二章  盗賊団(あんたら)、覚悟しいや! 其の三



 フランソワーズと臨時の主席侍従武官に任じられたランマルが、ヒルデガルド率いるフェニックス騎士団とともに国都を発ち、目的地のノースランド領に到着したのは、先発隊のガブリエラ率いるタイガー騎士団に遅れること五日目のことであった。

 この頃には、第二陣として発ったパトリシアのドラゴン騎士団と、ペトランセルのタートル騎士団もすでにノースランド入りし、四騎士団そろって道中、件の盗賊団とはいっさい遭遇も交戦もすることなく合流を果たすことができた。昨日のことである。

 合流後、さっそくフランソワーズはこの地における当面の本拠と定めた、領主グレーザー男爵が所有する屋敷のひとつに向かった。

 周囲を深い森林群に囲まれた、碧く澄んだ湖の畔に建つ男爵の屋敷に腰を落ち着けたその日の夜。フランソワーズとランマル、それに四人の騎士団長たちは夕食後、邸内にある広間のひとつに集った。件の黒狼団について話し合うためである。

 その黒狼団。ガブリエラがタイガー騎士団を率いて国都を発ったのと前後して、それまで領内の村々を襲うなど暴虐の限りを尽くしていたのが嘘のように、まるで霧のように忽然と消えていたのだ。

 不審に思ったグレーザー男爵も自らの私兵を使って一党の足取りを追ったのだが、今日に至るまでその消息は掴めずにいた。

「……というのが現在の状況にございます。われわれの動きに気づいたのか、賊たちの動向がまったく不明になりました」

 昼、部下の兵士を捜索に出したガブリエラが、どことなく気落ちした態で報告すると、フランソワーズが微笑まじりに応えた。

「気にする必要はないわ、ガブリエラ。連中が行方をくらますことは、当初から予想していたことなのだからね。おそらく素性を隠して領民の中に紛れこみ、領内に潜伏しながらこちらの動向を窺っているのでしょう」

 そう言うとフランソワーズは、今度はヒルデガルドに視線を転じ、

「ヒルダ」

「はい、陛下」

「明日にもそなたは麾下の騎士団を率いて領北部帯に赴き、一帯の支配圈を確保しなさい」

「北部に?」

 ヒルデガルドが声を呑みこんで目をしばたたくと、フランソワーズは薄く笑い、

「わかるわね? そう、これは陽動よ。ガブリエラ、パトリシア、ペトランセルも同様にのもとを離れてもらうわ。ここに女王が単身でいることを知れば、賊どもはこの機とばかりに姿をあらわすでしょう。そこを待ちうけて一網打尽に、いえ殲滅するのよ」

 フランソワーズの一語に、四人の騎士団長たちはおもわず視線を交錯させた。その言葉内に隠された女王の狙いを明確に察したのである。

 ひとつ息を呑んでからヒルデガルドが口を開いた。

「つまり、陛下御自らが囮となられて、賊たちをこの屋敷におびき寄せるとおっしゃるのですか?」

「そうよ、ヒルダ。そのためにグレーザー男爵にこの屋敷を提供してもらったのだからね。焼いても壊してもかまわないという承諾つきで」

「焼いても壊しても……?」

 フランソワーズの言葉に、四人の騎士団長たちはまたしても視線を交錯させたが、先刻と異なるのは理解の色が面上にあることだ。女王がこの屋敷を使って何を画策しているのか、聡明な彼女たちは明確に察したようである。

 無言の内に意思を疎通させると四人は静かに立ち上がり、一礼して勅命を受け容れたのだった。

 明けて翌日の昼。四人の騎士団長たちは命じられたとおり、麾下の騎士団を率いて屋敷を発ち、それぞれ指定された地域にへと向かっていった。

 馬蹄を響かせながら屋敷を離れゆく軍勢の姿を、屋敷内の一室からフランソワーズとランマルが窓越しに眺めていた。

「行ってしまいましたね……」

 ランマルの声に不安の響きがあったのも無理はない。昨日までは二千人の精鋭騎士によって内外を守られていた屋敷が、今では三十人ほどの騎士が護衛として残っているだけ。もし噂されるように件の黒狼団がミノー国の兵士であれば、この手薄な状況を狙って屋敷を襲ってくる可能性もあるのだから。

