第18話

第三章・五(終)



 結斗と志望校が重なっていたことは、しかし複雑だった。

 嬉しかったことは嬉しかったし、それは自意識過剰などではなく結斗の私に対する愛情の再確認でもあったし、私もまた同じ気持ちであったはずだ。

 けれど。

 また、この三年を繰り返さねばならないのか。

 そう思うと、正直、つまらない日々の新たなる重荷が増えたような気がしてならないのだった。



 それは日に日に強くなっていった。

 新年が明けて。今年はどんな年になるだろう?

 また結斗のことを思い、報われぬ恋に身の内を焦がすどころか、焼き焦がされるような想いに堪えなければならないのか。父や母の結斗に対する雑言を聞き、臓腑ぞうふを煮え返らせるような時間の中で正気を保たねばならないのか。

 私の腹の底には、マグマと魔界と、あと何を詰めればいい? 頭の裏に国会でも作ろうか。ニュースで見る国会中継の乱痴気らんちき騒ぎぶりは、まるで私の心象風景のようだ。

 雨上がりの、暗雲立ち込めながら、奥のが光線のように差し、大気が湿度から暖かさを思い出し、濡れた土の乾いていく、霧煙る匂いを嗅いだ時に似ている気分だ。

 もういいじゃないか。

 どうせ、何も、叶わないのだから。

 結斗が好きなガン○ムで言うなれば、これが、重力に魂を引かれる、ということだろう。

 試験当日の朝も。

 合否発表の朝も。

 次第に募る倦怠感けんたいかんは誤魔化しきれなくなっていった。

 いっそ結斗が不合格になればいいとさえ思った。

 私が不合格ということはまず有り得ないので、結斗が不合格になるしかない。私はだからその時、自分の番号ではなく、事前に聞いて知っていた彼の番号を先に探していた。

 だから私たちの視線は、きっと同じ点で交差していたはずだ。

 あった。

 まさか。

 私が受かるのは当然としても、まさか、結斗が二年の遅れを取り戻して、受かるとは。

 しかし、この事実は光明ではないか?

 これが父や母の耳に入れば、二人が彼を見直すきっかけになるのではないか——。

「どうせカンニングでもしたんだろう。そもそも二年もろくに授業も出ずに、遊びまわっておいて、内申はどうなってるんだ。おかしいじゃないか」

「一年、心を入れ替えて頑張ったんだよ……」

「不良が更生したってそんなの、当然のことだろう。ずっとまじめにやってる方がよっぽど偉いだろう」

「それは記号で見てるからだよ。真面目な人は言い換えれば無思考に同じことを続けただけ。先生たちは結斗が変わろうとした、その成長に着目して——」

「黙りなさい、織姫。また繰り返すつもりか」

 父は自分が王様にでもなったようにぴしゃりと言って立ち上がる。

「どちらにせよ、あんなろくでもない人間なんて私は認めないからね。前の生徒会長、なんて言ったか……付き合うなら、ああいう真面目で堅実な男をだな……どうせ、不良なんて更生したところで、すぐ落ちぶれるに決まってるんだ」

「…………」

「いいか、織姫。私は、お前の将来を考えて言ってるんだよ。若い時の一時の感傷で、これから先の長い人生を棒に振らせまいと……」

 私はもう何も言わなかった。今更、この人に言葉が通じると思っていた私が馬鹿だったのだ。

 これから先とは何のことだろう。

 カッターで首元を掠めるだけで、なくなる"これから先"に、この人はいったいどれだけの大望を抱いているのだろうか。

 そこには保険もない。保証もできない。

 そして明日にも終わってしまった時、この人は、なんて言って、私に詫びるのだろうか。

 あるいはそうして十年先二十年先に結婚していなければ、どんな言いようをして、孫をせがむようになるのだろう。

 今に生きたい。

 たったそれだけのことが、私たちにはできないから。……だから、今日も中央線は止まるのだろうに。

 明くる日、私は例の、鍵の壊れた小窓を抜けて屋上に出ていた。

 ペントハウスの側面には、結斗と麻倉がいる。結斗が吹かした副流煙の匂いがすぐに私の視界にも入り、鼻腔びこうをかすめていく。

 結斗は合否発表の時のことをきっとねているだろうから、と覗いてみたら、案の定であった。

 私には彼のことなんか手に取るようにわかる。

 すぐにも掴める。

 なのに、この距離がいつまで経っても縮まらない。

 いっそ終われれば、どんなに楽だろう。と最近は考えるようになっている。

 疲れたのだ。

 もう疲れた。

 どんなに願っても、叶わない夢を見続けることは並大抵のことではない。

 不毛なことに身を費やすのに、どれだけの精神をすり減らすことかしれない。

 けど、二人は笑っている。

 まだ私を諦めていないようであった。

 小五の時のように、私は膝を折って、顔を手でおおう。

 もういいよ。

 もう、やめてよ……。

 物語であればいい。立ちはだかる苦難を堪えた先には希望が差して、越えた障害に比例した賛美が得られるような、この世がそんな物語の世界であるならば。

 けどこの世はあいにくと、無慈悲なる現実であって、そんな風にはならない。冷たい空気は冷たい空気のまま、無感情で冷徹に執行する大人たちは大人たちのまま、感動で心が動かされ、急に指針を変えることもなく、私たちを傀儡かいらいの仲間にして止まない。

 なのに、この二人は諦めない。

 小六の遊園地の後もそうだ。

 この二人は諦める事を知らないかのように、私を引き止めようとする。

 麻倉さんなんか完全に理解不能だ。結斗が好きならば早くくっついてしまえばいいのに、彼女は持ち前の愛情を持って、まだ私との間を懸命けんめいにつなごうとしている。

 理解不能だ。

 なんで、この二人は諦めないのか。

 私には、理解不能だ。



 どうすれば諦めるのか?

