第2話

第一章・二



 放課後だった。

 そんな日もある、というように、その日はひどく気分が落ちていた。物憂げだった。別に女の子の日とかそういう意味でもない。

 ただ漠然と、消えてしまいたくなる日だったのである。

 窓から差し込む真っ白の日光と、その強さに反比例して廊下側の真っ黒に暗くなった教室で、私は幼馴染の晴子と雑談を交えながら、いつもの、物足りない気持ちを抱えて、ふと窓からグラウンドを見た。

 瞬間的にボールを強く蹴り飛ばす男子の足が、そうして音と掛け声を空に運ぶ。

 眼下では数人ごと束になった生徒たちが見え、その話し声が、木々の葉擦れのように言葉でなく耳に入ってくる。外を行き交う車の音が、飛び交う鳥の羽音が、風に乗って、校舎二階の私のところまで届く。今の私には形容し難い、一つ言に収められない、複雑な想いの波紋を広げながら。

 そもそも先んじて白状してしまえば、これが自分で一番、らしいと思う私であった。普段の支離滅裂としたあれこそ私のペルソナであって、外部から柔い中身を守るべく、幼少の私が産み出した偶像にすぎない。

 それを特別なことだと感じたこともない。

 きっとそんな風に、誰もが、自分だけが知る内なる自分を守っている。

 私はそう思う。

 世界と自分との距離感を保つため、主人公にもヒロインにもなれない、取るに足らない自分を、夢のうちに秘めて労わるために。

 何も見つからないまま。不思議なことや心躍る出来事もなく、つまらない、叫び出したくなる、内なる自分を、無言のうちに堪えながら。

「今日、どこいこっか」

 そう言おうとして、振り返った私の視界の隅で、がらっと勢いよく教室のドアが開いた。それは紛れもない雑音だったので、私の発声は遮られて、全身の注意もそちらに向く。

 晴子も、後ろの方で私たちと同じように駄弁っていた二人組も、同様だった。

 一瞬、外の音も忘れたようにそうして静まり返った室内を、反比例した黒い影の中から出てきたのはクラスメイトのみほち。佐藤 瑞穂(さとう みずほ)。略してみほち。

 みほちはクラスで一番騒がしいっていうか、夢見がちな女の子だった。けれどそれは私からすると男の子らしいにも変換される。

 ドアを開けるときの乱暴さも、教室を横断するときの大股開きの足取りも、後ろの二人に話しかけるときの前のめりになった厚かましさも、呼吸の仕方の一つまでも、そう、まるで少年のもの。

 まだ女にも男にもなっていない曖昧な見栄え。

 たぶん処女だ、と私は思った。

「ねぇ聞いて聞いてー。知ってる? 初恋の人ってー、前世の恋人なんだって」

 みほちは二人が囲んでいる机に両手をついて切り出した。

「みほち、そういうの好きだねー」

「また今度は誰に騙されてきたん?」

 伊槌 芽衣子(いづち めいこ)と宮前 楓(みやまえ かえで)の二人はけれど、気だるげにしながらも、みほちの話に付き合う。みほちは話す分の息の量も考えずに、忙しなく口を動かした。その挙動に釣られて、安っぽいプラスチックの玉がついた細いツインテールがぴょんぴょん跳ねる。

「騙されてなんかないよ! 今度は本当!! ええと、なんだっけ。そうだ、人間ってフェロモン……とかあるじゃん? 第六感っていうか……それで第一印象が決まるとかいうじゃん? その感覚が一番鋭い時期が、思春期。つまり、今! 一目惚れは相性の良い相手を無意識に選んでるんだっていうでしょ。それが発展して、実は前世での相手を覚えていて、それに近い人を探してるっていうのが、最新の科学で分かったらしいよー」

「確かに。そう言われると理に適ってなくはないかも」

「最新の科学、何研究してんだよ」

 少しひねたようにして笑ったのが楓、存外ノリがいいのが芽衣子だ。

 しかし、その二人も何だかんだで嫌いではないのだ。こういう時間。都合の良い条件を設定して、その上で発想を語り合い、遊ぶ、夢の話。宝くじ当たったら、何に使う? と同じ意味である。

 奇しくもみほちの物言いは妙であった。

 けれども彼女は自分で言って、おそらく、きっとまだ気付いていない。

 その寂しさと、絶望に。

 それはつまり、もう私たちは、終わり始めているということなのだ、ということに。

(何してんだろ……私たち)

 私はふと気が付いたように、むしろ眠たげに、思考を切り替えると、今日どこ行こっか、と改めて目の前の晴子に尋ね、その三人に別れの挨拶をしつつ、教室を後にした。

 高校に上がったばかりの頃、それは犬飼くんとのコミュニケーションよりも古い、去年の春先でのことである。

 そして現在、一年後の初夏。

 その時撒かれた種が、目の前で発芽していた。

「は、華藤くん、おはよー」

「おはよう、佐藤さん」

「き、今日もいい天気だねー」

「そうだね」

「ふ、藤と藤で被ってるねー」

「あ、そういえばそうだね」

「よ、よかったら、教室まで……」

「うん、一緒に行こうか」

「は、はわわわっ。やったぜ!」

「ふふふ、佐藤さんって面白いね」

「え、えー、そ、そうかなぁ……えへへ」

「うん、さっきの藤と藤で名前が被ってるのは、俺も気付かなかったし、同い年のはずなのに、なぜだか犯罪の匂いが漂ってくるとことか、一緒にいるとすごくハラハラドキドキするよ」

「ど、どきどきって……!」

 朝の登校中、私は例によって、片手にだらしなく学生鞄をぶら下げ、前方5、6メートルというところでぴょんぴょん跳ねる二つの触手を、海溝の底よりもくらい眼差しで眺めていた。

 念のために言っておくと、誰もしりとりなどしているわけではない。

 みほちは念願かなって遂に見つけたらしいのである、つまり、前世の恋人を。そして、全身をすくませ、心を縛り付ける恥じらいを堪えて、健気にも甲斐甲斐しく頑張っている、その真っ最中なのであった。

(初恋が前世の恋人ねー……はいはい、すんげぇ可愛らしい、まるでハダカデバネズミみたーい)

 一方、そんな乙女の勝負処に、妄想の中で得意げに冷や水を浴びせかけては、猛暑に胸元を腐らす乙女が一人、豆腐の角に頭をぶつけるどころか、自ら額を叩きつけて脳漿を一帯にぶちまけたくなっていると、ふとその思考を切り裂く自転車の鈴の音と、殿方の凛々しい気配がした。

(私の王子様……?!)

 私はとっさに往年の少女漫画のキラキラした巨大な眼もかくやと思われるほど瞼をひん剥いて振り返ると、

「お前な、朝からなんて顔してんの……」

 そこにあるのは、柴田のあばたヅラであった。

 私は鋭く深呼吸をして、内なる自分を宥める。歯の隙間から漏れる吐息は、マグマが噴き出す蒸気かあるいは、魔界の瘴気に酷似している。

「ふしゅぅううう………」

「なんて顔してんの?!」

「なんだ……柴田かぁ……ふぅぅぅう、なんだぁ……しばたかぁぁぁぁ……」

「はぁ? んだよ……珍しく落ち込んでんのかと思ったら」

「あ、しばたかってひらがなにすると、一瞬ばかにみえるよね」

「あぁ? 喧嘩売ってんのか」

「…………」

 私はいたく不満ありげに、横目で柴田を見た。

 私の初恋という、名称を入れただけの空っぽで真っ白な記憶フォルダを紐解くに、やはりそこには何もなく、他方のゴミ箱で完全に消去されずにアーカイブをギリギリ残しているのが、この男だった。

 最終更新日はもう一年以上前になるが、この男は私を好いているのである。否、今は知らないけど、少なくとも、過去には好いていたという紛うことなき事実が、実際の出来事と共にゴミ箱フォルダにある。

 男女の違いはあれど、ともすると、この状況は目の前の二人と同じもののはずではないのか?

