第17話 お茶でもいかが?

 役目を終えた夕子は静かに部屋を出る。

 ふすまに手を掛けた時、背後から氷介の掠れる声がした。


「本当に……ありがとうございました……」


 夕子は答えない。

 唇を噛み、そっと部屋を出た。


「終わったのか」


 外で待っていたやまもとが声をかけてくる。


「うん、終わったよ」


 夕子は目を逸らして答えた。

 未来から目を背けるように。


 しかし彼女の前に、険しい顔をしたやまもとが立ちはだかる。


「ではなぜそんなに浮かない顔をしている……何があった?」


「……私は今、迷っている」


 その声は震えていた。

 小さな体から溢れそうになる何かを押さえつけているかのように。


「私の前には今、二つの道がある。一つは真実にふたをしたまま静かにこの家を出る道」


 髪をかき上げ庭の池に浮かんだ蓮を見る。

 狂おしい程に美しく咲いた蓮を。


「もう一つは、真実を暴いて不定形の地獄へと歩む道」


「……」


「どっちが正しいのかはわからない。だけど……」


 やまもとの顔を見て、夕子は力なく笑う。


「だけど、今決めたよ」


 その視線はこの家の居間へと流れていく。

 依頼主の女がいる居間へと。


「地獄へ行こう」


 それから夕子はやまもとに一つの指示をした後、居間へと歩き始めた。

 その足取りはひどく重たかった。


 ◇


 夕子は行灯に照らされる障子しょうじの前に立っていた。

 空はすっかり夜である。

 風がいやに冷たい。


「入ってもよろしいでしょうか」


「……どうぞ」


 障子を開けると依頼主の女が座り込み猫を撫でていた。

 夕子には目もくれずにいる。


「少しお聞きしたいがあるのですが、よろしいでしょうか?


