落とし物は遥か向こう
仕事を終わってスマホを開いたら、見たことない番号から着信があった。今朝放流したおっさんからだろうか、そう思ってかけ直す。出ない、プルル、プルル、三コール目で諦めたように電話をとる音がした。
「はい」
「もしもし」
「……そ、ら原さん?」
「そうだけど。美綴さんだよな」
「あ、はい。その、無事に家に帰れましたっていう……報告」
報告、連絡、相談。確かに大事だけど、別に俺に帰宅の報告はしなくてもいいんじゃねえかと思う。いや確かにちゃんと帰れたかとはかは心配だけど、俺が同じ立場なら連絡するの気まずいと思う。
「ならよかった、お金足りた?」
「それは、もう。それで、そちらの件なんですけれども……」
「いいよ、返さなくて。美綴さんも、俺のことは良い人だなで早く忘れて」
面倒臭いから。これ以上、このおっさんと関わったらぜったい面倒くさいことになるっていう予感がしてた。
「そういうワケにはいかないんだよ」
電話の向こう、おっさんはやけに意志的にきっぱりと言いきった。俺の考えてることなんて、気にしないと言った感じの物言いだった。
「……はあ」
「他人に貸しを作ったままっていうのはさ、案外ケツの収まりが悪いんだよ。わかる?君は、まだ若いからこんなくたびれた奴の言うこと、理解できないとは思うけど」
電話の向こう側、おっさんは低く沈んだような声で続ける。突然露悪的な物言いになるので、まるで違う奴と話しているような気分になる。霧の向こう、知らない何かを覗き込んだみたいな気分を覚えた。
「そこまで言うなら」
「良かった。助かります」
おっさんの得体の知れないなんかがぱっ、と霧散する。その時金だけぱぱっと受け取って、終わりにすべきだと思った。俺はもう大人で、身体だってでかいのに知らないものが怖い。明日、仕事が終わってからの時間に俺の最寄りのファミレスで落ち合うことを約束して、電話を切った。ぷつ、という呆気ない音がして俺の世界はまた目の前に戻る。つまるところ、普通の生活。部屋はまだ汚いまんま、金はいいから掃除しにきてくんねえかなぁ。行ったところでどうしようとないけど。 そして俺は家に帰り、換気してブルーシートを片付けて、洗濯物を回して、掃除して、飯を食った。自炊する気力はなかったので、コンビニで買ったおにぎりを半分自動で口に入れて飲み込んだ。それが終わったら風呂に入って、ベッドに入る頃には気絶していた。あれは寝るとかじゃなくて、パソコンの強制終了。アラームが鳴ったら目を覚まして身支度を整えて出勤して、仕事して飯食って仕事を終えて最寄駅に着いて、そのまま一直線にファミレスに向かう。
夕飯時ということもあって、店の中はそれなりに繁盛していた。
おっさんはもう先に席に着いているといっていたので、辺りを見回してそれらしき席に目星をつけると店の人に声をかけて中に入った。おっさんは、何かブックカバーをかけた文庫本を読んでいた。俺が何読んでんのかと聞く前に、おっさんはそれを鞄にしまった。いかにも仕事が終わってそのまま来ました、といった感じの洗いざらしのシャツに黒いスラックスは一昨日見た格好とよく似ていた。おんなじ服たくさん持ってんのかな。
「お待たせしました」
「いや、来てくれてありがとう」
おっさんは微妙に笑って会釈した。腹減ったけど、ここでガッツリ食べていいもんか迷う。金だけ受け取ってさっさと退散した方がいいとはわかっていても、腹の減り具合がえげつなくて俺の胃がぐるぐるいっている。
「俺、腹減っててなんか食べたいんすけど平気ですか?」
「大丈夫だよ、むしろ僕の都合に合わせてもらって申し訳ない」
おっさんは俺に注文用のタブレットを差し出した。適当にスライドして、メニューを眺めた。丼ものとか、白飯が食いたい。焼き鯖定食を選んで、
「いや、良いっすよ。あのあと、ちゃんと帰れたから気になってて」
俺は言った。
「その節は本当に……ご迷惑を」
「荷物、見つかったんなら良かった」
「まあ、本当。その、居酒屋に置きっぱなしにしてたみたいで」
おっさんは、お恥ずかしいと言わんばかりに頭を掻いた。丁寧な言葉遣いと昨日の電話の向こうでの嫌な感じと、おとといの泣き崩れてみっともない生ごみまみれの顔。それが全部気持ち悪いくらいにちぐはぐで、噛み合わなくて引っかかる。
「ふうん……あの、ところで一個聞いていっすか」
俺はおっさんの方をじっと見た。
「僕で答えられることなら」
おっさんは、言った。
「めぐちゃんって誰すか」
おっさんが飲んでいた水を吹いて、咳き込んだ。スッゲー顔しながら俺を見てた。やばい、何かしらのよくないものを踏んだかもしれない。
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