 なのに、双方の見栄えには桶狭間における両軍の総大将ほども明暗が分かたれているように思われるのは果たしてなぜだろうか。

 一方では白く黄色い花色の初々しさに満ちたみほちと猿彦の心ときめく登校風景、他方、その背後で酷暑に汗と魔界の瘴気を垂れ流し、のっそり歩を進める私と、自転車を転がすオレンジ頭のニキビの化身。

 まったく納得がいかない。四畳半に潜み続けたとある大学生のように、責任者に問い正す必要を私は禁じ得ない。

 責任者はどこか?

 私だ。

「うるさいなー……ちょっと私には眩しすぎただけ」

「眩しい? あーあれ?」

 そう言うと、柴田はガードレールの向こうから、前方を見やって、また私を見た。私は独り言のように呟く。

「私の濁った水晶体の前に、あれは眩しすぎる……」

 とたん、柴田は大口を開けて唾を四方に飛ばしながら笑った。

「だっはっはっ。確かに。お前と佐藤じゃ、もうジャンルからして違うっつーか……」

 私は即座にガードレール向こうに腕を突き出して、柴田の腹に渾身の裏拳を叩き込んでやる。袖先の硬いボタンがわりかし凶悪で、当たりどころが良ければ女性の腕力でもなかなかの威力を誇るのだ。

 ただし、目などガチの急所は決して狙ってはいけない。マジで身の危険を感じた場合には、狙ってもよい。そして何より、半袖の夏服ではそもそもそこまでの袖がなく、私は腕周りの丸くなった二の腕を、肩に沿って晒しただけであった。

 柴田は一度バランスを崩しながらも、懲りもせずまた隣にやってくる。

「っぶねぇだろ!?」

「そういうのの積み重ねなんじゃ、アンタはー」

「はぁ? いやちげーって。ジャンルが違うっつーのは……おい!」

 私は無視して、早足になる。どのみちもう校門は目の前だった。すると柴田はすぐに駐輪場へと向かい、道行も離れざるを得ないだろう。そこまでの辛抱だ。

「おーはよ。千歳」

 教室について、少しして晴子が来ても、有名な絵本の怒りつづけた少年のごとく、私の気は晴れていなかった。私は机の上表面を抱きかかえるかのような体勢で突っ伏し、首だけ回して、晴子を迎えた。

「うす……」

「……どした。朝から、不景気通り越して、戦場帰りの帰還兵みたいな顔して」

 晴子は曰くありげに、柴田を見る。柴田は顔をしかめ、肩をすくめて返していた。

「……晴子、お願い。何も言わずにぎゅーってして?」

「いいよ? ちゅーは?」

「それは流石に大丈夫」

 晴子の舌打ちを聞き流しながら、私は立ち上がると、登校したての彼女の抱擁に温められて、精神力を回復させる。

 男子の目もあるが、もはやどうでもいい。私は晴子だ。晴子一筋でいい。それが一番、平和なのだとしみじみ思った。嘘だ。そんなものが平和であってたまるものか。本当は晴子ではなくて、男と恋がしたいし、男とハグがしたい。

 金髪の凛々しい顔した転校生と一緒にキャッキャしながら登校して、周囲に花弁散らばるフレグランスな空気をさらりとお届けした上、ごく自然に下級生から憧れられる人生に産まれたかった、さらさらした前髪を、ふふふって言いながら、人差し指の先で梳いたりしたかった。

 てか、週末の丘の出来事からすれば、そこは私の立ち位置ではなかったのか。なんで隣にみほちがおんねん!! どっから出てきたみほち!! 私だろ、どう考えても!! おかしいだろ、神様てめえ。なんで柴田と云々。

 理不尽な外圧に、机に乗り上げて抗議する先頭集団に続いて、一人また一人と席を立ち、網膜の映像に野次を飛ばし、資料をぶちまけ、愉快犯が指笛を鳴らす退屈な日々の憂さ晴らしもとい、伝統の乱痴気騒ぎが始まり、私の頭の中の議会は荒れに荒れた。

 それは放っておくこととして、その間、晴子について注釈すると、そもそも晴子はこう見えて、陸上部期待のエースで県大会の常連という猛者なのである。

 日々の研鑽によって育まれたスタイルの良さは然ることながら、カーリング選手のお手並もかくやと思われるほど丁度いい塩梅で日に焼け、筋肉のついた肢体は、クラスはおろか全学年の男子たちの精通を率先して促す側の一人であって、異性からは情欲の的、女子からは憧憬の的、私などが気を配るまでもなく、晴子は選び放題なのであった。ただ一つの越え難きジェリコの壁を除いては。

 さりとて、そんな晴子も夏の大会に向けて、そろそろバイトもやめ、本格的なトレーニング漬けの日々に入っていくことだろう。

 というわけで、その日も晴子は部活で忙しく、私は一人、ぶらぶら帰路につくことになる。

「やる気ースイッチ、ミーのはどこにあるんだろー。みつけーてーおくれよ、ミーだけのやる気スイッチー」

 結局、私はその日一日ダウナーな気分を払拭できず、夕闇に沈むスクールゾーンを今朝とは逆向きに進みながら、ぼんやりと鼻歌を口ずさんでいると、これまた同じく自転車の音が聞こえて、声がかかる。

 私はもう分かっているので、何も期待しないし、そんなことで今更不機嫌になったり、情緒を不安定にもさせないで待ち構えた。

「ひっでぇ鼻歌……」

 おまけに私は音痴である。私がカラオケでマイクを握ると、決まって皆、目を合わさず、すごく良い笑顔をして、終わるとスイーツを一口くれるので、流石に最近気付いた。

 やはりそこにいるのは、柴田であった。私はもうはやその顔面に敷き詰められた無数のニキビを確認することもなく、切り返す。

「ほっとけ。野球部は? サボりか?」

「どうせ後、数ヶ月もねーし、三年は勉強漬けになるし、したら遊べるの今しかねーじゃん」

「……このダメ男が。やる気スイッチ探さないとダメじゃん」

「お前もな」

「キラキラ女子を殺る気ならいつでもあるんですけどね……(苦笑)」

 けれども、その意見には全面的に同意である。

 高二の夏までとはよく言ったもので、高三というのは実質、あってないようなものということを、私は従兄弟の姉を見て、よく存じ上げている。戦後に残る三月くらいが、高校生活における最後の楽しみになるということも、それも人によっては持株の暴落した投資家のごとく、虚無と絶望のうちに奪い去られてしまうことも。

 柴田は人の断りもなく、そうするのが当然というように器用に車速を合わせて、私に並んでいた。

 やれやれ、私も罪な女だなぁ……なんて、内心で小鼻を広げてみて、虚しく、

「あのさ、前から思ってたんだけど」

「んー?」

 私は唐突に尋ねた。

「柴田ってさ、私のどこが好きなの?」

「…………」

 柴田がふいに顔を上げて、私を見た。

 自転車の分、四十五度より鋭く傾けた私の視線と交差して約三秒、また何事もなく、前を向いてペダルを漕ぎ出す。

 返答にこれほどまでの時間を要する深淵な命題を与えてしまったようである……なので、私は再度魔界の瘴気を身にまとい、口から漏れ、漂わせて続けた。

「こんな……胸元から男子の下半身の匂いがする女のどこが……」

「……はぁ?」

「あと耳の裏からは、そのうち夏場の電車内の匂いがするようになるし……」

 柴田はひきつった笑みを浮かべながら、続けた。

「いや、しねーだろ……そんなん。どうなってんだよ、お前の身体は」

 私の初恋はとっくの昔にカビ付きの記憶で終わっているのだけれども、きっとコイツの初恋は罪な私であって、さっそくみほちの言ってた前世の恋人発言は外れていることになる。ざまあみろ、ファッキンみほち。