 名を呼ばれた瞬間手をぴたりと止める。

 小春はゆっくりと顔を上げ夕子の顔をじっと見つめる。

 そしてニタリと笑って口を開いた。


「お茶でもいかが?お嬢ちゃん」


「お願いします」


 小春は立ち上がり台所へと向かうが……

 そこで夕子は一つ付け加える。


「飛び切り熱いのをお願いします」


「……?冷たいのもあるけど……」


「いえ、熱々をお願いします」


「変な子ね」と呟き小春は今度こそ台所へ向かう。


 少しして、小春が盆に湯飲みを乗せて帰って来る。

 二人は机を挟んで一対一、畳に座った。


「それで……聞きたいことって何かしら?」


 夕子は手元に置かれた湯飲みをちらと見た。

 湯気が昇っており見ているだけで暑くなる様相である。


「単刀直入にお聞きします。お冬さんを拉致、及び、氷介さんを崖から突き落とした首謀者はあなたですね?小春さん」


 行灯の光がゆらと揺れ、一瞬だけ小春の顔に影が差す。

 夕子の手にはじっとりとした汗が握られていた。


「いったい何の話かしら?冗談はやめて頂戴な」


 涼しい顔で答える彼女は口元を手で隠す。

 その手には依然、白い手袋がはめられていた。


「あなたは幼い頃から氷介さんのことを愛していた。それも……異常なほどに」


「確かに私は小さい頃から主人のことを慕っておりました……だから何だと言うの?」


 尚も涼しい答えが返ってくる。

 そこで夕子は一歩、踏み込む。


「あなたは一刻も早く氷介さんと一緒に暮らしたかった……何より、自分だけのものにしたかった」


「……」


「しかしそのためには彼の母であるお冬さんが邪魔だった。物理的にも――精神的にも――」


 少しの間黙って聞いていた小春は不愉快そうに口を開く。


「……はぁ?それだけで拉致するなんておかしいんじゃないかしら。あなたの発想にびっくりよ」


 夕子は小春の手をちらと見る。

 そして息を軽く吐いた。


「――善蓮教ぜんれんきょうをご存じですか?」


 瞬間、小春の瞳はわずかに揺れ、肩がピクリと動いたのを夕子は見逃さなかった。


「……善蓮教?知らないわね。突然何の話かしら」


 夕子は湯飲みをゆっくりと持ち上げる。


「善蓮教、実態は未だ不明ですが……その信者には手の甲に蓮模様が刻まれている。そして――人の命を奪うことに躊躇が無い」


「それと私に何の関係が?これ以上意味の分からない話を続けるのであれば、お茶を飲んでさっさと帰っていただきたいのだけれど」


 持った湯飲みに口を付ける。

 昇る湯気が人中をじっとりと濡らした。

 茶を飲む素振りを見せると、小春が口元を手で隠し、目元をニヤけさせるのが見えた。


 ――しかし夕子は茶を飲まない。


 彼女は持った湯飲みの口を小春へと向け、熱々のお茶を勢いよく小春の手にぶっかける。


「……っっ!!熱っっっ!!」


 たまらず小春は立ち上がり、急いで手袋を脱ぎ捨て手を冷ます。

 初めて露わになる小春の手。

 それは細くすらっとした白魚のような手。

 しかしその甲には見覚えのある模様があった。


「……その手の甲の模様はなんでしょうか?小春さん」


 小春は目を見開き、己の手を見る。

 その目が映すのは一輪の花。


 ――くっきりと刻まれている蓮の模様。


 しまったと言わんばかりに脱ぎ捨てた手袋の方へ目を向ける。

 夕子は立ち上がり、その手袋を力強く踏みつけた。

 内に籠った怒りを放つように。


「あなたは先程、善蓮教のことは知らないと言った。しかし信者の証を宿している……いったいどういうことでしょうか?」


「……」


「それはあなたが信者だったから、それも遠い昔から。だから善蓮教の力を利用してお冬さんを拉致、そして何者かの妖術により自死へと追いやった……違いますか?」


「……」


 小春は熱湯によって赤く染まった蓮の花を撫でている。

 静かに。

 俯く姿はまるで神にでも祈るかのよう。


 やがて肩を揺らし、大口を開けて笑い始めた。


「ふふ、あははははは、あーはっはっはははははははっ!!」


「何がおかしいんですかっ!」


「……まるで探偵さんみたいね、小娘のくせに」


 小春の顔には見たことも無いような狂気的な笑みが浮かんでいた。

 今まで内に秘めていた化け物を解き放つが如く。


「認めるんですね?」


「ええ、仰る通りよ。ふふ、流石は妖術師様ね」


「では、氷介さんを崖から突き落としたのも――」


「だってあの人ったら、もうこの世にいない人を探し続けるんですもの。私に目もくれずにね。だから諦めさせてあげたのよ」


 その時、部屋の外で何かが軋む音が鳴った。

 しかし二人の耳には届かない。


「どうして……どうしてそんなことが出来るんですか!」


「どうして……?これは愛なのよ」


 小春は諭すように話し始める。


「お嬢ちゃんはまだ若いからわからないだろうけれど、愛の根源には『痛み』があるのよ」


「……痛み?」


「ええ、私は一刻も早く主人と一緒になりたかった。だけど邪魔者がいてそれは叶わなかった『手に入れられない痛み』」


「だけれど主人には『痛み』が無かった……だから私が作ってあげたの。母親を『うしなった痛み』をね」


 淡々と言葉を紡ぐその目には明るい闇が宿る。


「その二つの『痛み』が寄り添い合って、今の私たちの愛がったのよ」


 夕子の背に冷たい汗が滑る。

 茜色の瞳に映るのは、今までに見たことのない程の邪悪。

 固い唾を飲みこみようやく言葉を発する。


「……氷介さんは、あなたがやったことを知っているんですか?」


「笑わせないでよ、知るわけないじゃない。愛に真実は必要ないのよ」


 そう吐き捨てる小春を前に、夕子は手を強く握りしめる。

 爪が食い込む痛みを忘れるほどに。


「私は……あなたの言う通り愛についてはよくわからない。だけど、善悪についてはよくわかっているつもりです。……あなたは悪だ、この世の諸悪を煮詰めたかのような」


「あはははははははははは、目に涙を浮かべながらそんな台詞を吐かれたってねぇ……もういいわよ、用が済んだなら早く帰って頂戴な」


「今からでも遅くない、償ってください!そして……氷介さんに謝ってください、お願いします」


 夕子は頭を下げる。

 最悪の展開を避けるために精一杯の念を込めて。

 しかし――


「償うって、何年前のことだと思っているのよ。それに、私が直接やったわけじゃないんだから償う気も謝る気も無いわよ」


 夕子は落胆する。

 地獄を回避できなかったことに。


「そう……ですか……」


 彼女はゆっくりと、出入口の障子へと向かう。

 地獄への入口へと。

 そして障子を開ける。

 現れたのはやまもと、それから……


 ――車椅子に乗った氷介。


 その目に浮かぶのは、涙と怒りと悲しみと――

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