第16話

スーパーでの一件以来、時々辺美さんと遭遇するようになった。


とは言っても挨拶を交わす程度で、今日はお休みなんですか、とか、カゴの中身を見せ合いながら、今日は何作るんですか、とか、そんな他愛もない話を少しするだけなのだけれど。


幸い、私たちの住む街は高齢者や中年の家族住まいが多いから、ある程度変装をしていれば二人で話していても誰も私たちに気づくことはない。


今のところ特に目立ったり騒ぎになったりすることも無かったし、何より、案外彼はそういった平和的なコミュニケーションが上手いということを知ることができた。


日常に溶け込んでいくその小さな一時一時が、想定外に私は嫌いではなかった。



朝、ブッキングのメールを一通り片付けた後に空気の入れ替えをしておこうと思い、ベランダの窓を少し開けると、ひんやりとした風に乗ってカレーの匂い、それもルーを使って家で作るあの・・カレーの匂いが仄かに流れ込んで来た。


それで、無性に食べたくなってしまった私は昼食をカレーにすることに決め、足りない具材を買い足すべくスーパーへやって来たのだけれど、カゴを持って店内に入るや否や、果物売り場の前でりんごと見つめ合っている辺美さんを見つけてしまった。


……が、いつもと明らかに様子が違っていて、なんだかふらふらしているように見える。


辺り一面に倦怠感を振り撒きながら、いつにも増してダウナーな雰囲気を纏っているように思えて、思わず静かに駆け寄った。



「辺美さん?」



近くに寄って、他のお客さん達には聞こえない程度の声量で軽く声をかけてみると、猫背のその人はむくりと緩慢に身体を起こし、ゆっくりと振り返った。


俯きながらこちらに向いた彼が顔を上げる。その顔を見るや否や驚いて、思わず声を上げてしまった。



「え、どうしたんですその顔」



虚ろで真っ赤な目をした辺美さんはゲホゲホと咳き込みながら、ひどく枯れた声で小さく「エトさん…」と呟いた。もはや声というか息に近いほど弱々しい声にはっとして、彼の不調に気付く。



「風邪ですか?目も真っ赤だし」



んー、と首を傾げながら咳をする彼はどう見ても風邪をひいている。考える余地なんて無いだろうに、思考回路が熱に侵されているのだろう。気持ちはとても分かる。



「多分、そう」


「動いて大丈夫なんですか?誰か代わりに行ってもらった方が、マネージャーさんとか」



今度は目を細めながら、あー、と小さく唸って、彼はまた咳込んでいた。あーとかんーとか、語彙力が急暴落したでっかい赤ちゃんみたいで、なんだか心が変にむず痒い。



「……マネージャー、今、家族旅行で。悪いから、連絡できなくて」


「他に頼れる人は?」



目を伏せ、ゆっくりと首を振る。


痛々しいその姿に、綺麗な男性の弱った姿に、焦がした砂糖を舐めたような甘苦さが心臓の底に静かに広がっていく。


なんだか、初めて出会った時からころころと変わっていく彼の空気に、相変わらずまた私の方が調子を乱されてしまっているな、と



「……私、行きましょうか?」


「えっ」


今日一番大きな声を出した辺美さんはその反動でまた咽せていた。


それもそうだ。つい最近まで感じの悪かった女が突然自ら看病を買って出たのだから、驚くのも無理はない。



「いや、え、そんな」


「あ、嫌なら全然」



申し訳なさそうにする彼は視線を泳がせながらおろおろとしている。こうなってしまうと、余計なことを言って気を遣わせてしまったことに対して罪悪感が湧いて出てきてしまうから困る。



「……来て」


「え?」


「来て、欲しい……です」



黙り込んだ彼は、逡巡した末にぼそりとそう呟いた。予想外の返事に、用意していた言い訳の数々は脆くも喉の奥へと滑落していく。


代わりに湧き上がった困惑と、頼られた事への少しの喜びは決してよこしまなものではない。誰にともなくそれを証明したい気持ちが表情筋を拘束して、はい、と、ただそれだけのぶっきらぼうな返事を返すことしか出来なかった。

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