冬の要

 

 眩しすぎる春の日差しに、あなたが目を覚ます。

 まだ慣れない目を瞬きで馴染ませる様子に、胸の中心がきゅっと疼くのを感じる。

  

 目の前にあなたの顔。

 ほころんだ柔らかいそのまなざし。

「おはよう、きょうちゃん」

 あなたの存在をまた確かめるように、まだ眠そうに蕩けた瞳に問いかけた。

「おはよう、春」

 掠れ気味に囁くその声が、朝日に照らされても幸せが消え去らないことを私に強く実感させる。





 そこら中に広がる甘い空気に包まれた次の朝。

 私は言った。ずっと、あなたのことだけを想って生きてきたのだと。


 いろんな話をした。離れていた時間をかけ足で取り戻すように。その距離を愛情で埋めるように。


 親のこと。仕事のこと。

 もう籍を抜いていること。

 あなたを忘れようと思ったこと。

 ずっと、謝りたかったこと。


 今もまだ、あなたを想っていること。


 今まで言いたかったそのすべてをすくいあげ、ひとつたりとも漏れがないように、言葉足らずにならないように、ごめんなさいと謝りながら。


 あなたは私の言葉ひとつひとつに頷いて。


「好きだよ、春」


 と、私が謝るたび、それしか言いはしなかった。

 

 十四年間、それしか言いたいことがなかったのだと、そう言って笑いながら泣いていた。

 


「これ、昨日びっくりした…」

「あ……」

「まだ待っててくれたんだ」

 あなたが私の耳たぶにそっと触れて、私はそれを付けたままだったと気づかされた。

 ──夕食のときに言いかけてたのって、それだったんだ。

「また開けたんだ?ピアス」

「んーん、あけてない」

「え、だって」

「きょうちゃんがあけてくれたやつ。ほんとはずっと大事にしてたの…」

 やっと言えた。ずっと言いたかった。

「ほら、こっちは開けてない」

 髪をのけて左耳を見せる。私はあなたしかいらないと、そう伝えるように。

「…春……」

「ずっと、きょうちゃんだけだったから」

 私が微笑んで。あなたが泣いて。それを見て私も泣いて。次はあなたがそれに笑って。


 繰り返される甘い朝。もう二人の間には、そよ風すらも通る隙はなかった──。




    *********




 再び想いを重ね合った私たちは、空白の時間を埋めるようにあのころを追いかけた。笑ったり怒ったり、泣いたりしながら。

 気持ちをたしかめ合って、あなたと一緒に暮らして。何度も季節を入れ替えて、またストーリーを転がして。


 そんなふうにやさしい光に満ちた日々を過ごしていても、たまにあなたの瞳が曇る日もある。

 今回もそう。なにに悩んでいるのかわからないけれど、遠い目を浮かべてぼーっとして。最初はあたたかい季節にぼんやりしているだけかと思ったけれど、夕飯に卵の殻が大量発生したところで、なにかあるんだろうなと勘づいていた。でも無理やり聞き出すのもどうかと思い、私はあなたから話してくれるまで問い詰めることはしなかった。


 数日経ってやっと話す気になったようで、あなたはとぼとぼ帰ってくると捨てられてた子犬のような顔をしてポツポツと語り出した──本当は、あなたの相談相手の深白から大体のことは聞いていたのだけれど。

 

「あの、春はさ…」

「うん?」

「私が同性なのって、どう…思ってる?」

「……ん?」

「いやだから、なんといいますか…」

 

 もたついたあなたの長い話を要約すると、幸せを感じれば感じるほど、それを私にも返せているのか、私を幸せにできるのか不安でたまらない。一度結婚をしている私の横にいるのが、本当に自分でいいのかわからない。同性の自分が隣にいることで、私が傷つけられるかもしれない──簡潔にまとめるとこんなところ。


