若者のすべて

 トイレから戻ってきた美綴さんはそれはもう落ち込んでいた。スマホの画面が凄いことになっている=終わり、という感覚はなんとなくわかる。道案内も決済も連絡も、ついでに娯楽の大体をスマートフォンに委託しているせいで、それを失った時の代替えの手段が見つかりにくい。一つに集約されすぎて、全てを支配されているような気になってくるような気がする。こんなたかだか数インチの液晶に俺たちは生活の一部を委ねている。

「ちょっと休んだら携帯ショップ行く?」

 俺は言った。ずっと座っていると骨が固まってばきばき音を立てるし、そろそろどこかに行きたい気分だった。

「……そうだよな、行かないとダメだよなぁ」

 美綴さんが、とてもばつが悪そうに俺から目を逸らした。別に怒っていやしないのに。

「その、申し訳ない……遅刻した挙句に、自分の用事に付き合わせるとか」

「いいよ別に。んで、何があったの」

 人と出かけるって、だいたいそんなもんだろう。俺自身そう趣味と言える趣味もないし、友達や恋人の行きたいところに着いて行くことが多い。それが苦痛だとも思わない。暇なのが嫌でどこかに行きたくて誰かと居たいだけ。だから謝ってほしい訳じゃないのに、それがどうにもうまく伝わりそうになかった。

「言わないと駄目かな」

「弁明してみてって、上手くできたらコーヒー奢っちゃる」

「バカにしやがって……はあ、ちゃんと間に合うように出たんだよ。本当なら集合時間の三十分前にはここに着いてる筈だったんだ。でも、電車が遅延していて」

 俺はスマホを操作し、適当に『駅名 遅延』と検索エンジンに打ち込んでみる。すると出るわ出る阿鼻叫喚電車遅延の声。別に美綴さんの言うことが嘘だとは思わないけど、なんとなくこういうのって調べちゃうんだよな。

「で、連絡を取ろうとしたら」

「スマホがバキバキだった?」

「そうなんだよ……落とした覚えもないのに」

「尻で踏んで壊したんじゃないの」

「流石に気づくだろうそれは」

 美綴さんは俺の方をじっとりと睨みつけた。急激な温度変化とか、経年劣化で割れることもあるらしいから、一概には言えないけどね。俺も別に機械類に詳しいわけじゃないし。

「それで、電車でもみくちゃにされて気分が悪くなって、でも行かなくちゃと思って来た」

 もう一度美綴さんはふかあく頭を下げた。やめてほしいけど、それで美綴さんの気が晴れるならさせてあげるべきなんだろう。多分。

「お疲れ様、具合悪いならコーヒーやめときます?別のなんか、あったかいのにすれば」

「いや、むしろ暑いから冷たい方がいい」

「そ」

 俺は微笑ましげにこちらを見つめる店員さんに声をかけると、冷たいコーヒーを頼んだ。

「ここからだと、今から一時間後の予約取れるけどどうする?」

「はー……行かないとダメかな」

 この期に及んでまだ駄々をこねるおっさんに俺はピシャリと言った。

「ダメでしょ、困るの美綴さんだよ」

「わかってんだよ、んなこと……」

 子供みたいに唇を尖らせて、美綴さんは言った。現実逃避でもするみたいに窓の外を眺める彼の横顔はなかなかに様になっている。

 美綴さんの休日の私服は実にシンプルで清潔感に満ちたものだった。ブルーのシワのないシャツに、黒のスラックス、歩きにくそうな革靴。街歩きにはやや適さない服装だが、本人が良いならいいか。青白い肌には生きている感じがまるでしなくて、昔の小説に出てきそうな文学青年ぽくもあった。

「おじさんはね君みたいに、なんでもかるうく切り替えられないんだよ」

「若者はね、あなたが思ってるより物事を引きずるよ」

 美綴さんは俺を若者というけれど、俺だって成人して時間が経っている。人が当たり前に享受するようなものを受け取り、ぶつかるべき困難とか壁とかぶち当たりまくって、それなりに傷だらけの生傷まみれになって生きている。なのに美綴さんは俺をまるで辛いことなんて一つも経験してない無鉄砲な『若者』みたいなものに当てはめる。俺って、そんなに気楽に生きているように見えるんだろうか。

「そいつは失礼しました」

 美綴さんはふ、と唇の端だけを釣り上げて皮肉たっぷりいじわるそうに笑った。暴力的な色ではなくてじめっとして粘着質そうな感じは、やっぱり健在だった。美綴さんが注文したアイスコーヒーにミルクとガムシロップが混ざって溶ける。俺は土石流みたいに濁っていくそれを見つめながら、美綴さんのことについて考えていた。

 「美綴さんって下の名前なんて字?」

「急だな……きへんにいち、で桂一」

「ふうん」

「君は?」

「大きく輝くから大輝」

「名は体を表すね」

「俺ってきらきら?」

 そうかもね、と美綴さんは笑った。

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