 高校に入って、私は間もなく打って出た。

 もう終わらすべきだ。自分のそうして悲鳴を上げ始めた心奥に応えるような、ある種の防衛機構が、きっと働いた。

 私は同校に所属していた甲斐田の元に自ら赴き、"付き合う"という、その誘いを承諾したのだ。

 結斗が行動に出るよりも早く、私はそうして甲斐田の元に下った。

 高校となれば、なぜか皆、急に垢抜け始めて、結斗が率先してしていたようなオシャレをはじめ、中学では話題にさえ上がらなかった場面まで追及し始める。しかし、モブの習性は、私の背中を後押しするように、甲斐田を逸らせた。

 幸い、私の見た目はそこそこ良いらしい。

 甲斐田は生誕十七年目にして堪えきれない飢餓きがに堪え兼ねた狼さながらである。私に会うたび、その期待が下半身を張り詰めさせるのが分かった。

 私はしをらしい乙女のような振る舞いで、その男のあとに粛々しゅくしゅくと従い、後はその時を待つだけであった。勝手にタガが外れる、その時を。

 そしてある放課後に、遂に臨界りんかいを突破したのだろう。甲斐田は初めての男らしく、野蛮な本性を気味悪く覗かせて、私に迫った。

 結斗と違って、強姦にも等しい、あまりにも幼稚な振る舞いだったが、それでいい。

 もうどうでもいいのだ。

 それが見も知らぬ中年の男でないだけマシだろう。

 この世界の誰も、そして生きてなんかいない。

 今に生きてなどいない。

 私もそう。

 誰もが生きながらにして死んでいる、ここは屍者ししゃの帝国なんだから。

 どうせ死んでいるこの身。

 生きることの叶わぬこの身。

 もうどうでもいいのだ。

 そうして私が彼の舌を受け入れ、自分の舌を合わせようとした時である。

 私は突然、モノクロだった世界が、一斉に着色されたかのような衝撃を受けた。

 視界の端にいる——その人は、突然教室の中に入ってきて、私を組みしだこうとしていた甲斐田を一撃の元に屠ってみせた。

 あたかも、まさしく、私の心がずっと待ち望んでいた、ヒーローのような振る舞いで。

「結斗……」

 結斗が私と、甲斐田の間に立ちはだかるようにして立っている。

 その瞬間、コックピットの胎動たいどうがあった。

 見たこともないような明るさに満ちたコックピットの奥で、眠る私のまぶたが、開こうとしているのを感じた。

「なにコイツ……ふざけんなよ、いきなりっ!!」

「うるせぇよ。どいつもこいつも、バカみたいに盛りやがって……織姫」

 私は彼が言わんとすることが手に取るように分かった。

 結斗はそして、甲斐田の方ではなく、私の方を振り返ると言った。

「歯、食いしばれ——」

 私は目を閉じた。

 コックピット内は大慌てだ。

 奥のハッチが今にも開かんとしている。

 けれど、私は分かっている。

 結斗は優しいから。

 結果は、三年前と同じになる。

 結斗に私は殴れない。

 その扉は開かない。

 あの時と同じように、苦しげにれる吐息が聞こえた。

 そしてループするのだ。

 私たちは、ずっと。

 この時の過ちをやりなおしたくて。

 コックピットの裏側で胎動する私は目覚めない。

 だって、

 それが私の愛だから。

 小四の時に既に至っていた、覚悟である。

 私はあれから、何度となく思ったことがある。

 生きながらにして死につづける屍者が支配するこの社会において、自分が生きているとあからさまに表明すること、そしてその使命にじゅんじること、はやること、貫くこと。いわく、屍者と違うことをすること。

 子供のままでいること。

 夢を追いつづけること。

 結斗が結斗のままでいること。

 私が私のを貫き通そうとすること。

 個人がそうして夢を抱くことは、つまり。

 それは子供のわがままなのだ。

 だから、誰もがやがて大人になり、大人しく従うようになっていく。

 屍者の中に埋没して、己を忘れ、その死んだ生を受け入れていく。

 そして世界が終わるまで。

 それは変わらない。

 私たちは、その永遠に留まることも、駆けることもなく、ヒーローやヒロインとなる夢を諦めていくのだ。

 己の生存できないこの世界で。

「殴らないの?」

 かつて麻倉にけしかけた時のような鋭い口調が出た。それでいい。私は自分の操縦桿を正しく握れている。

 結斗は私の頬を指先でかすり、間もなくぐっと硬く握り拳にして震わせた。

「……殴りてぇ」

「いいよ。殴りなよ。それで結斗の気持ちが済むなら。私は耐えられる」

「…………」

 結斗は何も答えなかった。私は続けた。

「強くなったと思ってた。私のこと、思い出にして、強くなってくれるって——でも、子供みたいだね、結斗」

 涙がこぼれる。

「いつまでも子供みたいなことして、上手く行かなかったら駄々だだをこねて……そんなことばかりなんだよ、この世界。みんな、それを噛み締めながら、諦めながら、それでもどうにか理性を保って生きてるんだよ……自分が歯車の一つに過ぎないって、分かってても。そうやって世界って回ってるんだよ。楽しいことばかりじゃない、辛いことも哀しいことも踏み越えて……あぁしょうがないかって、切り替えて!! 少しでも楽になれるように探して、その辛さ哀しさを忘れられるようにって、毎日、血の涙を隠しながら笑って生きる努力してるんだよ……!! 貴方だけが、その痛みを知ってるんじゃない!! 私たちだけが特別なわけないじゃん……っ!! この世界の誰も……予定調和でできた物語の、主人公でもヒロインでもないんだから」

 しかし、私は思い違いをしていた。

 完全なる誤解。不覚。

 樹本先生の言ったことは、これからだったのだ。

 これで断ち切れる、そう思った矢先に、結斗は言った。

「そっか。もう、いいんだな?」

 私はその、予感に戸惑う。

「え——……」

「俺がいなくても。お前は、やっていける」

 結斗は今度こそ、覚悟を決めたような思い詰めた表情で、静かにつづけた。

「お前は俺のものじゃないから。俺は……ずっと、そうであってほしかったけどさ」

 それは恐怖だ。

「決めるのは、お前だ。今、お前が決めろ」

 あの時とは正反対の、恐怖だ。

 私はまたしてもおごっていた。

 結斗が優しいから、堪えられなかったのだ。

 そう思っていた死への……終末への恐怖は、そのままそっくり、今、私に返ってきている。

 その瞬間、私は悟った。

 私がどれほどその好意に甘えていたか、ということに。

 ヴェガがそうしたように、アルタイルがそうしたように。

 今度は……今度こそ、結斗がいなくなるのだ。

 そして二度と、今生で会うことはないだろう。

 遠いどこかで生きていようと、実際に出会い、声を聞き、温もりを覚え、傍らに実在を感じられないのであれば、それはもはや、死と何ら変わりがない。

 覚悟していた、三年もかけて、積み上げてきたはずの鉄壁の自心は、その瞬間が目の前に迫るやいとも容易たやすく、もろく崩れ去り、私の中のお姫様を今一度呼び起こすようだった。

