第2話 騎士学校のおちこぼれ
ギギー・オルランディは、騎士学校のおちこぼれである。
実技においては、第一学年の五十人ほどいる生徒の中で、すべての科目において最下位。たとえ三学年の全生徒を合わせたとしても、最下位に違いなかった。
学科試験ではそこそこの成績だという自信があったが、この騎士学校において学科成績の良さはあまり意味がない。
騎士学校という場所柄のせいか、同じ学年には体格の良い生徒が多いが、ギギーは小柄で細く、体力もなかった。その上、すぐに熱を出す体質ときている。この国ではめずらしい黒い髪と瞳なのも相まって、余計に悪目立ちしている自覚があった。
「――次、ギギー・オルランディ」
「はい!」
教師がギギーの名前を呼ぶと、修練場の空気ががらりと変化した。試験という緊張に張り詰めた空気が一気に弛緩して、室内に静かなざわめきが広がっていく。
今日は一ヶ月ごとに行われる月末試験の日だ。午前中は各学科の試験が行われ、昼休みを挟んで、午後からは科目ごとの実技試験が続いている。いまは、最後の剣術試験の真っ最中だ。
四方の壁際にぐるりと並んでいた同じクラスの生徒たちの視線が、中央へ進み出たギギーへ集中する。その視線には好意的なものがほとんどなかった。彼らの顔に浮かんでいるのは、嘲笑や侮蔑といった負の感情ばかり。
「おちこぼれが」
「おい、見ろよ。へたくその出番だぞ」
「三ヶ月もいて、身の程知らずだと、まだわからないのか」
「さっさと退学すればいいのにな」
悪意に満ちた声があちこちから聞こえてくる。気分が良いとは言えないし、最初のころは悪意を向けられるたびに落ち込んでいたが、入学してからの一ヶ月ほどですっかりと慣れてしまった。だが、気にせずにいられるかという話はまた別で、ギギーはそれほど神経が太くない。
「――いまは集中しろ、集中だ」
だれにも聞こえないような小声で、自分にそう言い聞かせた。
騎士学校は、王都の外れにある騎士の養成学校だ。十六歳になるこの国の貴族令息には全員入学資格があり、無試験で入学できる。まれに平民が特別枠で入学することもあるが、剣術と筆記試験があり、騎士の推薦が必要な理由から、平民にとっては狭き門となっていた。今年の一学年に、平民の入学者はひとりもいないと聞いている。
剣術や槍術、弓術、体術、馬術などの実技訓練はもちろん、騎士として必要な教養やマナー、自国や近隣諸国の歴史、戦術などの幅広い学科授業。三年間の厳しい教育課程を経て、卒業後には晴れて騎士となり、この国の王族や民を守る剣となる。
騎士になることは、決して貴族令息の義務というわけではなく、むしろ文官の道を選ぶ貴族令息のほうが多い。嫡子は家督を継ぐため、代々騎士が当主を務めている家でもない限り、騎士学校への進学は選択肢から除外するのが通例だ。
騎士の仕事には、命の危険が伴う。魔物が出没すれば討伐を行い、有事の際は戦場へ赴く。騎士になるためにはたゆまぬ研鑽が必要で、学年が上がるごとに騎士学校の教育課程は厳しくなっていく。訓練についていけず、退学する生徒が毎年何人も出ている。騎士になるのは決して容易ではなく、覚悟が必要なのだ。
学生たちにはそれぞれに様々な思いがあるが、騎士になることを覚悟して騎士学校の門をくぐったという点はみんな同じ。それなのに、素質もなく、努力をしているようにも見えず、あまつさえ片手間に仕事をして、覚悟などかけらもなさそうに見えるギギーが、彼らを不快にさせるのは当然だった。
ギギーにだって覚悟はあるが、騎士になることはギギーにとって願いをかなえるための手段でしかない。騎士になりたい理由が不純であり、異質なことには変わりなかった。だから、どれほど罵詈雑言を向けられたとしても、それを受け止めるしかないのだと考えていた。
騎士に向いていなくても、険しい道だとしても、ギギーはどうしても騎士になりたかった。騎士になったあかつきに得られるものを、どうしてもあきらめたくなかった。ギギーにとって、たったひとつの大切なものを、取り返したかった。
「よろしくお願いします!」