 加えて、目の前のサボり魔の反応がおかしくて、私はからからと揶揄からかうように笑いながら続けた。

「てか、まだ好きなの? ……あれから? ずっと?」

「……まぁな。だから、ほら……別に、彼女とか作ってねぇだろ? 童貞だって守ってるし」

「守るもんじゃないだろ、それは」

 なんだか逆である。私の方が無神経な男の様で、その時の柴田は何なら今朝のみほちよりも、ずっとしをらしい。

「健気だねぇ。こんな女に……。なんで? そんなに好き? おっぺぇか? やっぱおっぺぇがええのんか?」

「そんなんじゃねぇよ! 例えちっぱいだったとしても、そのちっぱいを愛でる度量はある!」

「へぇ……じゃ、なんで?」

「……わかんねぇ」

「えぇ……」

「けど、お前といると面白い。見てて飽きない。楽。……そんなもんじゃねえの、好きとかって」

「……ま、それは正直いって私もそうなんだけどさ。でもそれって……」

 別に友達で良くね? と喉から出かかった言葉を私は呑み込んだ。

 柴田を無闇に傷付けるのは本意ではない。

 けれど、面白い……なんて、私からするとチャームポイント足り得ない。そんなのは、何なら男だってできることじゃないか。

 私じゃなくても、良いことじゃないか。

 否、私でなければいけないことなんて、この世にはないのだ。

 だから、とっととそんな私のことなんか忘れて、別のいい子を見繕えばいいのだと、思っている。例えば、そう、晴子とか。

 私がもどかしく言い淀んでいると、柴田は顔をしかめて言った。

「てか、試してみればよくねぇ? そんな悩んでんだったら」

「は?」

 柴田は珍しく、急にもじもじとして、歯切れ悪く言った。

「よく分かんねーけど、匂い? そんな気にしてんならさ。それで今日、変だったんだろ? だったら、パッと誰かに嗅いでもらってさ、別に変な匂いしない、って証明すれば、済むことじゃね?」

 私はふいに足を止めた。柴田も自転車を止めた。

 夕暮れの通学路を、腰の曲がったおじいさんが、杖をつきながらふるふると通り過ぎていく。

 私は身の危険を感じて、とっさに裏拳の準備をしながら、固唾を飲み込む。

 狙いは言わずもがな、目だ。

 しかし一方、柴田は尚も尤もらしく続けた。

「お前のことだから女子はむしろ信用できなくて、嫌なんだろ? 遠坂もああ見えて、気遣いそうだしな」

 遠坂というのは、晴子のファミリーネームだ。遠坂 晴子(とおさか はるこ)と言う。

「かといって、そんなこと頼める男子の連れもいない……じゃあ、俺しかいなくね?」

「…………」

「あー、俺なら別に……その、匂いとか気にしねーし。匂ったらはっきり言うし、何ならもし……もし万が一おかしな匂いがしても、それはそれで興奮するから大丈夫っつーか……?」

 いきなり何言ってんだ、この変態。

 ……と思う一方、確かに柴田がそういうなら、お互いにノーダメージでいられることにも気付いてしまう。Just. Shibata-Me, so Win-Win ?

 いやいやそんなに深刻に考えていたことでもなかったのだが、気がつけば、事態はありもしない逼迫さを催して転がり始め、それに応じて私の中の平和主義論者が起立していた。

 ピエロのように不気味な笑みを浮かべる愉快犯論者までもが加わり、雑言飛び交い、殴り合いに発展しかねない白熱した討論の末、脳内にガベルの打ち下ろされる小気味良い音が鳴り響いた。

 静まり返る堂内で、私の頭の中の議長が判決を下す。

「……そ、マ?」

 もはや暗号と化した短縮語で、私は答えた。

 私たちは急遽、帰り道を九十度折れ曲がり、近場の公園に赴くと、大通りに面したロッカーの裏側に潜んでいた。

 大通りに面しているとはいっても、そこは勾配のある下り坂になっていて、歩道は九十度ほぼ真下に位置し、向かいの歩道、反対車線からは丸見えであったが、そもそもそんな乙女らの秘め事なぞ双眼鏡で観察するような酔狂が運悪く通り掛らないことを祈るばかりの強行である。

 私は脳みその代わりにもずくでも詰まったかのように錯乱した頭を抱えながら、ブラウスのボタンに手をかけようとして、ふと踏みとどまった。

「え……やっぱ脱いだ方がいいよね?」

「は?! ……あ、いや、えーと」

 かつての犬飼くんのごとく、柴田はあちらこちらに視線を泳がせてから言った。

「見たい。正直」

「はぁ?!」

「いや、てか、ブラウスだったら、それブラウスの匂いになる気がするし、それにどうせ恥ずかしい思いすんだったら……」

「いや、皆まで言うな。……だよね。うん、分かってる」

 私は緊張して荒ぶる呼吸を宥めつつ、後ろを向いて、再度ボタンに手をかけ、ぎゅっと目を瞑る。

「……そっち、誰も来てない?」

「来てない」

「あ、ちょっと待って。柴田、やっぱこっち来て」

「はい」

 私は柴田を大通り側に立たせて、洗濯物の下着をガードするように、向かいの歩道からの視線をシャットアウトする。

 ただし、これでは、私はロッカーと柴田に挟まれる形となって、いざとなったら逃げられないか、あるいは別の何かをしているように見られるかもしれぬが、背に腹はかえられぬ。

「目、閉じて」

「あい」

(あれーなんでこんなことになってんだー?)

 私は今度こそ覚悟を決めるともなく、狼狽した手つきで第二、第三、そして第四までものハッチを次々に解放していく。

 それは私にとって拘束具のようなもの。内奥に秘められし隠しきれない真実の形態をそれでも締め付けて、不毛の努力のもと、押しとどめておくものであった。

 白い谷間を形成する薄い水色の下着が、そうして半端に空いたブラウスの隙間から外気に晒されて、私は恥ずかしさのあまり、今一度裾を閉じてしまう。

 柴田はこう見えて根が真面目なので、言われた通り、水中で息を止める子供のように硬く瞼に皺を寄せ、やらんでもいい口まで閉じ、鼻で息をしている。

 アホだ。アホがおる、と私はその滑稽な姿を目に焼き付けておくことにする。

 改めて、片手で前を留め、片手でその手を掴んで指示する。

「ちょっとしゃがんで」

 柴田の手は野球部員だということもあって、もう、いつか触れたお父さんの手のように大きかった。

「うい」

「もう少し」

「うぃー」

 丁度いい位置に柴田の頭が来たところで、私は深呼吸をする。

「……あ、あのさ! 絶対! 誰にも、いうなよ……言ったら、アンタ、絶交!! 絶対もう二度と口利かない。いい?」

「分かった。……てか、早めにしてくんない? この体勢さ、膝がきつい……」

 柴田は胸の位置に合わせて、膝を屈めた、いわゆる電気椅子に近い姿勢をとっていた。

 私は一歩進み出て、ふと思いつく。緊張で息が苦しく、発言も辿々しくなる。

「あ、待った……私、良いこと思いついた。ねぇ……そのまま目、閉じててよ。いい?」

 私は言うが早いか、柴田の鼻先に自分の空いたブラウスの隙間を持っていった。正気と狂気の狭間で、どこのとも知れず神経に悪寒が走る。いわく、私は一体、何をしているんだ?