「───と、いうわけなんですけど…」

「だから最近、そんな顔ばっかしてたの?」

「いや、あの、まあ……はい…」

「どっちでもいいよ」

「……はい?」

 その言葉の意味がわからないようで、あなたは首をかしげた。

「きょうちゃんが女でも男でも、どっちでもいい」

「……そうなの?」

「きょうちゃんは私が男だったらやなの?」

「やじゃないけど」

 眼をきょろっと上にしてクスッと笑ったところを見ると、きっと変な想像でもしているご様子。

「それと一緒。関係ないの、そんなの。きょうちゃんだからってだけ」

「……ありがとう、ございます…?」

「そんなことで最近ずっと卵の殻入り込んでたわけ?」

「あー……だから今日春が作るって言いだしたの?」

「うん、だめ?」

「だめじゃないけど…春の料理は……」

「もうっ!」

 私はあなたの手をぺちぺちと叩いてやった。私の料理が美味しくないのは、自分だってわかっているのだから、なにも言わなくてもいいのに。それを受けても幸せそうな顔をしているあなたを見て、やっぱり好きだな。そう思った。


「いたた…春、いたいって」

「うれしそうな顔してるくせに」

「あ、ばれた?」

「もうっ……結婚できなくても、私はきょうちゃんがいい」

「…春──…」

 あなたが私にゆっくりと近づいて距離を縮める。

 でもごめんきょうちゃん、今は──。

「すればいいじゃない?」

「よよよよ、よう?!」

 そう、来てるの。あなたのお母さん。


「なにしてっ、てか、くるなっていってんだろ?!」

「あんたに会いにきたんじゃないわよ、春とこのあとお酒飲むの!」

「もう飲んでんじゃん…てか春って呼ぶな、あと勝手に誘うな」

「きょうちゃん、誘ったの私」

「ねーっ、春ーっ」

 今や私は、あなたよりもあなたのお母さんと仲良くなっていた。頻繁に連絡を取っては、よくあなたの愚痴のろけを聞いてもらっている。あなたは頭を抱えながら、要も結も春に絡むなって、よく言っているけれど。


「結婚したらいいのよ、そんなのは」

「ばか、結婚できねの」

「式あげちゃえばいいのよ、戸籍がどうだってそんなの後からついてくるんだから」

「あのねぇ…」

「私だって女とあげたわよ?結産む前に。家にあったでしょ、ドレスの写真」

「ドレ、ス……あ、あれ?!…ッウ、ゲホッ」

 つまみに、と勝手に冷蔵庫からチーズを取り出すあなたのお母さんのその発言に思いあたる節があったのか、あなたは豪快に咳込んだ。

「あれ父親とじゃないの?!!」

「ちがうわよ」

「だって"一人目の奴"って言ったじゃん!!」

「だから、冬なんじゃない。あんたばか?」

「冬って、誰──え…?…まじ?」

「あれ、きょうちゃんまだ聞いてなかったの?」

「……なんで春は知ってるわけ…」



 そう。私の母の学生時代の恋人。それがあなたのお母さん。

 前に母の口から"ようちゃん"という名前を聞いていたから、その話をあなたのお母さんが教えてくれたときはあまり驚かなかったけれど、こんな運命みたいな話が本当にあるんだなと、表現しきれない気持ちが込み上げた。

 もちろん私の母もまた、私のように敷かれたレールのうえを行くことになっていたから、もともと"学生の間だけ"と二人で決めていたそうだけれど。

「まあ?冬が思ったよりも私にぞっこんだったから、あの写真があるんだけどねぇ」

 母にもそんな一面があるのかと、なんだか少しむず痒くなった。




 それから数日後、インターホンを鳴らしたのはまたあなたのお母さん──その横には母の姿。

 向こうにいた母を電話ひとつで急に呼び出したそうで、部屋にあがるなり、このふたり結婚させていい?とドストレートに言うものだから、私もあなたもすっかりお手上げ状態だった。娘さんをください、って。そんな感じなんだろうけど、映画やドラマとはひと味違うやり口に、さすがあなたのお母さんだなと私はしみじみ感じていた。