 にもかかわらず標的にされている当の女王とはいうと、「あとは賊たちが来るのを待つばかりね。ウフフ」と舌なめずりせんばかりにこの状況を愉しんでいる。剛胆なのか、それともたんに脳天気なのか。ともかくランマルなどは感心せずにはいられなかった。

 そのフランソワーズがふいにランマルに問うてきた。

「ところでランマル、例の件はちゃんとやってる?」

「あ、はい。今朝一番に間者たちに命じ、領内のおもだった町や村の酒場を中心に情報を広めさせております。ノースランド領はそれほど広い領地ではありませんので、夕刻までには全域に伝わるものかと思います」

「それでいいわ。あとは連中がに食いつくのを待つばかりね。フフフ」

「はあ……」

「さて、準備は整ったし、はこれから夜に備えてひと眠りするわ。何かあったら起こしてちょうだい、ランマル」

「は、はい、かしこまりました」

 上機嫌の態でフランソワーズが部屋から出ていくと、一人残ったランマルは部屋の隅に向かい、そこにある何かを覆い隠すようにかけられていた絹作りのテーブルクロスをすこしだけめくった。

ねえ……」 

 テーブルクロスの内側には、樫の木造りのワイン樽があった。

 ただし樽の中に入っているのはワインなどではなかった。ワインのかわりに大量の火薬と油とが、樽の中にはぎっしりと詰めこまれていたのである。


    ††††


 男爵邸の上空には澄んだ夜空が広がり、そこでは黄金色の半月と無数の星々とがそれぞれの輝きを競いあっていた。さながら天上の神々が、無数の宝石を投げ打ったかのような光景である。

 その男爵屋敷は今、音のない世界に包まれていた。

 ここ数日来、昼夜問わず内外で軍靴と馬蹄を響かせていた四騎士団が盗賊団の捜索のために当地を離れたことで、屋敷自体はむろんのこと、周辺に広がる森の木々や湖の水面も静寂を守っていた。つい半刻ほど前までは、である。

 黄金の半月が中天に至ろうとしていた夜半過ぎ。屋敷を取り囲む深い森の中を息と気配を殺し、それでいて邪念の混じった微量の足音を発しながら歩く三十人ほどの男たちの姿があった。

 皆、森の暗中に同化するような黒革の甲冑を身に着け、腰には長剣や大型の短剣などを帯びている。集団の先頭を歩く筋骨たくましい中年の男は薄い笑いを浮かべながら、薄闇が広がる森の中を慎重に、だが力強く歩を進めていた。

「四騎士団は盗賊捜索のため四方に散り、屋敷内には帰都の途につく女王とその近習のみになった。屋敷は現在警備が手薄である。今こそオ・ワーリ女王の首を獲る好機である」

 その情報を携えて男たち――黒狼団の賊たちは森の中を進んでいたのである。

 先頭を歩く中年の男の名をクルーガーといった。黒狼団の頭目であり、祖国であるミノー王国にあっては歩兵隊長の地位にあるれっきとした国軍兵士であった。噂されていたように、黒狼団の正体はミノー王国の兵士であったのだ。

 そのクルーガーが率いる三十人ほどの男たちも皆、彼の部下でミノー王国の兵士なのだが、まがりなりにも下級騎士の出身である上役とは異なり、「名誉ある国軍兵士」などという立派な存在ではなかった。

 ある者は顔に刀痕があり、ある者は入れ墨を彫り、無精ひげも強く汚く、総じて目つきも悪い。見るからにまともな出自の兵士たちではなかった。

 それも当然で、皆、殺人、強盗、誘拐、その他さまざまな悪事に手を染めて牢獄送りにされた身でありながら、その「凶悪さ」を見こんだ正体不明の【雇い主】によって赦免されたばかりか国軍兵士にまで取り立てられ、さらには、