 それが今になって懸命に叫んでいる。

 コックピットの裏側から、どんどんとハッチを叩いてがなり散らしていた。

 いやだ。

 いやだ。

 いやだって。

 閉め切った表で佇む私をハッチ越しにぽかぽか叩いて、訴えている。

 思えば、本当に、私は救いようがないくらい、愚かにも、愚かなあの父によく似ているのだと思う。

 私自身だ。

 全て。

 絶望のふちに言い訳を重ね、全てを諦めて、お姫様の私を、眠る私を、そして殺したのは。

 犯人は、誰でもない、この私だ。

 ずっと自罰的な思いがしていた。

 こんなみにくい女を殴ってほしかった。

 それで何かが変わるわけではなかったのだとしても、私は、結斗に、叱りつけてほしかったのだ。

 幼馴染、そのたった一つの言葉で、彼に、いつまでも甘え続けて、駄々をこねて、あげく上手くいかないことがあれば当たり散らして。

 子供なのは、私の方だったのだ。

 愛だとか、彼のためだとか、縛り付けるとか、全部言い訳にして、それらをかなぐり捨てて、現実と立ち向かう勇気が、私にはない、だけじゃないか。

『勇気を出すんだよ』

 樹本先生の温かな声が響くようだった。

『自分からお姫様を起こすの』

 コックピットのハッチが開く。

 勇気は出す。

 けれど、彼の幸いのためである。

 なればこそ、私のような不出来で勇気を持たず、すぐにちてしまう狭量な女の人生に、彼をかかずらわせてはいけない。

 これは運命を断ち切って、彼を私というおりから羽ばたかせる最後のチャンスでもあるのだ。

 私は開いたハッチを前にして、泣いていた。

 泣きながら、私は、そこで起きていたその子の小さな手をとって、抱きしめる。

 結斗を、私の手で束縛してはいけない。

 水瀬という呪縛に、彼を巻き込めない。

 それもまた、愛なんだ。

 いいや、違う。

 小四の頃に気付いてから六年あまりの間に成長して、やっと今、理解に至れた——それが、私の愛だから。

 寂しくないよ。

 私が一緒にいる。

 私だけは、いつまでも、あなたと一緒にいてあげられるから。

 子供の私と。

「……うん。もう……」

 長い沈黙のあとで、私は言う。

「——いい」

 カッターで彼の首元を引くようにして。

 結斗はゆっくりと瞼を閉じる。臨終を看取るような表情で、おごそかに口を開いた。

「分かった」

「……ゆ、結斗?」

「もう気安く呼ぶな。迷うぞ。お前はお前の道を進め」

「あ……ま……私!」

「今までありがとう」

 今更追いすがる私を無視するようにして——結斗は私を抱きしめていた。

 これが、最後だ。

 深層にて、断末魔のように泣き叫んで暴走するお姫様の私を、私は殺すつもりの力付くで押さえつけていた。

 本当に。

 最後だ。

「誰よりも愛おしかった、織姫。さよなら」

 結斗はそういうと、驚くほど呆気なく、私の腕を離れて、次第に集まってきていた名前も覚えてない誰かの脇をすり抜けて消えていった。

 私は全身の力が消失したように、その場に崩れ落ちていた。

 手のひらで顔を覆う。

 失ってしまったものの計り知れない大きさを確認するような作業だった。

 もう二度と、彼と触れ合うことはできない。

 彼の名前を呼ぶことはできない。

 私の願いは叶わない。

「水瀬……?」

 いつの間にか出来ていた教室を取り巻く観衆から、名前も覚えていない同級生が出てきて私に何事かと声をかけた。

 その間から、甲斐田の伺うような声も聞こえた。

 しかし、もう。

 どこにも結斗はいない。

 私の世界で、彼は今、死んだのだ。

 私が自分自身で引きちぎり、殺したのだ。

 私は絶望した。

 その日のあとの記憶はない。

 どうやって帰ってきたのか、気付くと、自室のベッドの上で転がっている。

 起き上がる。

 その時もう、私は私ではなかった。

 絶叫した。

 手当たり次第に、部屋のものを破壊して、両親が起きて、部屋に入ってくる。

 何かを言っているがどうでもいい、どうでもいい。

 今まで人の意を、遂にんでくれなかった連中だ。

 私も、もうそんな奴らの言葉なんて、意に汲み取る義理もないだろうが。

「うるっせえええええ!!!! 全部ぶち壊してやったよ!! ほら、お前らの望む通り!! 満足かよ!! これで満足か!! ——お前らが!! なんで私の親なんだよ!!」

 八つ当たりだ。

 最後に引き裂いたのは、お前だ。

 分かっていても、どうにもならなかった。

 私は怒鳴り続けた。

「返せよ!! 私の人生を返せっ——!!」



 そこからの人生はあまりにも殺伐としていて、語るに忍びない。

 私は有名な絵本の少年のごとく、怒りつづけ、憎悪しつづけ、周囲に当たり散らしつづけた。

 私生活においてはロボット然とした私の余所行き用の仮面が皮肉にも役に立った。私は何事もなかったかのように再び学校に通い始め、周囲のモブに溶け込んでいく。

「水瀬……」

 校内の廊下で振り返ると、見覚えのある誰かがいる。甲斐田とか言う父に気に入られただけの普通の男子である。

 それは遠慮もなく私と並び立って歩き始めた。

 血の通わない目つきから何も察することができないのだろうか。感性のしなびて腐り切った、ホモ・サピエンスの面汚しが。私はもうその声も聞きたくないというのに。

「俺、この間のことなら全然気にしてないから。だからさ、今度うちでゆっくり……」

「別れてください」

 私は会話をしたくない。その近隣の空気と接するだけで鳥肌が立つ。けれど、面汚しはしつこく付きまとった。

「——は? どうして? ちょ、ふざけんなって」

「二度と話しかけないでください。あなたの声を聞きたくない。会話をしたくない。コミュケーションを取りたくない。反吐へどが出る」

「なに? じゃ聞くけど、白上ってお前の——」

 私は問答無用に腹を殴ると、うめいて屈んだソイツの目元を掴んで、踊り場の壁に擦り付ける。そして、反対の手に握ったシャーペンの金属部分を喉に当てた。

 目元を隠されたソイツからでは、得物えものが何か分からない。カッターか何かにも思えるように、鋭い痛みが走るように、力を込めて押し付ける。

 辺りに人がいないのは、神の采配と思えた。

 今更味方されても、気味が悪いだけだが。

 神だって、そんな当てにならないものは、はなから味方じゃない。

 私に味方はいないし、いらない。

 くだらないこの世の理とそれをならう愚者ども全てが私を孤独にした。

 その憎しみを知らしめるためにも、私はこの世で一人で生きていくんだ。

「な……ま、まって」

「二度と話しかけんなっつったろ、キメェんだよ、イカ野郎。おまけに結斗の名前出しやがって。てめえごときじゃ万回転生したってなれねぇ男の名前だよ。分かったら、同じこと三度言わすなよ? 二度と、私に、近づくな。さもなきゃ、逮捕されたって、絶対グチャグチャにしてやるから、お前と血のつながりのあるやつ全部——」