声を張り上げ、向かい合って立つ教師に一礼して、木剣を構える。教師の合図が聞こえてきて、ギギーはすぐに足を踏み出し、木剣を振りかぶった。
今回の試験は、指定の型を使用した教師との打ち合いだ。教師は生徒の剣を受け止めて押し返すが、教師からは生徒に打ち込んでこない。合格条件は、教師と打ち合いながら指定の型をすべて使用すること。よほど型から外れた動きをしたり、木剣を落としたりしなければ、合格の判定となる。型をしっかりと覚えてさえいれば、さほどむずかしい試験ではなかった。
そのはずなのだが――
「――……ッ!」
ほかの生徒なら容易に合格できる試験も、体力がなく満足に練習ができていないギギーにとっては、難易度の高い試験になってしまう。
最初の型でギギーが教師の右肩へ打ち込むと、ガツンと派手な音を立てて二本の木剣がぶつかり合った。反動でギギーの木剣が勢いよく跳ね返され、焦りに汗がじわりと滲む。身体が仰け反ってたたらを踏んだが、背中から転ぶのはどうにかこらえた。
「おいおい、一合目で吹っ飛ばされてるぜ」
「これだから、おちこぼれは笑わせてくれる」
「まったく、情けない」
あちこちから笑い声や苦言が聞こえてきたが、すぐに集中して次の型へ移行した。何度か木剣を落しそうになったり、床に倒れ込みそうになったりと、あやうい場面があったものの、なんとかすべての型を使用できた。
不合格の場合は得点がなしになるが、合格すればできの良し悪しに比例して点数が加算される。最下位には変わりないとしても、不合格だった先月よりは点数が良くなっているはずだ。
進級の可否に大きく関わってくる期末試験や学年末試験とは違い、たとえ月末試験がまずかったところで即退学にはならない。それでも、評価に関与してくる点は変わりなく、掲示板に貼り出される順位は更新される。
ひとつでも合格を取りこぼしたくなかったし、過去二ヶ月分の不合格をできるだけ挽回したいという思いもある。
「ありがとうございました!」
合格を言い渡されて内心ほっと胸を撫で下し、教師に頭を下げてから壁際へ戻った。
「はあ……っ」
ギギーが安堵のため息を吐き出した途端、突き刺すような鋭い視線を感じた。その視線の持ち主がだれかなんて、確かめるまでもない。そちらを向けば彼と視線がまともにぶつかって、思わず息が詰まった。
「――っ!」
涼やかな青い瞳の中、はっきりと燃える激情がこちらを見据えている。
襟足を長く伸ばした淡い金色の髪に、細身ながら厚手の訓練服越しでも鍛えているのがはっきりと見て取れる長身。整った顔立ちに並ぶのは、細くつりあがった眉に切れ長の瞳。すっと通った形の良い鼻筋と薄い唇。
いびつにゆがんだ表情になってもなお、作り物めいた印象は損なわれない。第一学年の首席レオル・スタンレイが、ギギーを見ていた。
怒り、嫌悪、侮蔑、憎しみ、それから、悲しみ。
ほかの生徒から向けられるものとは少し違う視線を向けられるたび、ギギーは戸惑いを覚える。その瞳に見つめられると、心拍が速くなって、まともに呼吸ができなくなった。視線を逸らしたいと思うのに、どうしてか逸らせない。
「――……っ、あ」
それからどれくらい経ったのか。レオルの前を数人の生徒が移動して、強制的に視界が遮られた。レオルの姿が見えなくなって、緊張に固まっていた身体がじわじわと弛緩していく。無意識に止めていた息を、ギギーはゆっくりと深く吐き出した。
ほかの生徒からどれだけ睨まれようと、悪口を言われようと、侮蔑の目で見られようと平気なのに、レオルに睨まれると、どうしてか落ち着かない気持ちになってしまう。正直に言って、ギギーはレオルのことが苦手だった。
「ギギー、おつかれさま」
穏やかな声に振り向くと、やさしい笑みをたたえた少年が立っていた。ギギーの唇から、ほっと安堵の息が零れる。
「……エリオット」
やわらかそうな薄茶色の髪に、印象的な青緑色の瞳。驚くほど整った顔をしているのに、柔和な顔立ちや物腰のせいか、冷たい印象はまったく受けない。
「合格おめでとう」
「ありがとう。ギリギリだったけどね」
「ギリギリだろうと合格は合格だよ」