 柴田が目を閉じたまま、状況を掴みかねて言った。

「え……なんで?」

「匂いーーでしょ? だったら、見なくてもよくね?」

 やや沈黙があってから、やや不服そうに柴田は言う。

「ここまできたら、ちょっとくらい、よくね?」

「ダメじゃね?」

「頼む」

「見てどうする」

「……ちょっと、分かりません」

 コイツは今、嘘をついた。私だって男子が夜な夜な家族に隠れて、無用にゴミ箱をティッシュで満たすため、何をしているかくらいは知っている。

「はい、嘘ついたからダメ。信用できない」

「分かった。匂いだけでイケるから、俺」

「それもやめろ」

「どっちでもいいから、早く……膝が」

「え、分かんない?」

「は?」

「もうやってる」

「ーーえ」

 柴田は呟くと同時、目を開いた。

 私は耳まで赤くなる。

「わ、ちょ! 目開けんなって!」

「や--こ、す--」

 幼気な童貞ニキビの権化に、私の胸元はすこし刺激が強すぎたらしい、その衝撃は海馬を揺さぶり、彼の言語野に破綻を来させてしまったようだ。

 やべぇ、これは、すごすぎる。というところだろうか。

 恐るべし、我が乳。それをいとも容易く翻訳できてしまう私の童貞ニキビに対する理解度はこの際、棚に上げておくことにしよう。

「あーもう、いいから。早く。絶対、触んなよ」

 私が堪りかねて言うと、柴田は私の胸の前で、すんすんと鼻を鳴らす。

「え、でも、全然……うん、普通っていうか……普通に洗剤の匂い」

「マ?」

「マジ。何ならもう少しくらい酸っぱくても全然イケるわ……」

「変態……」

 それが終わってボタンを付け直した頃、柴田はまた変態なことを言い始める。

「どうせならさ、脇の方も嗅いどいた方がよくね?」

「……それ以上言ったら、絶交」

「いやマジな話だって。こんな機会、もうないだろ? それとも、気にして、今日みたいにだらだらやってくか?」

「…………」

 私の頭の中の議長は、前例と、尤もらしい押しにひどく弱いということが判明したのだった。

 いやに真面目ぶって進言する柴田を前にして、気づくと私は、全身の細胞が消失せしめんほどの羞恥心にぷるぷる震えながら、腕を高らかに掲げていた。

 例によって柴田がそこに顔を寄せ、すんすんする。

「……ど、どう?」

「こっちも全然、平気。……なんだよ、お前の取り越し苦労じゃん。気にしすぎなんだよ」

 むしろどこかがっかりしたような柴田の態度を見ると、言い知れない安堵と愉悦を覚えたうえに頬が綻んでしまう。

 例えるなら、お手を覚えた犬を見るような恍惚とした気分だ。

 私は腕を下ろして、百年の永きに渡る決闘に終止符をつけたばかりのように肩で大きく息をしていると、柴田が事もなげに尚も言う。

「じゃあ、次は耳の裏か」

「もうやめで!!」

「え?」

「もう無理だから!! 精神がもたない!! ごめんなさい、私、甘く見てた!! びっくりした!! 軽はずみなことを言いました!! こんなことになるなんて、思ってなかったの!!」

 改めて帰路に着く頃には、私はどっと疲れ果てて、以前より遥かに深く、海の向こうの大国は国境に位置する大瀑布もかくやと思われるほどの鋭角で項垂れていた。

 反面、柴田は自転車から降りて、ソープ帰りの卒業間もない元童貞のごとく悠然と隣を歩いている。

「もう、もうダメだ私……こ、こんなことになるなんて……失敗した失敗した失敗した私は……」

「悪かったって、やりすぎた」

「お嫁に行けない……」

「んなこたないだろ。俺もいるし」

「あーこんな変態、いやじゃー……」

「お似合いだと思うけどな」

 柴田は満足そうに笑うのだった。

 明くる日の放課後も柴田がついてきた。それも、今度は猿彦をつれて。

 ご多分に漏れず晴子は部活でいない。そこで私が悠々自適に一人でくつろぐプランを立てていたところ、それを事もあろうに、なんか寂しそうだったから、という極めて不躾ぶしつけかつ傲岸不遜ごうがんふそん、無神経の最たる一言で持ってしたりげに近づき、二人は我と帰路を共にし出したのであった。

 これはさしもの我とて、噴飯物ふんぱんものであった。そうとも、一人称を忘れるくらいの怒り心頭に発し、我の予定していた当初の華麗にして尊い、乙女が一人下校旅絵巻をして、よっぽど聞かせてやろうかと思ったので、視聴者、読者の皆様にはぜひにも聞いて頂こうかと思う。

 付き合う余裕もないほど、時間に貧する身分であらせられるというなら、ここは飛ばしてもらっても構わない。所詮は乙女の、尊い妄想である。

 まず我は贔屓ひいきにしている喫茶店に立ち寄る。ここには久しぶりのことなので、それだけで気分は明るく、足取りも軽くなる。そうしてこぎつけた窓際の席で、我は前回と同じコーヒーを一杯いただき、読書にふけること数分、頃合いを見計い、ふと思いついたかのように、窓から空を見る--。

 ……あゝ、このどこまでも続く空の下、あなたは今も息災でいらっしゃいますか--と、物憂げな表情を浮かべながら。

 すると、どうだろう。

 この目立つわけでも、地味なわけでもない、これといった特徴もなく、地球上に似た店舗が五万とあるような、ごく普遍的な喫茶の風景が、私という見賢思斉な文学少女の来訪により、突如、甘く芳しい恋物語のワンシーンのようになったではないか。

 店と同じく、どこにでもいるような中年のマスターに、どこにでもいるような大学生のバイトは、そんな私の横顔から、可憐で素敵な背景を一つと言わず想像せしめ、変わり映えのない日常に細やかな彩りを加えて、明日への活力に変えるのである。

 これがまず一つ。

 もう一つはもっと痛快である。

 その喫茶店を出て、次に向かうのは、これまで幾人もの敬虔けいけんな婦女子を養成してきた、淑女御用達の青い看板のお店である。

 そうだ、あなたが今思い浮かべたもので間違いがない。オレンジ色の方でも良いが、やはりスタンダードは青い方であろう。オレンジ色のはトランプに対するUNO、コカコーラに対するペプシのようなものであると思っている。緑の看板は取扱物が大人すぎるコーナーもあって入れない。

 そこは知っての通り、婦女子御用達であるが、同時にそんな花の蜜の香りに吸い寄せられた冴えない異性の群れも多く散見される。

 彼らはこの平日の昼日中から時間を持て余してしまい、おそらく連れ立つ彼女もおらず、一人寂しく、新刊出てないかなーとか、俺これ好きなんだよねーってこれ見よがしに流行りか極端にマイナーな一冊を手にとっては、誰にともなく、しかし誰かに気付かれたいと切実に思っている、哀れで、けれど幼気な、生物界の神秘的階層の住人である。御用達の店にいついた妖精と思ってもらって差し支えがない。

 そうして寂しげに(そう、彼らにこそこんな言葉は相応しい)商品を買うでもなく、店を出るでもなく、あてもなければ、出会いもなく、売り場をうろつく彼らの涙を禁じ得ない習性観察を堪能したのち、私はその憐れみに耐えかね、一つ嘆息を溢すと、彼らに施しを下賜かしする。

 まるでネンネのような、あたかも初めて来て目当ての売り場が分からないんです、といった白黒した顔をしてそっと彼らに近づくや、私はわざと髪が揺れ、匂い立つようにして、その脇をすり抜けるのである。

 はい、ドーン。お前も堕ちたーお前もお前もじゃーと、並び立つその滑稽な顔する傍を牛蒡ごぼう抜き……もとい尻目に、哀れな童貞どもに、そうして一時の清涼感を届けてやるのだ。

 わざとらしいくらいでいい。あからさまなくらいが奴らチェリーボーイにはちょうど良い。

 そうして街の、今日も恵まれない男どもに束の間、夢の邂逅かいこうを楽しんでもらいながら、逍遥自在しょうようじざいはのんびり優雅に、私はゆるりと帰路に着く。

 そういう、げに尊き有意義な時間の使い方だってあったのだ。

 それをこのペラ田野郎は。

 視聴者、読者の男性諸君はこぞってこの男にヘイトをぶつけるがよい。此奴の真、無礼な一言で、私……ああいや我……もうどっちでもいいや、は憤懣ふんまんやるかたなし、計画はおじゃんになった。この日の哀れな迷い子らが、救われずじまいになったのは、全て、この男の余計な一言のせいである。