 私はゆっくり手を離すと、腰の抜けたソイツを見下ろし、微笑みの仮面をつける。

 近くにちょうどよくモブの気配がしたので、少し声を大きくした。

「じゃあ、そういうことで。先輩は先輩の道を進んでください。ありがとうございました。バイバイ」

 私は角を曲がって教室に戻ると、いの一番に汚くなったシャーペンを捨て、ウェットティッシュで手を拭いた。

 そうしてそれは片付いた。

 明くる日に、結斗が一日だけ高校にきた。

 退学届を提出するためだ。

 でももう会えない。

 合わせる顔などない。それどころか、今の私は会えば、きっと……きっともう感情を抑えることはできない。

 問答無用に彼を殺して、自害してしまうだろう。

 それはできない。

 だから、教師に雑に理由をつけて、彼が施設から出ていくのを、ベランダからひっそりと見送るだけにした。

 愛しい結斗。

 涙が止まらず、私はベランダに身を潜めて枯れるまで泣いた。

 怒りにも変わる。幾度となくベランダの壁を殴りつけ、気付いた頃には痛々しい血痕が一面に点々と散らばっていた。

 その愛しさを思えばこそ、人類のちりみたいな慣習だとか、そのものだとか、社会に倣う全てに吐き気がした。

 私は持ち前の才気煥発な頭脳を活かして、勉学に励み、特に理系に身をやつした。表面上は受験勉強に勤しむように見えて、そんなレベルのことはとっくに終わり、ひたすら、効率的に全人類を殺せる方法を模索していたのである。

 やはりサリンの前例にあるように、物理的に殲滅せんめつせんとするなら、毒ガスや病原菌といった細菌類がよい。レベルの低い凡人はガソリンくらいしかないだろうが、私の標的は全人類だ。どこそこの事務所一軒を焼き尽くすのとはワケが違う。

 優先するのは確実な致死率、そして感染力だ。さもなければ、人間は滅ぼせない。

 私は東京にある理系の強い大学に視野をしぼり、合格する頃には、海外とのコネクションを欲していた。

 国内ではダメだ。所詮ヤクザはチンピラの延長に過ぎず、大義に欠けている。劣情や理性が残っている。それではダメだ。

 日本を効率的に壊してくれる、マフィアやテロ組織を狙った。中国や韓国といったアジア諸国がいい。思想は関係なく、利害が一致していて、日本人ほど鈍感でなく、また程よく狂ってもいるからである。

 しかし、その一方で私は脳科学にも興味を持ちつつあった。情報や電子工学といった観点から、人類を破壊するということも十分に考えられたからだ。

 これなら、つまり、インターネットという、既に出回っている病原菌を使用できる。ばら撒く手間が省けるではないか。SNSを利用してもいい。これらに汚染されていない人類はもはやいないだろうからである。

 それは私にとっての未来の完成図と同じだ。何より他の誰かの力を借りる必要がない。

 最終的に私はこれを選んだ。

 私はゼミの教授からそれらについてを学び、知見を得ると、自身の研究室で作業に没頭した。

 生物的には細菌類の研究。電子工学ではプログラミングに時間を費やした。

 人類はどこまでいけば、脳をそれに委ね始めるだろう。既に研究は始まっていると聞き、私は胸を躍らせる。いわゆる、SFにありがちな電脳化というものである。

 それが済めば、人類の殲滅はしかしずっと容易くなるだろう。私は単純化して計算して、しかし、それでもそれがまだ何百年も先のことになると予測し、軽く絶望する。ならば、と、今度は自分のデータを先に残す手段の検討に入った。

 この思念を絶やしてはならない。

 必ず、何世かかっても、人類に復讐する。

 ホモ・サピエンスそのものが、私の宿敵のようであり、その復讐心だけが結斗のいなくなった私を突き動かした。

 もし、未来にそのような技術が産まれるとしたら、未来からの観測を逆探知は出来ないだろうか?

 そうして技術を先取りする。双方向のやりとりができればなお良い。けれど、そんな観測など史上未だかつて確認できた事例はない。

 こちらからアプローチはできないか。

 だんだんとオカルトじみてくるが、それが科学の本質だろう。科学技術とは、人類が使う魔法のようなものだ。

 非現実なんて言葉こそがバカの使う世迷言なのだ。

 そんな折、私に目をかけてくれる助教授からお誘いがあり、私は画家の誰それという人を紹介された。私のぶっ飛んだ頭はもはや幻想的ということだろうかと解釈したが、芸術こそ、私にとっては何の価値も感じられない分野で、当初さしたる興味もなかった。

 しかし、その画家の誰か、に連れられて、個展に行った時に閃く。

 絵は未来へのアプローチたり得るではないか。

 私は現代において絵を残す、未来の誰かがそれを見る、そこに私と未来人との接点が産まれる。

 私はそこで初めて芸術に興味を持った。否、芸術に、ではないだろうが、その手法に関心を抱いて、絵画を始め、その名前も覚えていない誰かといることが増える。

 次第にそれを外部の能無しが付き合うだとか、そんな言葉で形容し始めたが、そのことにも関心はない。

 あるのは、未来へのメッセージ、その手段だけだ。

 そういう意味では、当然、子供を産み、育てることも大事のように思われるかもしれないが、私にとっては一考の余地すらない唾棄だきすべき愚策である。

 私は結斗以外の男の種と合わさったくそを産み残したいんじゃない。

 私を、残したいのである。

 この人類への憎しみに取り憑かれた女の魂を。

 そして世界が終わるその日に、届けてやりたいのだ。

 けれど、人間という生き物はほとほと呆れ果てるほど感覚が鈍くなっていると言えて、共に過ごした時間が長くなることを、その誰かは、愚かにも勘違いした挙句、私にそれを求めるようになった。

 当然、私は拒絶する。

 しょうがないので、この時にはっきりと言った。

 私が知りたいのは手法であって、それ以外に興味がない。貴方に興味があって、一緒にいるんじゃない。

 穢らわしい手で触れてくれるな、とまで言った。

 すると、その男は強引な手段で打って出るようになり、私はそれに殺意で答えた。

 両親と同じだ。

 どいつもこいつも、社会の脂肪に支配された、生かしておく価値すらない俗物だ。

 その場で殺して埋めてやってもよかったが、私がホモ・サピエンスとしてどれだけ気狂きちがいであるか、ということが、それでようやく認識できたのか、一頻り打ちのめしてやると、男はそれから私に従順になった。家を出て、直接的な接点のなくなった両親の代わりに、その男を気晴らしに虐待するようになる。

 あー、家来か。それでもいい。名前も覚えてない奴だけれど、私は織姫。姫なんだから、そのくらいの駒はいてもいいだろう。

 しかも、面白いことに、これを周囲は更に勘違いした。私は基本虐待には自分の手足を使う。それで持って癇癪かんしゃくを起こすたびに身体の見える部分に生傷を作り、四肢に包帯を巻いたりすることが絶えなかったのだが、モブはこれを画家の暴力によるものとささやき始めたのである。

