとんどは炎の鎧によって無効化されたが、ただ一つ、雷の刃がベリアルの左上腕を切り裂いた。深い傷から火の粉が噴き出る。


『ほう……』


 ベリアルが声を漏らす。

 美羽には突破口が見えた。ベリアルの炎の鎧はたしかに堅牢だ。いかなる攻撃もその高温と圧力で防がれてしまう。だが、炎の量にも限界はある。攻撃の量が炎の量を上回れば、全方位化からの一斉攻撃には対応できないのだ。


『一人増えるだけでこうも違いが出るとは』


 もちろんハンターの数だけが問題ではない。重要なのは美羽が加わったことだ。一人で鎧を貫くことのできる美羽は、この場でベリアルの脅威になりうる唯一の存在。そして彼女と共闘するハンター達が、互いに脅威度を引き上げている。


『これは……本物か』


 光明が差してきた。勝機はある。

 ハンター達もその思いを共有しているようだ。勝利への希望が見えてきた時、人はより強い力を発揮する。

 再びの一斉攻撃。ベリアルは跳躍し回避を試みるが、巨体が仇となり脚部に攻撃が集中する。それらは炎の鎧によって防がれるも、頭上から降り注いだ光の弾丸がベリアルの全身を穿ち、地に墜落させた。

 好機だ。身動きの取れない敵は、とどめの一撃を入れる隙をさらけ出している。

 勝った。誰もがそう確信した。ハンターらは我先にとベリアルに肉薄する。


「だめ!」


 ただ美羽だけはそうしなかった。むしろ後退し、ベリアルより離れてしまう。

 悪寒を覚えたのは美羽だけだった。

 勝利への希望は、そのまま油断に直結する。そして油断こそが、希望を絶望に、勝利を敗北に変貌させる最大の敵。

 ベリアルの全身から噴き出した赤熱の火炎が、ハンター達を呑み込み、灰すらも残さずに燃やし尽くした。ベリアルの周囲十数メートルは、刹那の間にすべてが消滅した。ハンターも木々も、木の葉の一枚ですら、この世から存在を消した。


 ただ一人、地に膝を着く美羽だけを残して。

 熱風すら感じなかった。目の前の空間が炎に包まれたと思った時には、すでに跡形もなかった。あれは炎ではない。炎の姿をした別の何かだ。

 炎が収まった後、倒れたままのベリアルの体に、幾つもの亀裂走っていく。音を立てて罅割れていく巨体から、美羽は目が離せない。


「どうなってるの?」


 まさか、ベリアルは力尽きたのか。焼け野原の中心で微動だにしないベリアルを見ていると、生きているのどうかすら疑問になってくる。

 いやしかし、あまりにも呆気が無さすぎる。自爆紛いのことで終わりのはずがない。


『驚いたぞ』


 美羽は脊椎反射で射撃姿勢をとる。

 やはり死んでいない。一見すると重傷だが、それにしては声から疲れも苦痛も感じられない。いくら痛覚がないのだとしても、ダメージそのものは負っているはず。


『見事としか言いようがないな。人の身で、よくぞここまで我を追い込んだ』


 ベリアルが動く。手をついて立ち上がろうとするも、ついた手が負荷に耐えきれず粉々に砕け散る。飛散した黒い皮膚の破片と共に、内部の炎が火の子となって広がる。

 それでも立ち上がろうと足を着くと、今度は膝から先が同様に破砕した。

 ベリアルは無様に地に倒れ伏す。


『この体も限界か』


 ベリアルの全身の皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていく様を、美羽は呆然と眺めていた。思わず構えていた銃を下ろしてしまうほどに面食らっていたのだ。

 剥がれ落ちた皮膚は黒き灰となって森に溶け、皮膚の奥で渦巻いていた炎の塊は、土に吸い込まれるように鎮まっていく。


「なるほどね……そういうこと」


 美羽は得心した。

 消えかけた炎の中に、小さな影が見えたのだ。

 頭部に銃弾を受けても、胸部を氷の槍で貫かれても表情一つ変えず戦える理由が解った。痛覚が無いなんて当たり前のことだった。あの黒い巨体は、そもそも生物ではなかったのだから。

 ベリアルが纏っていたのは、攻撃を無効化する炎の鎧だけではなかった。あの黒くゴツゴツした皮膚も、その中の炎ですらも、単なる外殻に過ぎなかったのだ。

 炎の中、佇む小さな人型こそ、ベリアル本人。


 美羽よりも小さく細く、一糸まとわぬ姿の少女が、紅い瞳をこちらに向けていた。白く滑らかな肌は、先程までの姿とは対照的で、握れば潰れてしまいそうなほど華奢だった。踝まである炎よりも赤い髪を揺らし、少女――ベリアルはゆっくりとこちらに歩を進めてくる。儚げな少女が炎を背にした光景はまるで絵画のようだった。