 一方の猿彦にしても、柴田といるに連れ、段々と柴田に似てきたように思われた。

「仲良くだから。中野区みたいな発音」

「違う違う、勝之、違うって。仲良くだって。仲、良くみたいな、一拍置く感じ」

「それじゃ、中じゃん。仲じゃないじゃん。どこの方言だよそれ。中がええのんかってA○のおっさんみたいな感じになっちゃうだろ……お、わりぃ、千歳」

「別に……」

 勝之とは柴田のファーストネームである。柴田 勝之がフルネーム。

「じゃあ、く○もんは?」

「く○もん? え、猿彦、お前今どう言った?」

「目のクマに、何者だよお前……、のモンを合わせる感じ。クレヨンの発音。まを強調する感じ、く○もん」

 猿彦がジェットコースターの軌道を宙に描くように指を下から上に滑らせて言うと、すぐに柴田は笑った。

「待て、ぜっ……たい違うから!! クマーだから、あれ。く○も……あれ? クマーもん……く○もん……やべ、俺も分かんなくなってきた」

 このように既に一日目の理知的なイメージはコーヒーに溶けゆく角砂糖のように脆くも崩れ去り、今では名実ともに柴田(アホ)二号の地位を私の中で確立しつつあった。

 柴田が二匹、背筋の凍るような光景である。

(クッソどうでもいい……そもそも二人とも違うから。熊本の派生だから。抑揚なく、く○もんが正解だから……なんで男子って云々……)

 と、その時だ。

 私は二人より少し前を歩いていたから、一足早くその状況に気付いた。

 境内に続く階段前の通り、少し前を先行く同校の生徒がそこで、車道の一点を見ては口々に何かを囁き交わしている。

 車も、気付くと車線をそこだけ器用に避けていく。

 私は彼女らの目線を辿って、それを見つけた。

 直近の車が過ぎるのも待たずに、気付くと飛び出していた。

 待てば、またかれてしまうかもしれない。

 目を覆いたくなるような瞬間にも、私の目にはそれしか映っていない。

 後ろから二人の声が聞こえ、すんでのところで私を避けた車からも怒号が響いたようだが、私にはどうでもいい。

 そう、どうでもいいのだ。

 この取るにたらない私の命なんて。

 私は一も二もなく駆け出し、車道の真ん中に伏せったままの、その子の元に着いていた。

 間もなく二人も到着する。柴田が、自転車を片手で抑え、ちょっと強めに私の頭を叩いた。

「馬鹿野郎! 千歳、お前、いきなり何して……」

 私は答えなかった。

 代わりにその場でスカートをたたみ、膝を折る。

 そして、そっと、その横たわった頭を撫でた。

 生前に、誰かにそうしてもらったことは、果たしてあっただろうか。少なくとも、今は私がそうしている。

 私が見つけている。

 もう、遅くとも。

 醜くひしゃげた猫の死骸が、目の前に転がっていた。

 大きさからいって年頃は過ぎているようだったが、老猫かは私の目には分からない。

 私は緩やかに頬をあげて、生体にそうするのと何ら変わりなく、中指で眉間をなぞり、頭部に手のひらを置いて、撫でる。

 この子は全うしたのだ。休んでいる。しかし死は、決して悲しいことではないと思う。

 それはきっと、魂の休息だから。

 死ねて、良かったのだ。

 私はそう思う。

 ふと気づくと、猿彦の顔がすぐ横にあった。それで、私とは違って、医師が触診するように各部に指先を触れている。

「何回か、かれてるね」

「……分かるの?」

「ま、普段、骨ばっか見てきたし、剥製はくせいなんかの依頼もあるから」

 その顔はこれまで見てきたどの顔とも違う。無表情というには感情的であって、怒っているというにはあまりにも無機質に接する意志を感じる、そんな複雑な顔つきだった。

 彼にとっては標本の一つのようでしかないのか。あるいはだからこそ、何か思うところがあるのかもしれない。

 何にせよ、埋めてあげなければ……と立ちあがろうとした時、二人の向こうから更にもう一台の、今度はトラックが迫ってきていた。

 飽きもせず、それはわざとらしくクラクションとブレーキ音を掻き鳴らすと、私たちのそばを過ぎ去って、醜い豚の悲鳴にも似た雑言を私たちに向かって飛ばしていく--。

 目の前が真っ赤になるというのは、最近見た海外のドラマのセリフじゃないが、本当だ。

 けれど、このお優しい人間の支配する世界では、その怒りを晴らそうとするや、どこからともなく正義の使者がやってきて、私たちの邪魔をする。

 そう、邪魔だ。

 それらがまとめて、私にとっては、雑音だ。

 私には、ウェイストランドで金網を巻きつけたバットを片手に、当たり前の正義と暴力を行使する、あのおじさまの生き方がひどく羨ましい。

 彼の姿こそ、私にとってはヒーローだ。彼を思うと、自信と勇気が湧いてくる。

 あぶねぇ?

 危なねぇだって?

 てめえ、目の前のこれ見て何言ってんだよ……。

 私は車が嫌いだ。

 品がない。

 放屁のようなガスの匂いと音が、

 草木を踏み荒らす汚いゴムの塊が、

 そこに乗り、踏ん反り返ったぶ厚い面の皮した俗物が。

 だから、大嫌いだった。

 --私はとっさに中指を立てて返していた。

「うるっせえ!! あぶねぇじゃねぇだろうがよ!! ここはてめぇらのための場所でもなんでもねぇだろうが!! 勝手に車走らせてんのは、てめぇの方だろうが!! この勘違い野郎っ!!」

 私の中指と罵声に応じるように、近くの駐車場に横付けてトラックが止まり、中からチンピラ然とした中年の男が出てくる。

 柴田が後ろで、「おいおい……」と呟いた。

 降りてきて間もなく、先ほどと同じ意味の文句を捲し立てる中年の男に私は応戦する。

「ふざけんなよ、てめえ!! 現に命を奪っといて!! 偉そうなこと言ってんじゃねぇ!! 何様のつもりだ、申し訳ないとか思わないのかよ!!」

 私は西洋の剣を地面に突き立てるように、人差し指をコンクリートの足元に指して続ける。

「言え!! 頭下げて詫びろ!! わざわざ道を空けさせてしまって申し訳ございませんって、全ての生き物に平身低頭して謝れ!!」

「はぁ?! 俺に関係ねーだろうが!!」

「それが分かってねぇってんだよ、クソジジイ!!」

「この……女だからって、調子こいてっといい加減……」

 そう言って拳を合わせ、関節を鳴らす中年の男の前に、両手を広げた柴田が情けない顔をして、立ち入った。柴田の背丈は既に大人の男と遜色がないどころか、それよりもやや高くすらある。

「まぁまぁ!! すんません。あの、コイツ、アホなんでーーええ、ええ、俺からもキツく言っとくんで、若気の至りだと思って、勘弁してくれませんか……。ーーほら、千歳も、いい加減にしとけ。謝れ」