 私は笑うしかない。

 一面的にしか物事を捉えられない低知能が如何にしてゴシップを産み、俗世を嘲弄ちょうろうせしめてきたかの実演を目の当たりにしている気分であった。

 大学も三年目になる頃、私はふと付けたテレビの画面の中に、その人を見つけて震えた。

 なぜ、そうしているのか分からない。

 けれど、私は気付くと、テレビの音量を最大まであげて、久しく鼓膜を揺らすその天使の鳴らす鐘の如き美声に酔った。

 本人だ。

 紛れもない、その確信があった。

 証拠など数える必要はない、私が見間違うわけがないのだ。

 だって、その番組に映っていた人は、

 私の——。

 正直言って、迷った。

 それまでに風化させまいとしてきたものが一斉に崩れ出して、私に人間らしい感情を思い出させたかのようであった。

 会いたい。

 復讐なんてやめて、逢いに行ってもいいのではないか。——と考えたところで、最後の抱擁を思い出した。

 そんな彼をまくしたて、砂をかけて、追い払ったのが、この私ではないかと。

 そんな彼に、おそらく人生最大のダメージを与えたのが、この私ではないか。

 そして彼はもうそこから立ち直り、自分で歩き始めている。

 それを誇らしく思いこそすれ、再び元の木阿弥に戻そうなどと思うなんて、外道畜生も甚だしい、最も愚かで下卑た傲慢な発想だ。

 そもそも彼にはもう別に恋人がいることを、私は知っていた。

 彼が高校を去って数日、あの麻倉 凛が、訪れていたのである。

 その時、彼女は私に面会を求めて、校門前で同校の生徒を呼び止めていた。私は赴くと、彼女を校内のラウンジに連れ込んだ。途中で会った教師には事情を説明して了承を得ている。

 前衛的な楕円形だえんけいのテーブルを挟んで向かい合うと、麻倉は挨拶もそこそこに切り出した。

「私、結斗と寝たから。もうアイツはアンタのものじゃない。きっと、これからはちゃんと忘れていけるよ。私も大切にする。アイツと生きてくつもり。だから、そこは安心して。あなたはあなたの人生を生きて」

 高校生の私は何も答えない。動じもしなかった。

 少しの沈黙があって、麻倉はけれど絞り出すようにして続けた。

「でも……でも、本当に良かったの? これで。水瀬さんさ……」

「別に。そんなことを言うためにきたの? 暇なんだね」

 私は即座に切って返したが、麻倉は挑発に乗るどころか、むしろ哀しげに表情を落とした。

「またそんな強がり言ってさ……本当、なんか、二人ってそっくりだよね。性別が違うだけでさ、中身は同じっていうか。私が言うのもなんだけど、どうしてそうなっちゃったの? 水瀬さん」

「麻倉さんには分からないよ。持つ者の苦しみは。……いや、結局どっちもどっちなのかな。持つ者、持たざる者ってさ、結局、双方の無い物ねだりでしかないんだろうね。本来は、不完全な人類全て、持たざる者、とした方がいいんだよ。持つ者って言葉は、そうしたら、単なるやっかみから産まれた二次創作みたいな言葉なんだろうね。小汚い貧民の嫉妬と自己顕示じこけんじまみれた視野の狭い願望と思い込みが、そんなくだらない言葉を実しやかに囁かせたんだ。ノブレスオブリージュとか聞いたこともないんだろうなぁ、そういう人ってさ。昔からある言葉なのにね。有名な誰かが使うと、こぞって皆で使い出して……、俗物は、だから、浅ましくて見るに堪えないよ」

「話を……」

「逸らしてないよ」一部の隙も見せまいとするように、私はさらに切り込んだ。

「結斗とヤったからなんだって言うの? そんなのは所詮肉体だけのものじゃん。依然いぜん、私たちの関係は何一つとして変わっていない。結斗は私のものだよ。その心はずっと私だけを見てる。いつだって彼の頭の中には私の姿だけがある。私みたいな髪の女の子を見かけるたび振り返るし、私の影を街角に探し続ける。いくら身体を重ねたって、その瞼の裏では私を抱いてるつもりでいるんだよ。あなたがどう思おうと、麻倉さんはずっと、私の代わりなんだ——」

 破裂音が鼓膜を強く揺さぶり、耳鳴りがした。麻倉がテーブルに身を乗り出して私を叩いていた。

 一瞬、ラウンジにいる生徒たちがこちらを見た。鬱陶うっとうしいモブ共だ。学生Aを演じるならもっと張りぼてらしく、何にも動じず、黙って突っ立ってさえいればそれでいいのに。

 麻倉は言った。

「……これで気はすんだ?」

 私は笑った。例え意識的なものだったとしても、心から浮かんだことは、久方ぶりのことに思えた。

「そして、結斗の代わりでもある……か。私こそ聞きたいよ。麻倉さんはずっと誰かの代わりでいいの? それで満足なの? いつか後悔する日がくると思うよ。その時は、辛いと思う。その時に死にたいなんて思っても、遅いんだよ? 死ぬよりも辛い思いをする」

「私は……たぶん、アンタより人間できてないからさ。難しいこと考えないの。実際にあの人に抱かれてるのは私、それだけで満足できる」

 私はクスッと、最後にもう一度笑った。

「--嘘つき。でも、そんな優しさが、麻倉さんなのかもね。今日は来てくれてありがとう。さよなら」



 私は彼を愛している。

 それがあればこそ、自罰と称して手前てめえの快楽をむさぼってるだけの愚かで救いようもない頭空っぽのメンヘラカスビッチのように、この身をおとしめることは一度としてしなかった。

 私は、私の望むがまま、彼に望まれるがままの無垢でありたかったのだ。

 一片の社会通念的な価値観にけがされることもない、子供のままでいたかった。

 否、取り戻したい、というべきか。

 かつてのような私を縛り付けるものはもうない。

 彼とどうにか再会して、生きていくということももちろん何度となく考えられた。

 けれども、この世界で、生きていく、ということと、社会との契約は切って離せない。

 どちらか、あるいは両方なり、どこかの会社に所属して給料を得ていかなければならないだろう。

 より自分たちの望むような環境を手にせんとすれば、自ずとその時間ばかりが増えていき、代わりに自分たちの望むような環境で、その人と共にいられる、当初の目的は果たせなくなっていく。

 歳月をかけてそれをやって、十分な資産と時間の余裕ができたころには、もう何もできない老人に成り果てている。そんな人生なんて、詮無い。

 彼と逃げ延びて、どこか田舎の果てで、ゆっくり自給自足の暮らしに埋没することも考えられた。

 本当は早くから、そうしたかった。けれどもそれで私自身はともかく、そうして結斗の人生を、その可能性を封じ込め、退屈な何もない日常に縛りつけて殺すことも忍びなく、厭われた。