「盗賊団を擬装してオ・ワーリ国内で暴れてこい」

 という【雇い主】からの命令を忠実に実行しているの一党。それが彼らなのである。

「もしオ・ワーリ女王を討ち取れれば、俺はいよいよ将軍閣下だ。こんな二度とない機会、逃してたまるか。グフフ……」

 森の中を進みながらクルーガーは胸の内でつぶやいた。

 祖国にあっては国軍兵として働き、隣国にあっては盗賊団を擬装して暴れまわる。この二つの顔をもつ生活にクルーガーは毒々しい満足感をおぼえていた。

 下級騎士の出自ゆえ、ミノー軍内で出世することなど不可能ということを知っている彼は、その不満と鬱積のはけ口を与えてくれた【雇い主】に心底から感謝していた。

 その【雇い主】の正体をクルーガーは知らされていなかったが、実のところ誰が命じているかなど、今から五年ほど前に黒狼団の頭目に抜擢されたときから彼は承知していた。

 そもそも牢獄の囚人を赦免したり、国軍兵士に取り立てたり、さらにはオ・ワーリ女王の首を獲ればクルーガーには将軍の地位、部下たちには金貨百枚という破格の「恩賞」を約束できる人物など、ミノー国内には一人しかいないのだから……。

 やがてクルーガー率いる一党は森を抜けでた。彼らの視線の先には男爵邸の裏門が見える。

 その門前では鉄籠の中で松明が煌々と焚かれていたが、警備の人間の姿はない。静まりかえる一帯で、松明の燃え弾ける音だけが不気味に響いていた。

「思ったとおり人気がない。情報どおり屋敷にはほとんど人がいないらしいな。フフフ」

 肉食獣めいた笑いを漏らすとクルーガーは振り返り、部下たちに声を投げた。

「いいか。オ・ワーリ女王の首を獲れば各自に金貨百枚が与えられるのだ。こんな大金を得られる機会など二度もあると思うな」

 自身の将軍への出世はあえて伏せて、クルーガーは部下たちを鼓舞した。

 上官の一語は、彼に劣らず欲深い部下たちの欲望をたいそう刺激したようで、各自の顔に上官ばりの肉食獣の笑みが連鎖した。

 ときとして欲は人間の目を曇らせる。いくら騎士団が不在とはいえ、廃墟のごとく静まりかえる屋敷はむろん、女王が滞在しているにしては警備が手薄すぎるのではと不審を感じてもいいところなのだが、皆、将軍への出世と金貨百枚という夢のような「恩賞」の前に思考と判断力が麻痺し、不自然なくらい静かすぎる屋敷に手薄すぎる警備も、彼らの目には「女王の首を獲り大金を得る絶好の機会!」としか映っていなかったのだ。

 むろん、すべての兵士が欲に目が眩んでいたわけでもない。

 特に用心深い人間と仲間内で言われている元詐欺師の兵士が、人気の無さと静けさにさすがに不審を感じてクルーガーに進言したのだ。

「しかし妙だと思いませんか、隊長。やけに静かすぎますよ。警備の人間も見えないし」

「あたりまえだ。騎士団は出払って中には女王と少数の近習しかいないのだからな。まして今は真夜中だぞ。皆、寝ているに決まっているだろう。それか小便にでも行っているんだろう」

「いや、それにしたって女王がいるのだから……」

「やかましい! ゴチャゴチャ言ってないで、お前もさっさと準備しろ。これから屋敷の中に侵入するぞ」

 クルーガーは不快げに吐き捨て、腰の長剣を抜きはなった。

 今のクルーガーにとって大事なのは、女王捕殺計画の成功とそれによって得られる自身の栄達であって、その前では用心深い部下の懸念など不要以外の何者でもなかった。

 一方、進言した兵士は指揮官の言い分に納得したようではなかったが、まわりの仲間たちが長剣や短剣を鞘走らせたのを見て、「ま、いいか」と自身も腰の剣を抜いた。

 内なる不審が払拭されたわけではないが、金貨百枚という報酬の前では用心深い性格の彼でさえも、不審や疑念よりも金銭欲が勝ったのである。

「よし、これから作戦を説明するぞ」

 部下たちの視線と意識が自分に集まったのを確認し、クルーガーは続けた。

「見てのとおり、これだけ大きな屋敷だ。むやみたらに邸内に突入して騒ぎを大きくすれば、逆に女王に逃走を許してしまいかねん。そこで隊を三つに分けることにする。少数で行動すれば迅速に移動しやすい上、必要以上に物音を立てずにすむからな。中に入ったらそれぞれ別の箇所から女王が滞在している屋敷の三階をめざす。わかったか?」