「……ようちゃん…急に電話してきて…今までどこいってたのよ…」

 と、母が呆れかえっていたところを見ると、きっとあなたのお母さんは何かやらかしていたのだろう──私のように。

「春ちゃんもいるし…ようちゃん、ちゃんと説明して」

「だからさあ!」

 あなたのお母さんのデタラメな説明。それじゃわかりっこないとあなたは言っていたけれど、母は慣れたものなのか、わりとすんなり理解していた。



    *********



 そして私は、気づけば母と二人で客間に閉じ込められた。あなたと、あなたのお母さんによって。これを機に話せと、そう言われたのだ。


 今の私にはきょうちゃんがいる。

 あなたが私の人生を変えてくれたから、だから、母にすべて打ち明けるのも、もう怖くはなかった。


 私は今までの思いの丈をすべて母に吐き出した。

 姉のことに名前のこと。仕事や、結婚のこと。


 それから、きょうちゃんのことも。


「春ちゃん…ごめんなさい、そうだったのね…」

「ううん、私こそ言えなくてごめんお母さん」

「少し長くなるけど……あなたの名前のこと、話すわね」


 私は唾をごくりとのみ込んだ。

 大丈夫。どんなことを言われても、私にはあなたがついているんだから。


「まずひとつ訂正すると、あなたの姉は"はる"じゃないわ」

「……え?」

「読み仮名まで読まなかったのね…ごめんなさい。あなたの姉は"しゅん"。科木しなき しゅん


 長年の思い込みに、私は開いた口を塞ぐこともできなかった。たしかにあのとき、あまりの衝撃にそこまでの確認はしていなかった。母の言っていることは事実だろう。それがわかると、今までの重荷が半分にはなってくれた。


 でも、それでも──。


「お姉ちゃんの名前を付けたのはお父さん。冬の娘で三月生まれだから"春"の字を使おうって」

「……」

「だけど…同じようなことを言った人がもう一人いたの」

「…もう一人?」

「ええ。そこで聞き耳立ててる人…ようちゃん、聞いたらだめよ!」

 ──やば、ばれた!頃、にげよ!

 そんな声が聞こえて、重い話の最中なのに私は少し笑いそうになってしまった。

「もう知ってると思うから言うけれど、当時私たちは恋仲で…悲しくなるから将来の話はあまりしなかった。でも一度だけ、子どもが生まれたらって、そんな話をしたことがあったの」

「……」

 私は黙って母の話に耳を傾けた。

「そのときあの人言ったの。──ハルだね。冬はあったかいのに冷たい名前だから、生まれる子はハルみたいなあったかい名前がいい──って」

「……あったかい名前…」

「どんな字がいいかまでは深く話さなかったけれど……私は心のどこかでずっとそれが忘れられなかった……本当に身勝手な話で、あなたには何の関係もないのに」

 母は切ない表情を浮かべながら何かを必死に堪えるように下唇を噛んで、それでも話しを続けてくれた。


「あなたのお姉ちゃんはものすごく未熟児だったの。予定日より何日も前に出てきてしまった。だから身体が弱くて、なかなか病院からも出てこれなくて。生まれて一年目に、ね…」

「しゅんちゃんが亡くなって、私は塞ぎ込んでいたけれど、そんなときにあなたは私のところにきてくれた」

「嬉しくて、自分で名前をあげたいって、おばあちゃんとあなたのお父さんとずいぶん喧嘩したわ…でも、私は譲れなかったの」

「どうしても、ハルをあなたにあげたくて。字はね、"陽"と"桜"で迷っていたの。あなたの顔を見てから決めようと思っててね?」

「でも分娩室であなたに会ったとき、そのあたたかい笑顔が、まるで新しい季節の日差しに喜ぶ芽生えのようだと思った」

「陽も桜も、そのすべてを纏った、春──その字が頭に浮かんできた。でも……そう思っていたとき、急にあの人きたのよ、病院に」

「しゅんちゃんのときはこなかったくせに。ようちゃんっていつも勝手にいなくなるから、そのときもどこにいってたのかわからなかったんだけどね?なにも言わずに、急にきたの」

「それで、あなたを見て言ったわ。名前は?って」

「私はまだ決めてないって答えた。そしたらあの人こういったの」


 ──うーん。きょうみたいな子だね。

 ──きょう?