 彼方あちらを立てれば此方こちらが立たない。

 人間は社会を形成したその時既に、そうして詰んでいるのだ。

 形成するまでが人間の主体的な役割であると言ってもいいかもしれない。

 子供の頃、浜や公園に作った砂の城のように、それを構築することに夢中になれるうちはいい、けれども、それを過ぎて維持しようとなると、とたんに億劫おっくうになる。なぜなら、それは創造性のない、単なる作業にするからだ。早々に機械人形などこしらえて、後はそいつらにやらせるべきことなのだから。

 あるいは、本当に砂の城ならば、また崩して、一から作り直せばよかった。

 しかし、実社会となると、そこで暮らす人がいる以上、そうもいかない。だから、文明は必ず行き詰まってしまう。無作為かつ無情に壊して、一からやり直すことが容易にできないから。

 創造には破壊が不可欠なのだ。けれども杓子定規しゃくしじょうぎに整然とされた社会では、それが叶わない。だから、この先の戦争は、そうしてデザインされた出来レースになるだろう。余分な人畜を、ただお膳立てされた正義の元に排除するための。

 そして創作の神であった人間たちは、無事そこで暮らすだけのNPCと成り果てた。かすみを栄養分に変えて生きていけるなら、それでもいい。けれども、人はそうではないから、その秩序の中で、栄養の獲得に追われなければならない。

 誰かの作り、強いた、納得のいかない秩序の中で、行われる無意義なそれは、つまるところ、延命である。

 人類の寿命は、とっくに尽きている。

 殊、延命の先端たる私たち若年層などは、生まれた時既にその運命になく、代わりに背負わされるものは、既に出来上がった社会を維持して回す歯車の宿命であるから、時々ゲームや映像の世界にそれを求める。

 あまりにも侘しい。

 これが人類の行き着いた先なのか。

 自分で作った社会の重みに耐えかねて自然な自壊を待つだけの。

 昔にも私とまるで同じことを思い、果てに入水した作家がいる。いつの時代にも、私のようなものはいたに違いない。

 だからきっと、私の求める未来においても何も変わらないんだろう。

 数十、数百、数千、数万年後……いや実際にはそこまで遠くはなくて、もっと早い時期に巡回するように出来ているのかもしれないが……と経て、見た目は様変わりすることになっても、人は、何も変わらないだろうことが、そこからも想像できる。

 この整然とされつくしてしまった秩序の、あとは延命するだけの世界の中で、生きる人は、そのことを問題視もしていないどころか、そこで生きる軸になることに精一杯で、その前にある人生の個人的意義などはどうでもいいのだろう。

 私がモブの人生をどうでもいいと思うのと同じように。

 生まれ変わっても、何も変わらない。

 私が来世で、また今の自分と同じような性格になり、結斗の魂を持つものと再会したとしても、世界やそこに住まう人たちが同じならば、そして自分たちだけが同じで、周りが違うなんて、そんな都合良く条件が整うこともあるわけがないのだから(自分たちが同じというだけ、それで再会できるだけで奇跡だ)、まるで同じ結末を迎えるだろうし、全く別の人を前世からの恋人のように想い、接するかもしれない。

 否、誰だって、間違いなくそうしているのである。

 この水瀬 織姫という私だって、前世の記憶なんかないから、そこでは全然違う人と結ばれていて、今世で生まれ変わったものが名前も認知していないあの画家であるかもしれないのだ。

 私たちに確かめる術がない以上、それは詮無せんないことであって、この世で抱いた感情全ては、それが今、例え、どれほど大切で重大で、愛おしく抱きしめている切なる想いだとしても、全て、今世限りの一過性のものであると言えると同時に、私という魂が死してなお、そうして次へ続いてきたモノだとしても、それ故に、未来永劫、私たちは変わることがなく、何度となく同じ結末を迎えるのだろうと言えてしまう。

 運命や世界、命という概念そのものが、変わりでもしない限り。

 だから、転生には意味がない。生まれ変わって、別のものに代わるなら、それはもう私の人生じゃないし、同じなら、それ故に結末も変わらない。

 だからその運命から逃れられないことが、人は苦しいのであって、意味がわからないのであって、自分だけに都合の良い運命が手に入るなんて、その考え方自体がもう極めて軽薄で、自分がどれほど甘ったれているかも認知しない脆弱ぜいじゃくな人間性を露呈ろていする行為だ。

 転生は人の一生を侮辱しているとすら言える、それゆえ私は嫌いだ。

 いつの日か、時間も空間も破綻はたんし尽くして、文明の一雫までもブラックホールに飲み込まれ、この宇宙が寿命を迎えるまで、私たちはどんなに生まれ変わってきても、私たちのままなのだ。

 そうして再会に気づくこともなく出会い、身に覚えのない想いの出所を悟る間も無く別れ、泣き、次の朝日を笑って迎えてきたように。

 そんな灰色の世界が、延々と続いてきて、今があるのだけなのだから。

 これは、いつから始まったんだろう。

 そしていつ終わるの?

 死んだくらいでは終われないことは歴史が証明している。

 人類全てを殺し尽くせば終わるのだとしても、現実、そんな術はない。

 過去には戻れない、未来には届かない、しかし今にも留まれない。

 今生を終えたところで、私たちは、また誰かに生まれ変わって、誰かを忘れ、誰かと出会わされ、誰かを愛させられていく。

 そして繰り返す刻の果てに、世界が終わるまで。

 それが永遠に続く。

 なんてひどい。

 虚しい。

 これでは牢獄だ。

 私たちが何をした?

 無限に続く魂の回廊に囚われて、そして気付いた時にはもう出られなくなっている、それほどまでのどんな罪を人間が犯したというのか。

 私はだから、産まれたことを後悔した。

 私はそれが嫌だった。

 抗いたかった。

 解き放たれたかった。

 脱出したかった。

 この世から、放たれたかったのだ!!

 そして物言わぬ石ころとなり、彼と永遠に宇宙を漂ってさえいられればよかったのだ!!