「意味わかんない。なんで私が!!」

「いいから、とりあえずやっとけって」

 柴田は親が子にそうするように、私の頭を押さえるや無理やり下げさせる。私は抵抗するが、柴田の方が力が強い。

 しかし、中年の男の横暴はそれで治らなかった。ソイツは二言三言文句言って柴田の胸ぐらを掴むや、有無を言わさず一撃、頬に見舞ったのである。

 鈍い音がして、私は叫んだ。

「柴田っーー!!」

 それを満足げに見下ろして、目の前の中年の男が笑う。

「ヒヒ、可愛い声も出んじゃねえか。おい、この坊主に礼言っとけよ。でなきゃ、そのでけえおっぱい、剥いじまうーー」

 中年の男はその物言いを中途で切った。

 頬を打たれて顔を逸らしていた柴田の目線に気付いたのだ。

 口元から薄く血が流れたその表情は、中学の時、一日一喧嘩をモットーにするくらい、荒れに荒れてた頃を彷彿とさせる、生ける鬼のような面構えだった。

「ーーあ?」

 中年の男が短く、唾を呑むのが分かった。

「おっさん、てめえ、今……何つった? ーー俺の千歳に何するってぇ?!」

 誰もお前のになったつもりはないが、中年の男は本気モードの柴田のガン飛ばしに気圧されて、後ずさりながら言う。

「何もしねえよ。第一お前らが道路のど真ん中で--」

 まさに風林火山、柴田は静かに進んだかと思うと、目にも止まらない速さで中年の男の胸ぐらを掴んでいた。

「あぁ?! てめえ、今、セクハラかましたろ!! 千歳のおっぱいがどうとかってよ!! 千歳のおっぱいは俺のだから、両方とも俺の、先約済みだから!! 唾つけようたぁ、それだけで万死に値すんだよ!! 覚えとけや、このボケ!!」

 てめえも十分セクハラだろ、と思ったのはさておき、中年の男の後ろから幾分か若い青年が出てきて、その腕を揺すっていた。

「ヤバいっすよ、先輩、コイツら……目が。たぶん、頭も……ぶっ飛んでやがる」

 それで、もう一悶着あるか--と私が身構えたところ、背後から声がした。猿彦のではない。

「こらこら、君たち、喧嘩はおやめなさい」

 境内から降りてきた住職であった。

 しかし、その場の誰よりもガタイがよくて背が高い。格闘技かバスケ選手なら大成しているのでは? と思わせる体格から、されどまるで正反対のイメージで放たれたそのいたく温和な鶴の一声で、私も柴田も、運転手の二人も、瞬く間に悋気をおさめ、運転手の二人はトラックにすごすごと退散を決め込んだ。

 残った私たち三人を順番に見ていき、猿彦のところで住職の目が止まる。柴田の自転車は、今は猿彦が預かっていた。

「おや、君は華藤さんとこの……」

 猿彦は何も言わず、ただ少し頭を下げて返した。

 柴田が悪いと言って、猿彦がいいよと短く答え、自転車を返すやりとりの後、走り去るトラックをまだ見ていた私の肩に柴田が手をついた。

 ナンバーを控えて目に物見せてやろうという構えだった私は、それで柴田の顎先に筋になっている血に改めて気付き、正気に返った。

「柴田、ごめん。それ……」

「あ? --あ、気付かなかった」

 柴田は口元についた血糊を拭うと、吹き出すように口元を綻ばせる。

「大したことねぇよ。それよりお前な……」

 住職はその間にも淡々と車道に戻り、猫の死骸を前に数珠を引っかけた両手を擦るようにして合わせ、何事かを唱え、拝んでいる。

 私もすぐそれに続いて、並び、再び膝を折り曲げて両手で拝んだ。

「これも何かのえにし、うちの方に埋めてあげましょう。もしお三方、よければ手伝っていただけますか?」

 死骸に触れる、ということもあってか、遠慮がちに言う住職に、私は負けん気で切り返した。

「大丈夫です。私の中にも、同じようなのが詰まってるって、私、分かってるので」

 住職は一瞬驚いたように目を見開いたのち、またゆるりと頬を緩めたように見えた。私はにべもなくそっと地面から手を回し、死骸を抱き上げる。気をつけないとこぼれ落ちてしまいそうで、注意を払う。

「柴田--あー猿彦でもいいや。悪いんだけど、残りのやつ、すくって、持ってきてもらっていい?」

「あいよ」

 柴田は階段の近くに自転車を停めながら答え、猿彦は頷いた。

 境内へと続く、長くもなく、さりとて短くもない階段に足をかける間際、一連を遠巻きに見物していた女生徒の群れが今度は私を見て、囁いているのが分かった。

 いわく、

「あれ、四組の松原さんだよ」

「え、マジじゃん。素が怖いってほんとだったんだ--」

「色々……気にならないのかな。猫ちゃん、ヤバくない?」

 ……思うところはあるが、まぁこんな片田舎にしては珍しい修羅場だったことは否めないのでほっておく--。

「見せもんじゃねーんだけど? 何してんの、お前ら、さっきっからそこで。暇かよ」

 --として、階段を一段一段のぼる背後から、早々に柴田のそんな声が聞こえてきて、私は小さく微笑んだ。

 それから階段上の古めかしい鳥居をくぐり、先を行く住職についていく間も、二人の話し声が漏れ聞こえてくる。

「びっくりしたか?」

 いたく優しげに気遣うような柴田の声。それから、さっきから大人しくなっていた猿彦の声が続く。

「驚いたことは驚いたけどね」

「たまにあるんだ。俺も目の前で見たのはめっちゃ久しぶりだけど。そのたんびに、晴子とか俺が事をおさめてきたわけ。--ああいう奴なんだよ。誰かが見てないと、いきなり何しでかすかわかんねえ」

「後ろ、うるせーぞ、べらべらと」

 私は一応突っ込んでおくと、前方の住職から答えが返ってくる。

「こらこら、女の子がはしたない」

 柴田のクスクス笑いが聞こえてきて、猿彦も鼻を鳴らした。

 そこでようやく私は、猿彦の前でも遠慮会釈もない素の自分を晒していたのに気付いて、片目を瞑りたい心地がした。

 しかし、先ほどの暴走も含めて、覆水は盆に返らない……それで大人しくなってしまったのだとしても、もう、なるようにしかならん……と内心、嘆息をついていると、思いの外楽しげな声が続いた。

「ふぅん。面白いね。気取ったり、腹の底に何飼ってるのか分かんないのより、よっぽどいいや」

「…………」

 頭の中には議事堂があるし、腹の底には魔界を持っててごめんと思ったが、猿彦の物言いは素直に嬉しくて、脳裏に立ち込め出した雨雲も、シフトを勘違いして現れた新人バイト君のような迅速さで立ち所に消えていく。

「勝之もそんなところが好きなの?」

「……誰かさんみたいなこと言うな。まぁ、中学の時は俺がそんなだったからな--」

 恩返しのつもりなんだ、ときっと続く。

 中学の時は柴田がやらかすのを私と晴子でやれやれと仲介したりしなかったり、そんなことを繰り返すうちに、妙に懐かれて、一緒にいるようになった。

 視聴者、読者の中には気になる人もいるだろうが、それはまた別の話というやつで一つ、機会があれば語ることにして、今は先を急ぐとしよう。

 自然の色濃い神社の裏庭に着くと、私たちは住職に道具を借りて、死骸をその一角に埋めた。

 こんもり盛られた土の奥に、小さな墓標を添えられ、おまけに線香と住職のお経付きで、御霊が天に昇っていくようだった。

「むしろ、野良には贅沢なくらいになっちゃったね」

 私は思わず口にしてしまうと、住職が切り出した。説法慣れしているのだろう、けれどその話は学校で聞くどんな話よりも、睡魔を寄り付けない。

「君の言う通りですよ。この辺りも元は全部自然だった。車やコンクリートなどのない野山だったのを、我々人間が勝手にそこにコンクリートを敷き、道だと言葉をつけて、往来しているに過ぎない。

 我々人間の方が侵略者なのですよ。我が国はまだ調和を尊んでおりましたがね、戦後、海外との交流が盛んになるうち、それもいつからか忘れてしまっておるようです。

 猫の方が自然です。

 それを跳ねて死なせて、尚悪びれることなく車を走らせる彼らに言ってやりたいことは、私にもありますから。

 大人げなく君の啖呵に聴き惚れてしまいました。

 ですが、あまり短気は起こさないようにしなさい。

 殊に君のそれは純真だが、見ていて危なっかしくもある。剥き出しの刀ではすぐに錆びて壊れてしまうのが落とも申されますな。

 稀有なものは、それだけ道理からは外れて見えるものですから、二人が、上手いこと鞘になってあげなさい。見たところ、良縁のようではないですか。……と、これは口が過ぎましたかね」