 惚けている暇ではない。

 姿形は変われど、あれが多くのハンターを屠ったベリアルであることに変わりはないのだ。

 美羽はアサルトライフルを構え発砲する。バースト射撃による三発の銃弾がベリアルに向かう。


「忘れているぞ」


 銃弾はベリアルの纏った炎に阻まれ、蒸発して消えた。


「そういえば、そうだったわね」


 同じだ。小さくなり可愛らしくなっても、体に纏う炎の鎧は変わっていない。否、体が小さくなればこそ、炎の密度は高くなり、守備範囲も相対的に広くなっているはず。


「惑わされてくれるなよ。貴様に失望したくはない」


 ベリアルの浮かべる妖しげな微笑は、到底人間の少女が真似できるものではなかった。そこからは膨大な年月を感じさせる迫力がある。

 気圧されてしまう。まだ巨大な魔人であった方が、奮起できた。


「冗談じゃないわ」


 美羽は再装填すると、ベリアルの小さな頭部に狙いをつける。


「ここまで来て、賞金を頂かないわけにはいかないからね」


 美羽が引き金を引くと同時に、ベリアルが地を蹴りつけた。

 銃撃を回避したベリアルは炎の双翼を羽ばたかせ、美羽の頭上から火球の雨を降らせる。とても数え切れる数ではない。

 美羽は目を凝らし、火球の隙間を縫うように移動し時に体を捩じらせて回避する。そしてまた射撃。今度は、炎の鎧を貫くべく、十数発の弾丸を同じ軌道で撃ち放つ。反動による銃口の跳ね上がりを巧みに制御し、幾つもの弾丸は一本の槍となってベリアルに突進する。


 さすがに空中では地上程の機動性を得られないのか、ベリアルは回避する素振りさえ見せたものの、射線上からは逃れられない。炎の鎧を貫いた弾丸の槍は、ベリアルの肩口を撃ち抜き、赤い鮮血を散らした。


「そうこなくてはな!」


 ベリアルは負傷したにも拘らず、無警戒で美羽に突撃してくる。

 真っ向から迎え撃つほど馬鹿ではない。美羽はサイドステップでベリアルの進路上から退く。ステップを継続させながら、手榴弾の安全ピンを抜く。着地したベリアルの隙を見逃さず、二本の手榴弾を投擲した。このタイミングではベリアルに逃れる術は無い。


 連続する破裂音。ベリアルの至近で爆発した手榴弾は、炎の鎧に遮られながらも彼女の白い皮膚を切り裂くに足りた。細い腰と左脚に、鮮血が滲む。が、ベリアルは怯まない。

 気がつけばベリアルは美羽の眼前まで迫っていた。尋常でない瞬発力にぞっとする。ベリアルは拳を振りかぶる。その拳に激しい炎が灯り――


「んっ!」


 美羽は咄嗟に体を捻った。

 ベリアルの突きだした拳から放たれたのは、極大の炎の塊だった。美羽が狙撃時に飛んできたものと同一の炎弾だった。

 辛うじて躱ことが出来たが、ライフルの銃口が炎弾に掠める。それだけで金属製の銃身は溶解し、銃としての機能を失わせる。


「阿呆が」


 体勢を崩した美羽の腹に、ベリアルの蹴りが打ちこまれた。

 声にならない叫びを漏らし、美羽は吹き飛ばされ大木に背中から激突する。腹部を抉り取るかのような激痛と、背中を強打したことによる呼吸困難で、美羽は声を上げられずに腹を押さえてうずくまる。

 なんだこれは。信じられない、とてつもない威力。冗談ではない。あの小さな体の一体どこにこんな力があるのというのだ。

 悶え苦しむ美羽を、ベリアルが見下ろしている。


「脆いものだな。人間という生き物は」


 その瞳には、物憂げな光を湛えている。


「あんな蹴りの一つで動けぬのだからな」


 徐々に戻る呼吸の中で、美羽は彼女の言葉を聞く。

 確かに人は脆い。非力で、低い生命力かもしれない。

 だがそれがどうした。そんな人間にも、誇りの持ち合わせくらいある。生まれながらの強者が身勝手な御託を並べて、勝利を気取るのはやめろ。


「舐めてんじゃ……ないわよ」


 未だ引かぬ激痛を意地でねじ伏せ、美羽は声を絞り出す。


「私もね……伊達に、生き残ってきてないのよ」

「戦意は失っていないようだが、そんな状態で何が出来る? 立ち上がることもできず、地に這いつくばる貴様が――」


 ベリアルの言葉が途切れる。彼女の足下に一本の手榴弾が転がってきた。


「またあの爆薬か? しかしこの距離なら貴様も――」


 巻き込まれるつもりはない。美羽は目を固く閉じ、両耳を強く塞ぎ、小さくうずくまった。

 転がったのはただ手榴弾ではない。閃光手榴弾と呼ばれる特殊なものだ。爆発時には強烈な閃光と爆音が発生し、周囲に拡散する。人間相手なら視力と聴力をほぼ無力化できる代物である。


 そしてそれは魔族とて例外ではない。むしろ、人間に比べて視力と聴力に優れるからこそその効果も覿面だ。

 出来る限り閃光手榴弾の効果を軽減しようとした美羽ですら、あまりの大音響と閃光に眩暈と耳鳴りを覚える。だがいつまでもうずくまっているわけにはいかない。美羽は痛む腹を押さえて、懸命に立ち上がろうとする。

 目の前のベリアルは不動だった。何が起こったか解らないと言うように、ただ立ち尽くしている。いまの彼女は、何も見えず、何も聞こえていないはず。周囲の状況を知覚する術を失ったのだ。纏うものは炎だけ。そのあまりに無防備な少女を前に、美羽は太股のホルスターから拳銃を抜く。


 一点集中の射撃をする体力と集中力は残っていない。引き金を引くだけで精一杯だ。

 美羽はゆっくりと拳銃を持ち上げ、ベリアルの眉間に銃口を押し当てた。炎の鎧は反応しない。

 深く息を吸う。

 吐く。

 格好よくとどめの台詞くらい言いたいところだが、もはやそんな気力すらない。

 震える指先で、引き金を引いた。

 美羽が憶えているのは、自ら響かせたこの銃声までだった。

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