第2話 砂原さんの秘密

「集中してないわけじゃないの。集中してもできないの!しょうがないでしょ」


 麻衣は憤慨した声をあげた。もちろん、砂原さんの前でそう反論する勇気はない。お昼休み、気安く愚痴をこぼしあえる同期とのランチの席である。


「それ、そんなにえばって言うこと?」


 同期の絵里香が、パスタをフォークに巻きつける手をとめ、呆れたような声を出した。

ここは最近オープンしたイタリア料理店。会社からは少しあるのだが、今日は、少しでも会社から離れて、少しでも心の晴れる美味しいものを食べたい気分だった。


「そうだけどさ。それにしたって…。新人なんだから大目に見てくれとは言わないけどさあ。もうちょっと…世の中には、オブラートってものだってあるんだよ?包んでくれても良くない?中の苦い薬が直撃してるんだけど。そこまではっきり言わなくてもよくない?私だからいいけど、人によっては辞めちゃうよ?わかってる?今日本は人手不足なんだからね?新人をいかに定着させるかって、どこの会社でも必死なんだからね?」


「砂原さんは怖いからねえ」


 絵里香は砂原さんと一緒に仕事をしたことはないはずだが、当然のようにそう答える。


 経理部の砂原さん、と言えば社内ではちょっとした有名人なのである。なぜ有名なのか。理由は不明。別に何か過去にやらかしたというわけではなさそうだが。


「そうなの。砂原さんは怖いの」


 麻衣はため息をつき、自分のクリームパスタを口に運んだ。本当は、絵里香の食べているエビとかアサリとかのいっぱい入ったパスタにしたかったのだが、トマトソースなので諦めた。神聖な勤務の最中に赤いシミが点々とついた制服で仕事をするようなみっともない真似を晒すことのないように、ちゃんとホワイトソースを選ぶくらいの危機管理能力はあるのだ。仕事に対してそれくらい真剣には取り組んでいるのだ。集中してないとか、やる気がないとか簡単に言って欲しくない。


 昔から、パスタを食べると必ずと言っていいほど、服に飛ばしてしまう人間だった。それも、汚してもいいような部屋着の時や、きちんとエプロンをつけた時には飛ばさず、気をつけるから大丈夫と油断したよそゆきの服を来た時や、きちんとした場で人と会っている時に限って飛ばしてしまうのだ。太陽のように真っ赤なトマトソースを。トマトと唐辛子の染色力というのはどうしてあんなにすごいのだろう。その場ですぐに洗ったとしても、あの鮮やかな赤は絶対に落ちない。


 だから、ホワイトソース。だが、トマトに比べて目立ちにくいとは言っても、シミのついた仕事着で午後ずっと仕事をするのは、立派な大人としていだだけない。万が一にもソースを服に飛ばすことのないよう、気をつけて、気をつけてパスタを口に運んでいる。


 一方で、目の前の絵里香はそんなことを気にする様子もなく、食べたいように食べているのに、服もテーブルもきれいなまま。これは一つの才能だろうか。いや、こっちが普通で、自分の方に欠陥があるのか。がっくりきた。


「だけどさあ、仕方ないじゃん。人には向き不向きってものがあるのよ」


本当に。


「大体、私が経理なんて無茶なんだって。数学が嫌だから大学だって私立行ったんだし。自慢じゃないけど、家計簿だって一度もつけたことないし」


「私もない」


「だよね。家計簿ちゃんとつける人なんて、そんなにいないよね、今どき。カードの明細で大体わかるしさあ」


「まあ、私も麻衣も経理向きじゃないかもね」


「ないない」


 麻衣はため息をついた。


「絵里香はいいなあ、営業で。私も営業だったらここまでポンコツじゃなかったと思うんだけど」


「確かに、経理よりは営業向きだね、麻衣は」


「でしょ?絵里香もそう思うでしょ?私、本当は企画課に行きたかったの。私、食べるの大好きだし、新しいお菓子考えるのすごい得意なんだけどな。入社面接の時だって、いくつも新製品のアイデアアピールしてさ、人事の人も、いいねって言ってくれて。私、てっきりそれで採用してくれたんだと思ってたのに。フタ開けたら企画でも営業でもなく、よりによって経理だよ?なんでって思うじゃん?」


「それがサラリーマンだからね」


絵里香が当たり前のように言うのが腹が立つ。


「わかってるけどさ」


わかってるけど、つらい。麻衣がため息をついたタイミングで、デザートのプチケーキが運ばれて来た。


「わあ、美味しそう!」


二人の声がハモった。それまでの嫌なことも一瞬、全部吹っ飛んだ。


「そうそう、ここ、パスタも美味しいけど、ケーキが侮れないんだよね」

「うまっ!ああ、生きててよかったあ」


スイーツの幸せを全身に感じている麻衣の頭を、あの人のことがよぎった。


「信じられない話していい?」

「何?」


 絵里香が顔を上げるのを確認して、麻衣は重大な秘密を打ち明けるように重々しく口を開いた。


「砂原さんてね、甘いもの嫌いなの。お菓子とか食べないんだよ」

 

「ええっ?ウソでしょ?」

絵里香が素っ頓狂な声をあげる。予想通り。


「本当。お土産のお菓子とかも貰わないし、新製品のサンプルとかも全然開かないし」

「ダイエットしてるとかじゃなくて?」

「あの細さでダイエット必要ないでしょ。甘いものがそもそもダメなんだって」

「ありえない……。そんな人、いるの?……この会社に」


 スイーツだと言うのに、絵里香の手が止まっている。相当驚いたらしい。

さもありなん。大松製菓のクッキーやビスケット、チョコレート菓子といえば、誰でも知っていて、普通の家庭なら、まあまあな確率で常備されている、美味しくて手頃で親しみのあるお菓子である。この会社に入ってくる人なら、程度の差こそあれ、子供の頃から大松のお菓子に親しんできたファンばかりだ。役員から新入社員から掃除のおばちゃんまで、みんな揃って甘いもの好きと決まっている。


「甘いものダメって、うちの存在理由、全否定じゃん。なんでうちに入ってきたの?」


「さあ、謎」


麻衣はタルトの最後の一片を口の中に放り込む。とろけるようなクリームに、サクサクとしたタルトのビスケット生地が溶けていく。バターの香りと甘みが口の中に広がる。


至福の時である。この至福がわからないなんて、人生のかなりの部分を損していると思う。


「何であの人、うちの会社入ったんだろ」

「何か、深―い理由でもあったりして」

麻衣は心の中で杏子を憐れむことで、ほんの少しだけ溜飲を下げた。

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