 ──うん、外めっちゃあったかいから──…春。

 ──え?

 ──季節の春。そんな顔してる。


「私は胸が熱くなった。あなたにあげたかったその名前を、その字を、あの人が口にしたから。だから、心が決まったの。亡くなった子の漢字を使うなんてって、おばあちゃんに怒られてあなたのお父さんと喧嘩して…」



「それでも、私はあなたをはるだと思った。」



「でもそれがあなたの重荷になっていたなんて…私は母親失格ね…」

「お母さん……」

 私は母の話を聞いて涙がこぼれていた。

 きっと私が母の代に生まれていたら、同じことをしていた。そう思ったからだろう。

「本当にごめんなさい。私の身勝手な思いであなたを苦しめて」

「……私こそ、ごめんなさい」

「ううん。あなたは悪くない。私はあなたに、自分と同じ思いはさせない。だから、おばあちゃんのことも仕事のことも気にしなくていい。あなたが心に決めた人と一緒に笑っていきなさい。その春の日差しのような笑顔で、ね?」

 頬を伝う涙が、ぽたぽたと床に落ちていく。

 母はいつのときも私を想ってくれていたのに、私は今までなんて独りよがりだったのだろう。

「でもまさか、ようちゃんも同じ年の子を産んでるなんて…あなたたちが恋仲なのもびっくりだわ…」

 そう言って、母は少しはにかみがちに幸せそうな笑顔を見せた。


 それは、初めて見る顔だった。



 母が居て、あなたのお母さんがいて。

 私が居て、あなたがいる。


 この不思議なめぐり合わせは、きっと星まわり──。



    *********



「ということで、いい?結婚させちゃっても」

「ようちゃん、結婚と式は別だってば……」

「同じようなもんでしょ」

「病気とか、相続とか…いろいろあるの…」

「でも愛してるってことは同じでしょ。だから私、冬と挙げたんだし」

「……もうっ、娘の前で…」

「照れてんの?変んないねぇー冬は」

 キッチンの奥から聞こえるその会話。私たちとはパワーバランスがまるで逆な母たちのそれに、私もあなたも少し気まずい思いを抱いていたとき、それに気づいたのか母がリビングに顔を出した。

「今度こそ、春ちゃんの好きなようにしてね。会社はどうにでもできるから。あ、あときょうちゃん?ようちゃんみたいになったらだめよ?」

 そう母がいたずらに笑って、あなたは当たり前といわんばかりに深く頷いた。



 ──そういえばお母さんが来てからずいぶん無口だけれど、もしかしてあなた、人見知りしてる?



「きょうちゃん」

「ん?」

「もしかして、人見知りしてる?」

「んん?んーん」

 首を横に振っても、その文字でしかしゃべれなくなったあなたはそれを認めているようなもので。それがどうしようもなくかわいくて、私は母がいることも忘れまたあなたに夢中になってしまう。


「ねえ」

「ん?」

「式、あげちゃおっか」

 ほんの少し上目遣いで、そう問いかけた。

「……まじ?」

「いやなの?」

 そうじゃないとわかってて、いじわるをあげた。

「いやとかじゃ…」

 それからあなたに、もう一押し。

「だめ?」

「………」



 ──……だめじゃない。



 あなたが仕方ないなとそう言って。私がそれに微笑んで。横で母たちが"逆ね"と笑い合い、それを聞いたあなたが首筋を掻いた。










 そうして、あなたと過ごす何度目かの春。


 私とあなたは、白く包まれようとしている──。

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