 住職は年甲斐もなく破顔して、そう言った。

 よく見ると、朗らかな笑みはハンサムであった。

「良い人だったねー」

 私は境内を戻りながら、両手を後頭部につけて言う。二人の背丈は大体おんなじくらいで、猿彦は柴田より頭半分ほど小さいくらいだが、二人とも私からすると頭3/4以上大きい。

 そうして見ると間に挟まれたこの状況はなんか攫われた宇宙人の図のようで、私は猿彦を真ん中にして、帰路に戻っていった。

 しばらく何もない日々が続き、テスト期間が始まる頃、突然教室で柴田が言った。

「なぁ、テスト終わったらさ、猫丸の墓参りにいこーぜ! 今度は遠坂も一緒に」

「あ、それいい!」

「それ、この間、言ってたやつ?」

 きょとんとしたのち晴子が私に言った。私はそうそう、と晴子に相槌を打ち、しかし柴田には呆れたように笑う。

「てか、名前つけたの?」

「おう、猫丸。イカすだろ?」

「またひねりもクソもない、どストレートに安直まっしぐらな名前だなー」

「名前ってのはつけることに意味があんだよ。なら、お前なら、なんてつける?」

「……キルヒアイス。ラインハルト、ミッターマイヤー……ああいや、ロイエンタールも捨てがたい」

 私が吟味していると、晴子がぽっかりと口を開けて見ていた。

 柴田がそれに肩をすくめて言う。

「な? 猫丸でいいだろ」

 その話は席を離れた猿彦にもすぐに伝わり、私は数日、久しくウキウキした気分で過ごした。まるで子供の頃の遠足を思い出すかのようだ。

 何も考えず、いやそう見えて、頭の中には今では信じられないほど多くの物事が詰め込まれて、日々忙しくしていた頃のこと。

 毎日が不思議と冒険に溢れていた頃のこと。

 もっと遡れば、私にそれを師事したお父さんも出てくる。

 けれど、先んじて言ってしまえば、その日のお墓参りは複雑極まる心境でのこととなった。

 その日、テスト最終日。

 猿彦は、早く学校に馴染んでもらうため、という名目で就任していた学級委員の仕事のために、朝から忙しく教師に給仕していた。もう一人の学級委員、坂東 菜々子と共に。

 午前までのテストが終わってからも、解放感に湧き立つクラスメイトらをよそに、猿彦と坂東の二人だけはそそくさと教師について出ていく。

 とはいえ、そこまで時間のかかるものでもなし、私と晴子と柴田の三人は前以て計画していた通りに猿彦を待つことにして、日向にいるのも暑くて嫌なので、三人して下駄箱前で屯していると、鞄の中で蠢くものを感じた。

 文明の利器を取り出してチェックすると、案の定メッセージが入っている。

 おそらく猿彦だろうということで、他の二人も遠慮なく、私のその画面を覗いてくる。

 お馴染みのチャット画面の左側にまず、ごめん、の一言とおじぎの顔絵。それからすぐ下に、ちょっと手間取っててもう少しかかりそうだから、先に行ってて、とあった。

「手間……? んなことある?」

 と言おうとして顔を上げたところで、私は初めて二人の距離に気づいて、一人、慌てた。

 二人はお構いなしに顔を上げ、見合わせると、妥協策を講じる。

「しゃーね。じゃー先行っとくか」

 と柴田が言うが、私は一旦離れて気持ちを整えたくなっていた。妙な対応をしてしまいそうだ。

「あ、いや、だったら私、ちょっと行って手伝ってくるわ。した方が早く終わるっしょ」

「え、でも……」

「いいからいいから。二人で先行ってて」

 私は言うが早いか、職員室の方へ足を向けていた。

 少し距離が空いた頃にそろっと振り返ると、もう下駄箱前に二人はいなくなっていて、私は胸を撫で下ろす。

 我ながらか細い……いや、か弱い乙女を内心に飼っていると思う。けど最近はそれでなくても接近が多くて、妙に意識してしまったのである。

 高二の夏だからか? 分からない。

 意識……なんでだ。少し前まではそんなことは全然なかったのに、最近何やら急に物事が進み出している気がしてならない。

 全て、猿彦が転校してきてからだ。

 --と考えた後で、嫌な発想だと思い、すぐに振り払った。

 職員室前に二人はいた。何やら親しげにしているところを、私は人喰いサメにでもなったような心境で近づき、少し勇気を出して声をかけると、猿彦はすぐに言った。

「あれ、なんで?」

「ああいや、手伝った方が早く終わるんじゃないかって」

「そうなんだ。行っててくれてもよかったのに。--でも、うん。ありがとう。じゃ、ちゃちゃっと終わらしちゃおうか」

 含みがあるように聞こえるのは、もう一人の学級委員が、あの、坂東 菜々子だからだろうか。

 そう言って、隣の印刷室に向かう傍ら、坂東がこっそり猿彦に意味深な目線を送っていたように見えたのも。

 けれどこの奇妙な違和感の通り、事件は直後に起きた。

 手伝うと言っても刷り上がったプリントを職員室に運ぶだけの作業で、当初私はほぼ見ているだけだった。

 しかし流石に見ているだけでは何をしにきたのかもわからないと思って、途中で代わり、私がオリジナルをコピー機に挟む係を仰せ付かって、二人に溜まったコピーを運ばせていると、ふと傍に気配もなく坂東が立っていた。

 私が声を挙げそうなほどに驚いたのも束の間、彼女は突然、独り言のように言う。

「コピー機ってー、見てると、不安になってくることない?」

「え?」

「私はあるんだよね。--なんだか同じ光景がずっと続いてて、それも同じものを文字通り、コピーしてるわけじゃん? ふっとさ、指突っ込んで、その流れを止めたり、変えてみたくなったりしない? 我慢できずに、まだ出てくるのに、途中で取っちゃったりとか。最後までお行儀良く待ってるのに耐えられないっていうか、松原さんはない? そういうこと?」

「えっと……」

「私ねー、変わらないものは退屈だと思うの。だから、つい変えてみたくなっちゃう。産まれながらの愉快犯、ある意味で厄介勢、それがほんとの私。別に私のことじゃなくてもいいんだ。むしろー、私はー、他人がそうやって踊ってるのを傍観するのが好き、っていうか。結局、奈々ちゃんが、一番頭良いーみたいな気がして」

 あら、坂東さん、あなた病んでらっしゃるの? と切り返しかったが、私はそう、皆様お気づきのように人見知りで、慣れない人の前だと猫をかぶってしまうのである。

 この時も例に漏れず、発言を濁していると、猿彦が職員室から戻ってくる。

 坂東が即座に笑って迎え、去り際ぼそっと呟いた。

「だから、ちょっかいって、好きなんだ。--猿藤くん、ありがとー。これ最後、私が持ってくね」

「あーうん、お願い。あと、華藤だけどね」

 坂東は今さっきの全てがなかったかのように、いつものぶりぶりした態度で猿彦に接すると、プリントの束を腕に抱いてささっと部屋を出ていってしまう。

 私が何も言えず、突然見え始めた坂東の闇に内心慄き、思いを巡らせていると、ドアを閉める音に続いて、ガチャリと雑音が加えられて、その違和感に耳を澄ませた。

 嫌な予感に振り返ると、しかし猿彦も室内にいる。

 既に猿彦はドアに縋るように近づいて、二、三、話しかけているところだった。

 私も状況が呑み込めないまま、猿彦の脇から軽くドアを引いて、やはり鍵がかけられていることを確認する。古い建物で、内鍵もなかった。

 曇りガラスの向こうで、坂東の影が私ににこっと笑いかけているように蠢いた。

「どう? 古典的なシチュエーション!! 私ー、一度やってみたかったんだよねー、恋のキューピッドとか? あはは、そんなの現実にいたんだー的な? 自分で言ってて超ウケんだけど」

「え……ちょ」

「ファイトだぞ、お二人さん」

 坂東の影はドア越しのくぐもった声でそう言うと、かつて見たポスターの政治家のように拳の影を顔の前にきゅっと掲げ、間もなく曇りガラスの向こうに消えていった。

 足音も遠のいて、沈黙が室内を包む一方、私の内心では怒髪天を突く勢いの雑言が飛び出した。

(--あの病みビッチ!!)