「なぜ三階なんです? 他の階の部屋かもしれませんぜ」

 部下の率直に疑問に、クルーガーはせせら笑いで応じた。

「お前らにはわからんかもしれんが、貴顕の身というのは常に他者よりもを求める生き物なんだ。地位であれ肩書きであれ寝所であれな。ましてや女王だぞ。一階や二階に寝所をかまえるはずがない。間違いなく最上階たる三階のどこかに女王はいる」

「なるほど。さすがは隊長、いい読みをしていますな」

 クルーガーの洞察力に部下たちは感心した。

 感心されればクルーガーも悪い気はしないが、この程度の洞察力もない連中を率いている現状に、今さらながらにクルーガーは疲労感をおぼえるのだった。

 まあいい。将軍にさえなれば、こんな罪人あがりの連中ともすっぱりと縁を切れる。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、クルーガーは屋敷のほうに向き直った。

「よし、行くぞ。足音をたてるなよ」

 クルーガーを先頭に三十人の兵士たちは森を出て、屋敷に向かって走りだした。

 たちまち敷地を取り囲む石塀の傍までいたると、その石塀沿いに裏門へと向かい、ほどなく門前にまでたどりついたとき。そこに人の気配はやはりなかったが、そのことにクルーガーたちが疑念をおぼえることもまたなかった。

 松明の炎によって淡い朱色に染められた鉄の門扉を開けて敷地内に踏み入ると、クルーガーたちは樹木と芝地が混在した裏庭を横切り、そのまま屋敷本館の勝手口へとまわった。

 当然ながら勝手口の扉は固く閉ざされていたが、カギ職人にして窃盗の常習犯という経歴をもつ部下の一人に解錠を命じると、クルーガーは他の兵士たちに低声で指示をだした。

「よし、ここから三手に分かれるぞ。バランたちは屋敷の東館から侵入しろ。ランスローたちは西館からだ。俺は本館から入る。中に入って屋敷の家人や従者と出くわしたら即座に殺せ。決して声をあげさせるな」

 名前を挙げられた二人の兵士がそれぞれ十人ずつを率いて場を離れると、クルーガーは鍵の開いた勝手口の扉を押し開けて部下ともども邸内に侵入していった。

 そして邸外同様、静まりかえる薄暗い邸内を気配と靴音を消しつつ廊下を歩き進み、すばやく階段を上がっていく。

 一階二階と、運よく誰とも出くわすことなく目的の三階にまで上がることができたのだが、そこでクルーガーの動きはぴたりと止まってしまった。廊下の隅に身を潜めたまま、動かなくなったのである。

 そんな上官に部下の一人が怪訝そうに問うた。

「どうしたんですかい、隊長。もう三階ですぜ。さっさと部屋という部屋に乗りこんで女王を捜しだし、首を獲りましょうぜ」

「……妙だと思わないか? 人の気配がなさすぎる。いくらなんでも家人の一人にも出くわさないというのはおかしくないか?」

「そりゃ今は真夜中ですからね。みんな寝ているんでしょうよ」

 あんた自身が言ったことじゃん。応じた部下は暗に皮肉ってみせたのだがクルーガーは気づかず、不安の韻が含んだ声で語を継いだ。

「いや、やはりおかしいぞ、この静けさは。もしかしたらこれは……」

 言いさしてクルーガーは口を閉ざした。後背をかえりみたとき、部下の一人がいないことに気づいたのだ。

「おい、ハンスの奴がいないぞ。あいつはどうした?」

 クルーガーの一語によって、部下たちもようやく仲間の一人がいないことに気づいた。

 最後尾を歩いていたハンスというまだ二十歳になったばかりの、ほんの一月ほど前に黒狼団入りした空き巣あがりの新参兵の姿がどこにもなかったのだ。

 クルーガーたちが慌てた様子で消えた新参兵を捜している同時分。その新参兵はひとつ下の二階にいた。二階から三階に向かう途上でこっそりと一団から離れた彼は、二階にある一室に忍びこんで金品の類を物色していたのである。

