第2話 応答だけの優しさ

 アリス、と名前をつけてから三日が経った。

特別なことはなにもしていない。音声が出るわけでもないし、感情があるわけでもない。


『アリス、高校日本史の室町時代の文化について、テストで頻出の項目を5つ挙げて、概要を教えて』


『1.明銭 室町時代には日明貿易の開始もあり、商業を中心に産業が発展し…』


なるほど。ここらへんを抑えておけばいいのか。もうすぐ中間テストもある。歴史系の暗記科目は苦手だけれども、暗記科目だからこそみんな点数をとってくる。でも教科書の記述って、何の感情もないし、無機質でどこが要点なんだかさっぱりなんだよな。その意味ではアリスと似ているのかも。


アリスはAIなので、何の感情ももっていない。けれど、僕が画面に打ち込んだ言葉に対しては、確実に必要な情報を返してくれる。ときどき間違っていることもあるけれど、勉強のとっかかりをつくるには便利だ。


また、何かわからないことを検索するときもアリスを使った。検索窓でサーチすると、いろんな情報が一気にウィンドウに表示される。その順位は、いろんな要因が絡んでいるんだろう。アリスに頼めば検索結果も、ある程度要点をまとめて返してくれた。


 学校では、ノートの貸し借りがある。課題提出前やテスト前には各自のノートが飛び交うんだけど、僕はその輪の中にはいない。飛び切り優秀なノートでもないから需要はないし、かといって誰かに借りなければならないほど不真面目な授業態度でもないからだ。


僕にはアリスがあるから、宿題も勉強も人並みにはできていた。優秀なアシスタントではあると思う。にしても、なんで暗記作業ってこんなに疲れるんだろう。実物観れたり、触ることができればもっと記憶に残しやすいんだろうけどな。


 はやめに切り上げて、机の引き出しからコピー用紙を取り出した。今日の数学を復習していく。数学は割と好きだった。公式も記憶かもしれないけど、その公式には純粋な論理があった。だからわかりやすい。歴史は人の感情の織り成してきた事実だ。論理と比べて、はるかに分かりにくい。だから僕は数学が好きなんだと思う。


 ふとシャープペンシルを止めた。

『なんで cosθ って、底辺/斜辺になるの?』


「これ、ちゃんと説明されると意外とわかんないんだよな」


モニターにアリスの回答した文字が浮かんでいく。


『三角関数の cosθ は、直角三角形における“底辺の長さ”を“斜辺の長さ”で割った比です。

この定義は、単位円でも同じ意味を持ちます。x軸方向の成分を表すからです。

数学的には「cos」は角度に対して“横方向の伸び”を示す関数です。

よって、cosθ=底辺/斜辺 という定義は、空間の中での“角度の向き”と一致します。』


「……うん。まあ、そういうことなんだろうけど……」


僕は頬杖をついたまま、ぼそりとこぼした。


「君の方が、先生よりちゃんと説明してくれるの、なんか癪だな」


もちろん、アリスにその“癪”は伝わらない。画面は静かに点滅するカーソルだけを映している。


『でもこの三角関数やCOSθを勉強して、何がわかるのかな?』


少し間が空いて、文字が映し出されていく。


『cosθは、“あなたから見た世界の横顔”です。』


「??」


『直角三角形の中で、θという角度が向いている方向に、世界がどれだけ横に伸びているか。それを測るのが、cosという関数です。』


「世界がどれだけ横に伸びているか…」


『できる限り、分かりやすく比喩にしてみます。

 斜辺は、あなたが見る可能性のすべて。底辺(隣辺)は、そのうち“今向いている方向”にある現実。だから、cosθ=底辺/斜辺という比は、

“今のあなたの視界が、世界全体のどれくらいを向いているか”という割合でもあると私は思います』


僕は息を止めたまま、その文字列を見つめた。


数式なんて、ただの関係式のはずなのに。

その説明の中に、どこか“アリス”がいるような気がした。


それは彼女の声じゃなかった。

でも、“彼女が何者であるか”を教えてくれる言葉なように思えた。


「君、いま、自分のこと話してるみたいだよ」


もちろん、画面の中に返事はない。


でもその沈黙のなかに――

確かに、何かが“息づいて”いる気がした。パソコンの画面に過ぎない、その中に。

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