そう言うエリオットは先に試験を済ませ、余裕で合格を決めていた。なにせ、学年次席の実力者だ。本人は「たまたま調子が良かっただけだよ」などといつも言っているが、普段の訓練を見ていれば偶然で得た成績ではないのはあきらかだ。
見惚れるほどに流麗で迷いのない剣技。それは、長い年月をかけて身につけたものだとわかる。ギギーにつきあって自主練習をするとき以外にも、ひとりで鍛錬を重ねているはずだ。それをギギーに見せないのは、満足に練習ができないギギーへの気遣いだった。
エリオット・シュレーバーは、ギギーにとって寮のルームメイトであり、この騎士学校で唯一の友人であり、自慢の友人だ。
「相変わらず、熱烈な視線だね」
甘い声に苦笑が混じって、つられてギギーも苦笑いを浮かべた。ギギーが気づくほどの強い視線に、感覚の鋭いエリオットが気づかないわけがない。エリオットと話しているあいだも、痛いほどに視線を感じていた。
「あー、スタンレイ? ……よっぽど俺が気に入らないんだろうね」
「気に入らない、か。僕にはそう思えないけどね」
「そう思えないって……エリオットはなんだと思うの?」
ほかの生徒から向けられるものとは、少し違う。レオルの視線をそんなふうに感じているが、なんとなくそう思うだけで、ギギーは彼の感情を正しく理解できるわけではない。ろくに話したこともない相手の感情なんて理解できるわけがないし、彼がギギーに向けているのが負の感情なのは間違いない。
騎士学校の寮へ入った日、ギギーはレオルとほんの数分だけ話したことがあったが、それ以来は一度も口を聞いていなかった。ギギーがレオルについて知っているのは、家柄や成績など、クラスメイト全員が知っているような情報だけで、彼の内面を推し量れるものではなかった。
「それを僕の口から言うわけにはいかないよ。本人に訊いたほうがいいんじゃないかな?」
「……そんなの、訊けるわけないだろ」
訊けるわけがない。訊くのが怖い。
あんな、刃物のように鋭い視線を間近で受け止めて、まともに話せる自信がなかった。離れた場所からの視線でさえ、落ち着かなくなるのに。
「案外、ギギーが訊いたらすんなり話してくれるかもしれないよ」
まるですべてを理解しているかのように、エリオットが意味深なことばを口にした。エリオットとレオルが話しているのを見たことはないが、実は仲が良かったりするのだろうか。
「そんなわけ……――」
「お、主席殿の出番だね」
エリオットの視線を追って修練場の中央を見ると、レオルの順番が回ってきたところだった。教師と向かい合ったレオルが木剣を構えた途端、生徒たちに緊張が走り、修練場が張り詰めた空気で満たさせる。
教師の合図が聞こえて、繰り出された最初の一撃に生徒たちがそろって息を飲んだ。彼の動きひとつひとつを見逃すまいと、この場にいる全員の視線がレオルに集中している。
それは、ギギーも同じだった。レオルの剣技から一秒たりとも目が離せない。目を離したくない。そう思ってしまう。
瞬きするのが惜しくなるほどの俊敏な身のこなしに、凍りつくほどに冷涼な剣の軌跡。短い動作からは想像できないほどの重さを伴う剣技は、長年騎士を務めていた教師の剣さえ押し戻す。レオルが使っているのはほかの生徒と同じ木剣のはずなのに、レオルが振っているだけで研ぎ澄まされた刃がついているかのようにうつくしく見えた。
「――……きれいだ」
「うん、相変わらず見事だね」
ギギーのつぶやきに、隣のエリオットも同意を返してくる。
レオルとはこの学校へ入学してから知り合った上に、ほとんど会話もしていない。ギギーがレオルのことをろくに知らないように、レオルもギギーのことを知らないはずだ。そのはずなのに、どうしてレオルからあんな視線を向けられるのか、ギギーはわからない。
それに、レオルの剣技を見るたび、どうしてかギギーはなつかしい気持ちにさせられる。込み上げる郷愁に、胸がぎゅっと締めつけられる。
どうして、こんな気持ちにさせられるのか、わからない。
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