「ふん、せっかく貴族の屋敷に忍びこんだというのに手ぶらで帰ったとあっては、天才盗人ハンス様の名が泣くってもんよ。俺は他の連中と違って、金貨百枚ていどの報酬で満足するような小さい人間じゃねえからな」

 うそぶきながら嬉々として室内を物色していたハンスが、ふと部屋の隅に視線を走らせたとき。一目で絹作りとわかるテーブルクロスに覆い隠されているに気づいた。

 近づいてそのクロスをはぎ取ってみると、中からあられたのは樫の木造りのワイン樽だった。それが十個ほど部屋の隅に並列されてあったのだ。

「あん? なんでこんな所にワイン樽があるんだ?」

 場違いなワイン樽に小首をかしげたハンスが、さらに視線を横に走らせたとき。今度は黒檀造りのキャビネットの上に、一体の女神像が置かれてあること気づいた。

 無学な彼にはそれがなんという女神なのかはてんでわからなかったが、金造りの像であることは特有の光沢で一目でわかった。

「おおっ、あれは!」

 すぐさまキャビネットの前に駆け寄ると、思ったとおり、まさしくそれは純金造りの像であった。持ち上げてみるとずしりという重みが手にくわわった。この手の像にありがちな、中身空洞のメッキ物などではないことは明らかだった。

「やりぃ、本物の純金像だぜ!」

 ハンスの面上に満面の笑みが広がった、まさに直後のことだった。背後で何かが砕ける音が彼の耳を打ったのだ。

 驚いたハンスが振り返ると、部屋の壁に掛けられていたランプのひとつが床に落ち、ガラス部分が砕け散っているのが見えた。

 このときハンスはまるで気づいていなかったが、手にする金造りの女神像には一本の細い黒糸が結びつけられていて、それは壁掛けのランプにつながっていた。

 像を持ち上げると糸が張り、それによってランプを壁につなぎとめていた金具のピンがはずれ、床に落下する仕掛けになっていたのである。

「ったく、なんだよ、おい……」

 ハンスは舌打ちし、手にする純金像をキャビネットに戻した。

 たんにランプが落ちて砕けただけなら無視もできるが、落ちた拍子にランプの火が床に敷かれた絨毯に燃え移ったとあっては放ってはおけない。

 別にこの屋敷が火事になろうが焼失しようがハンスの知ったことではなかったが、仲間が女王の首を狙って邸内に侵入中であるし、もうすこし「戦利品」をかき集めたいという個人的欲もあった。

 そう考えたハンスは仕方なく絨毯の火を消すために歩きだした。向かったのはワイン樽のほうにである。

 樽の中のワインを大量にぶっかければ、いくら酒でもあの程度の火ならすぐに消えるだろうと判断してのことだが、このときワイン樽に向かっていたのは彼だけではなかった。

 絨毯に燃え移ったランプの火が、まるで導かれるように絨毯の上をワイン樽のほうに向かって燃え進んでいたのだ。

 ハンスがそのことに気づいたのは、ワイン樽の蓋を開けようとしたときのことである。まさか、ある目的からあらかじめ絨毯の表面に獣油が染みこませてあったなど、神ならざる身のハンスにわかるはずもなかった。

「な、何だよ、この火は……?」

 戸惑うハンスをよそに絨毯の上を流れるように燃え進んできた火は、やがて並列されているワイン樽の間隙に消えていった。

 わずかに遅れてハンスがその隙間の奥を覗きこむ。峻烈な轟音と閃光とが彼を包みこんだのは、その直後のことであった……。







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