 だのに、なぜ意識なんてものが生まれてしまったのか。

 なぜ、人は産まれなければならなかったのだ。

 それこそが、この世全ての諸悪の根源、悲劇の始まりだろう。

 私は産まれたくなんかなかった。

 初めから、この絶望的なサイクルになんて、囚われたくなかったのだ。

 私はそんな虚無感と、復讐のために思考する時間とを行き来するような日々を過ごし、年々そのバランスが崩れて、ブラックホールに呑まれる光のように、歪み、堕ちていくのをひしひしと感じた。

 しかし、私は作業の手を止めなかった。

 ひたすら、毎日、絵を描きつづけたのだ。

 私と結斗をつなぎ止める、たった一枚の表現を掴みたかった。

 今世はもうどうしたってやり直せないから、私にできることはもうこれだけなのだ。

 有名な絵画をつぶさに眺めて技術を模倣もほうし、絵に起こしてみる。上手くいかない。こうではない。もっとあり得べき表現があるはずだと、それは次第に絵画に留まらず、この世のありとあらゆる表現技法を貪欲どんよくに漁るようになった。

 アニメでも良い。漫画でも良い。

 自分がこれぞと思う心を動かされた作家の、魂を、その筆の入れ方を自分の手で書き起こすように模写し、模倣し、模倣し、自分の腕を通して、研鑽けんさんする日々。

 来る日も、来る日も。

 私は画家のアトリエに閉じこもり、寝食も忘れ、シャワーも忘れ、下着を変えることさえ忘れて、一人、そうして己の現在の技術の限界に悩み、打ちひしがれ、何度となく苦悩してはそんな暇はないとまた立ち上がり、身体に鞭打ち、筆をとって、一枚一枚、絵に起こし続けた。

 成功も、失敗もあった。表現するということに正解も間違いもなく、あるのは自己満足だけなのだから、そしてそれが最も、極めて難しく、針の穴を通すような悩ましい極限の追求であって、日々頭を悩ませ、上手く出来たかと思えば、有名な絵画との落差に愕然がくぜんとし、その時はダメだと思っていたものが明くる日見返してみると、なかなか味があるように思われる。

 浮いては消え、消えてはまた浮いてくるアイデアの数々を寝しなにもメモに残し、ほんの少しの怠惰たいだにそれをサボって、目覚めてから浮いてこないことに後悔して、癇癪を起こして。

 届くかもしれない、いや届きようもない未来の果てを思って失望し、上手くいく未来を思い描いて時にアルコールをあおり、浮かれもしながら。

 夢を見るように。

 一枚一枚、一日、一日を、ずっと、ずっと。

 そうして私は、絵を描きつづけることに没頭した。

 それだけをしつづけた。



 明くる日、私は鏡の前だった。手につかまれた一本の頭髪に眩暈がした。

 白髪だ。

 私に白髪が生えている。

 鏡を通してよく見てみれば、張りのなくなり、だらしなく垂れ下がっていく頬に目尻に、額の吹き出物がやたら目についた。

 ピークはいつだったのだ?

 私は気付かずして、その線を越えてしまっていたに違いない。

 人間の適齢寿命は四十一歳。

 生きるだけで、刻々こくこくむしばまれていく……。

 一度短くなったテロメアは戻らず、それはあたかも思い出さえ食い潰していくのようだった。

 あとは、壊れていくだけだ。

 所詮、私も人の子。私だって、世界に有象無象にうごめく、一つのモブに過ぎないのだ。

 本当に何かを成せると思っていたのか?

 ただ幼馴染に甘ったれていただけの子供の自分が。

 その発言が、生き様が、誰かの心に届いて、世界が変わるかもしれないなんて……!!

 折れる……心が。否、もうとっくに折れていたのだ。

 "そんなこと"、うまくいくわけがないとどこかで思っていた。

 ずっと昔、私自身で子供の自分を押さえつけた時から。

 折れていたのを、そうではないように気丈に見せかけていただけ。

 悔しい。

 初めての感情かもしれない。

 いや、それは激情だ。

 今になって、人間のピークの短さが堪らない。

 悔しい。

 悔しい。

 負けたくない。

 届かせたいのに。

 まだやれる、やっと掴めてきたところなのに。

 自分の身体はもう萎びていく。

 もう、老いていく。

 どれだけせがもうと、どれだけ懇願しようとも、時の針は戻らない。

 時間はもうない。

 私は気付けば太ももを、あるいは壁を、洗面台を、殴りつけていた。

 悔しい。

 たまらない。

 結局、私は何も成せないまま——!!

 何度目かになる自傷行為の暴発——のはずが、食い止められていた。

 画家の男である。

 それが私のかたわらに立ち、腕を掴んで、呟くように言う。

「何やってるの」

「気分が悪い。失せろ」

 男は首を振る。私は腕を振って暴れた。掴まれた腕が使えないなら、反対の手で、足で、頭で、歯で、男を傷付ける。

 けれども男は何も言わない。

 ただじっと私の暴力を受けて堪える。

 なぜ。

 そうまでして、私とヤリたいのか。

 たったそれだけのために、全身に生傷を作って、こんな八歳も年下の女に四六時中、罵倒ばとうされて、悔しくもないのか。

 しかし、男がふいに私を抱きしめた。

 傷だらけの腕で、あざだらけの腹に、私を抱え込んで言う。

「君は美しい。僕が見てきたどんな芸術よりも、とうとく、はかない。それは死によって確立されるものじゃない、生の中でだんだんと壊れていく、人間そのものの有様だからだ。僕はそこに見惚みとれてやまない。そのためなら僕は何だって耐えられる。——生きろ、織姫。君ほど、人間にふさわしい人は他にいない」

 馬鹿かと思った。私は笑う。

「私、あなたの名前さえ覚えていないのに」

「僕の名前なんてさしたる意味はない。僕なんかギャラリーの一人でいいんだ。ただし、特等席で——」

 男は私の目元をすくうようにしてから、その指先を見せた。そこには透明な液体が付着している。

 いつからか、涙が出ていたようだ。

 再び目元に手をやりながら、男は続ける。

「——他の客が知らない部分さえ見ていたい。これだけは譲れない」

 あゝ……と気付いた。

 そう、馬鹿なのだ。馬鹿でなくては、こんな女に付き合えるはずもない。

 コイツもまた、ホモ・サピエンスとしてどこか逸脱いつだつしている、気狂いなのだと分からされ、私は、心の中でもう遠いあの人の幻影につぶやいた。

 ごめん、結斗——。

 けれども皮肉なことに、結斗を想って、その人に抱かれることは至上の快楽を伴っていた。

 まるでスワッピングでもしているような気にもなった。

 結斗も同じ想いで、いやだからこそ余計に、麻倉さんを執拗しつように抱いただろうその様が、容易よういに目に浮かぶ。そう思うと、彼と同じところに行けた気がして、嬉しくも思ったのだ。

 あとにくる痛烈な後悔さえ、余興に思えた。

 どうにか単位を取得し、形ばかりの卒論を整えて、一年遅れで大学を卒業すると、私は事実婚というようにその画家の部屋に転がり込んだ。

 アトリエで手伝いをしつつ、自分の絵を手がける日々が数年続いて、それでもいいかと思った時もあった——が、突然湧きあがった吐き気が私を鏡の前に押し戻した。

 それは身籠みごもっている、という事実の確認でもあったし、その数年、溜め込んだ違和感の発露はつろでもあった。

 本当にこれでよかったのか?