 私はドアをそれなりに強く叩いたが、立地を思い出してすぐに意味がないと悟った。

 ここは職員室の近くだが、目の前が来賓用の玄関となっていて、音はそちらに抜けてしまうし、そもそも、それゆえ用がなければ普通の生徒はおろか教師すらまず立ち寄らない。

 職員室はキャビネット棚とモルタル塗りの厚い壁を隔てて向こう側、あとは廊下向かいにある校長室の校長くらいだが、あの人っていつもどこで何してるんだ? たまに玄関先の花壇に水やってるのを見るくらいで、やはり当てにできそうにはない。

 あんまり強く叩いても四肢を痛めるだけ。

 しかし私はほくそ笑むと、コピー機の脇に置いていた鞄から携帯端末を取り出した--。

(バカめ!! それが古典的たる所以も知らずに、あのアホビッチが。子宮に脳でもついてんじゃないの--)

 --ところで、誰あろう、猿彦がその手を押さえていた。

 手の甲を突然包み込んであまりあるその熱い感触に、私はたじろぐ。

 盛りのついた男子がよく、女子の手ってなんでこんな柔らかいのーって興奮しながら、聞いてもいないのに話し出すのと同じように、その熱さに私も意識が動転する。

「え……え? なに? 猿彦、どうかした?」

「ちょうどいいじゃん。俺、千歳と二人きりで話したかったんだ」

 頭の中の議事堂では全議員同席の上、既にアラームが鳴り響いている。

 もはや一刻の猶予もなし、危機回避のプログラムを確認要項の十三番まで飛ばし、リミッターは全解除、即刻、全霊を持って警戒に備え、可及的速やかなる対処に当たるべきである。

 そうだ、此奴こそ柴田以上の素質を秘めし、最も二人きりになってはいけない匂いのする危険人物オトコではないか、と。

 満場一致で煙に巻くべきと議員らは起立して、網膜の外に糾弾していた。

「え? 話……なんの? いや、ごめん。私は……そんな、そんなの、ないけど--」

「--羨ましいって、思ったでしょ?」

 神経を超越した速度だった。

 脳が信号を発し、そのやりとりが四肢に伝わるよりも早く--つまり議事堂の疑義を挟まず、私は目を大きく見開いていた。

「--え?」

 猿彦は今もまた、あの、好奇心だけが奥でキラキラ渦巻く無垢な瞳で、私の目を真正面から射抜いている。

「猫丸の死骸を見たとき、千歳、君は笑ったね。むしろ安心してるみたいにさ。逝けたことを、よかったねって見送ってるように見えたんだ。違う?」

「…………」

「あ、別に責めてるんじゃないよ。蔑むわけでもない。きっと恐れる必要もない。俺はただ、本当のことが--本当の本当の君の言葉が、聴きたいだけなんだ」

 頭の中の議員たちが押し黙っている。こんな時ばかり、皆して顔を見合わせるばかりで、誰も何も対案を出さないでいる!!

 代わりに、振り子のついた大きな古時計の刻の針が、錆びついた分針が、今にも次を刻みたく震え出して、埃をこぼしながら鳴動するのを感じた。

 針が進んでしまう……。

 猿彦の手は気付けば私の手を握るように押さえている。いつ落としたのか、端末は既にリノリウムの床の上に転がり、私の手はただ彼のしなやかな指に包まれている。

 そうして触れた部分の体温が同調し始める。互いの想いが滲むように、ぬるま湯に熱湯が注がれて、冷たい部分と熱い部分が、やがて中で等しく釣り合っていくように。

 ご存知のメーターが数値を跳ね上げ、シンクロ率が見る間にも上がっていっているのだ。

 上がりきった先は、臨界に達してしまったら、さて、どうなる--?

 私はそれを知っている。

 永遠はここにこそあったのだ、ということを。

 今までが永遠だった。

 だから。

 震える。

 ずっと昔から。

 失う恐怖と抑えきれない好奇心の背反に。

 お父さんと別れなくてはならなくなった、あの日から。

 私は知っていたのだ。

 さながら生き物は、産まれた時に皆等しく時限爆弾を持たされているようなものだ。

 時計はいつでも、誰の胸の中にもあって、いつか止まるその時に向かって進み続けている。

 その数を増やすことはできない。

 その針を止めることもできない。

 誰も今には留まれない。

 それがどんなに尊く、自分の求める安らぎであったとしても、自分を苛むばかりの自罰的なものであったとしても。

 いずれ必ず--何もかも、死ぬんだから。

 そして私のそれはきっと、一般的に思われているよりも、ずっと短いだろうから。

 意識して針の進みを邪魔して遅らせ、そうしてさも止まっているかのようにしていなければ、すぐに針は回り切ってしまう。

 すぐにも燃え尽きてしまう蝋燭のようなもの、だから--、防波堤のようにちらっと柴田の顔が浮かんだ。

 さっきの携帯から顔を上げたときの惚けた顔が、さりとて今になってひどく懐かしく、恋しい。私は目を瞑るように救助を乞う。けれど、

(ごめん、柴田……私……)

 それに私は抗えない。

 永遠がなくなる。

 ガラス細工が砕かれるように。

 過ぎてしまえば、デジャヴに伴う感傷のように、それはいともあっけなく失せるものだった。

 そして戻らない。

 次の瞬間には忘れている。

 今しがたカットした節のように。

 それを大切にしていた切なる想いも、

 それに縋っていた一秒前の自分も、気がつけば皆、忘れている。

 人の頭脳はそんな残酷な連続でできている。

 好奇心が勝った。

 錆びついた針が次の時間を刻んで、溜まりに溜まった埃を落として、盛大な反面、無慈悲に濁った鐘の音が鳴り響く。

 私は頷いていた。

 猿彦は誕生日プレゼントの包み紙を剥がす時の子供のような、見るも無邪気な顔をして言う。

「やっぱり……そうだった。そうだったんだ--」

 泣いているのかと思うくらい、猿彦は笑うと、突然、ぎゅっと、私を抱きしめた。

 まるで……そうだ。

 百年、氷の中に閉ざされていた私を、まさに今、解放して、再会に打ち震えるように--。

 動き出した刻の中で、互いの心臓の鼓動を確かめるように。

 代わりに砕けた氷は溶けて消え去り、もう見えない。

 それを寂しいと思うのに、なぜそう思うのかをーー私はもう、思い出すことができない。

 それが、哀しい、だけだった。

 代わりに別のものを埋めたくなった。

「俺も同じだよ。初めからこの世界で生きていこうなんて思っちゃいない。いつだってその機会を探している。できれば都合の良い事故なり何かが起きればいいといつも思っている……機会さえあれば……そう、今日これからだって構いやしない--千歳」

 猿彦は一度身体を離して、私の顔を見る。

 意図を察してなお、私は抗わない。

 早く埋めてほしいとさえ思った。

 私の肩を持ち、ふと気付いたときには、もう、彼の唇は、私の唇に宛てがわれていた。

 押し当てられていた。

 私のファーストキスは、そうしてきっと、失った何かの味がした。

 喪失と、代わりに埋まっていく別の何か。

 おまけにもう一押し、食むような動きを加えてから、猿彦は再度顔を離して続けた。

「--死のう。一緒に。俺らは、自殺志願者だ」

 汗の代わりに、涙が垂れて、下着に染み込んでいくのが分かった。

 一年前のあの日のように。

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