 そして産まれた子供を、私は果たして、自分が望んでいた親のように、愛せるのだろうか。

 無理だ、絶対に無理だ。

 その子が成長するたび、そしてこの男に似てくるたび、私はきっと憎悪する。悔やむ。私は、結斗の幻影をまた追い求めて、彷徨さまよってしまうに違いない。今度はもっと下劣で淫猥いんわいな行為に走るかもしれない。

 なぜならその子は、最も身近で、私を常に監視するようにまとわりついて離れない、悪魔のような、私の人生に彫られた刺青、そのものなのだから。

 私に似てくれればいい?

 ……そうかもしれない。メンデルの法則ではどうだったか。その確率は如何程になるか、私は大学を離れて鈍くなった頭で必死に計算するも、曖昧な定義しか浮かんでこなくなっていた。

 違う……私が子供を連れている、というその事実が、紛れもない結斗以外のだれかと愛し合った証明じゃないか。

 潔癖けっぺきがすぎると思うかもしれない。

 けど、私がこの世で最も嫌なものが、そうした人間の軽薄さなのだ。

 まだ間に合う……。

 私はそうなりたくなかった。

 あの時のように、今度こそ、自分で自分を押さえつける気にはもう、ならなかった。

 私からこの子にかけられる愛があるとするならば、それが、宿っていたという事実すら消し去ることだ。

 私は完成間近の絵をキャンパスに置いたまま、アトリエを飛び出した。



 私は最後に見ておくことにした。

 思い出を抱きしめるように。

 その事実だけが、いつも私をなぐさめてくれたものだから。

 途中誰かに声をかけられた気がしたが、ちらとみると顔見知りでもなかったので無視し、結斗と訪れた場所を一通り見て回って、辿り着いたのは、あの海辺の公園の果ての空き地。

 そこだけまるであの日に帰ったように、何も変わっていなかった。

 もしかしたら本当に時間が進んでいないのでは、と錯覚するほど、辺りに散らばる雑草の背丈さえおなじだった。

 そこから見える海原も、木々の間に開けた夜空も、あの日のままだ。

 崖側に立ち、ふと隣を見ると女の子がいた。

 私を見て可愛らしく微笑むと、女の子は言う。

 女の子は気づいている。

 汚れ切ってしまった私。

 残骸ざんがいもないほどに、醜く落ちぶれてしまった私に。

 けれど、困ったようにそうして笑って、言うのだ。

 大丈夫。

 寂しくないよ。

 私が一緒にいる。

 私だけは、いつまでも、あなたと一緒にいてあげられる。

「本当にそうだったね。今までありがとう、織姫ちゃん。ごめんね。私のようになってほしくないんだよ。わかってくれるよね——」

 やはり、私は産まれるべきではなかった。

 けれどもきっと、そのことを忘れて、私はこうしてしまうのだと思う。何度生まれ変わっても。

 その時々に応じて、もっと早まるかもしれない。

 死にたがりの恋人となって、あなたの前に現れてしまうに違いない。

 そして——。

 どちらがどちらか、わたしにはもう分からない。

 わたしたちは手をつなぐと、足を一歩前に踏み出した——。



 ————。



 それはモニターで眺める、というよりも、もう記憶の追体験に等しい。

 "私たち"は、既にそうして脳内に直接映像を流し込み、神経を通して体験する技術を手に入れていた。

 水瀬 織姫が港の公園にある崖から転落して、海面に激突し、その意識が消失すると、私は戻ってきて、カプセルの中で目を覚ました。

 大人一人分の人体をすっぽりと納められて尚、余裕があるくらいの、卵状の装置が横向きに置かれていて、古代にあった車両のように、上向にぱかっと上半分のからが持ち上げられて、その中で私は起き上がる。

 私は殻の端を跨いで、フローリングに素足で上がった。

 卵の内部に浸された水溶液が、素足を伝って、床に散らばり、間もなく溶け込むように消えていく。

 10m×20m×20mほどの直方体内部には、一見するとその卵型装置の他には何もなかったが、私が手をかざすとタオルが出現し、それで持って身体を拭き終える頃には、空間に突然クロゼットの竿が浮かび上がって、衣装が並ぶ。

 行き過ぎた科学は得てして古代でいう魔法の技術になった。

 私が適当に着替えて、それらのインテリアを退けると、部屋は再び何もない直方体の内部に戻った。

 その音も物もない空間はいつも目にしているはずなのに、妙に白々しく思われた。

 ダイブのあとには良くある感覚だが、今回は水瀬 織姫の部屋で何年も過ごした記憶分、いつもより殊更ことさら強い。

 そうか。織姫の部屋は、ずっとこのイメージに沿っていたのだ。

 男として生まれ変わったときには、それをいだだけで病室のように殺風景なものになったものだ。

 織姫が私にそうさせてきたのだ。

 私が織姫の魂にそうさせてきたように。

 現代では既に魂のつながりというものは、時空を越えて、常に双方向で共有された思考であると解釈されている。

 デジャブはそのために起こる。

 並行世界、別の時間軸にいる自分の記憶が混ざった瞬間、というわけである。

 過去、現在、未来はそれぞれに相対的に影響を及ぼす。だから、未来からそれを知らない過去の思考に触れる際には、そのことを強く言及してはならないという制約ももちろんあるが、なにぶん思考というものは制御し難く漏れることも間々ある。それほどに大きな矛盾でないなら、未来に帰る時に自動で整合化されるし、重大なバグが発生するようなら、ソイツはもうこっちには帰ってこられなくなるだけ。細分化された並行世界は、増え過ぎれば自動的に統合され、あるいは消去される。

 究極の自己自律システムがこの未来には構築されていた。

 世界と自分を切り離し、単一的に見ることで、世界への干渉をなくさせ、それがバタフライエフェクトを極力抑える役割をしている。

 私が手をかざすと、白い壁がぱらぱらと、ブラインドがめくれるようにして、一面に外の情景を映し出した。

 あかつきの時刻であった。

 無造作にビルディングが乱立する様は、古代からの違いがさして見当たらない。

 けれど、その上空に物理法則を無視して浮かべられ、湾曲したり、重力に反した角度に持ち上げられ、無秩序に絡み合った高架や、アドバルーンのように漂う人工微小天体の数々、道路や気流を意図せず飛び交う車輪の無い箱や、機械臭さを無くした人形、異形の生物たち。幹だけが異様に果てなく長く、自然を冒涜するような奇妙な葉や実をつけた樹々、何もない空間の中途から突然こぼれだす滝に、実際に触れて渡れる虹の橋などなど、細部を見れば、それは完全に自然を超越したファンタジーの世界観であった。

 目的である、その遥か郊外に安寧あんねいされる地球人類の冷凍保管庫を見据える。

 人工太陽が部屋をオレンジ色に照らし出し、私はそこから世界を望んだ。

 武者震いがして、頬が楽しげに持ち上がる。

「——さ、いい加減、終わらせようね。この醜い世界の延命を……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る