世界をくつがえすキミの魔法

夜月 朔

第1話 契約の手のひら

 再契約の命令書が届いたのは、雨の午後だった。

 封筒は灰色で、封蝋には魔術特務庁の黒い印章が押されていた。上級マギへの強制命令であることは、一目で理解できた。手に取った瞬間、掌がひやりと冷たくなる。雨に濡れていたのか、それとも自分の体温が下がったのか、判断はつかなかった。その冷たさは、どこか懐かしい痛みに似ていた。

 記憶の底に、焼きつくように残っている別の命令書。かつてのイタミ、ニナと契約したあの日も、確か雨だった。空は重く、空気は今と同じように冷たかった。

  魔術庁へ向かうのは久しぶりだった。

 街は灰色に沈んでいた。建物の輪郭が雨に溶け、行き交う人々の姿もぼやけて見える。その中を、シン=ヴェルフォードはひとり歩いていた。

 魔術庁の回廊を歩くたび、記憶のどこかがざわつく。 ニナを失ったあの日以来、彼は意図的に任務から距離を置いていた。報告書の処理や補佐業務には携わっていたものの、本格的な魔法行使の場に立つのは数ヶ月ぶりだった。心の準備はしたつもりだったが、魔術庁の石造りの空気は、以前とはまったく違うもののように感じられた。

 濡れた石畳を踏む音。魔力警報の微かなサイレン。誰もが傘の下で目を伏せている。魔術庁のある区画は、特に静かだった。高位マギが出入りするだけでなく、そこは"契約"の場でもあるからだ。

 灰色の石造りの建物に足を踏み入れると、空気はいっそう冷たくなった。契約室に続く回廊には、古い魔力感知の紋章が淡く光っている。足音さえも吸い込まれるようで、音が響かない。壁際には報告書を手に黙々と歩く書記官たちの姿。魔術師らしき人物とすれ違ったが、誰一人、目を合わせようとはしなかった。

 ローブの袖口を握る。黒地に刺繍された三本の金線。かつてその刺繍は、実力の証として自信に満ちたものだった。だが今、その光は痛ましい記憶を呼び起こすだけだ。誰かを救うために、誰かを傷つける。その役割を当然のように受け入れていた自分を、いつの間にか嫌悪していた。濡れた掌に触れるそれは、かつては誇りだった。だが今は違う。誰かを傷つけた証のようで、視線を落とすたびに胸がざわつく。

 契約室の前で、シンは立ち止まった。扉の向こうに誰がいるかは、すでに通知されていた。  それでも、足は自然と止まった。

 胸元のペンダントに指を添える。銀の鎖は冷たく、指先から心臓まで、ひやりとした感覚が流れ込んだ。

 深呼吸をひとつ。重い扉を押し開ける。

 そこにいたのは、ただひとつの“白”だった。

 部屋の空気は静止していた。まるで時間だけが止まったかのような無音の空間。少女は、窓もない部屋の中央にまっすぐ立っていた。背筋を伸ばし、両手を前に組んで。その姿は、誰かに命じられて配置された像のようでもあり、生きた人間であるという確信を揺らがせるほどだった。

 白――それ以外の色が存在しないと思えるほど、彼女の存在は均整が取れていた。

 シンの胸に、どこか理屈では説明できない不安が芽生える。肌に触れた冷気ではない、もっと奥底の感覚。目の前にあるはずの命が、まるで“生きていない”ように思えてならなかった。

 かつて、イタミはそれぞれに“人間らしさ”を抱えていた。笑ったり、怯えたり、ときには怒ったりもした。だが、今、目の前に立つこの少女には、そうした感情の痕跡がまったく見つからない。

 それが不自然であると同時に、どこか“完成されすぎている”ようにも思えた。

(……本当に人間なのか?)

 そんな疑念が、一瞬、胸をよぎる。血の気のない肌、感情の乏しい返答、そしてあの静けさ。  契約書に書かれた情報には、人為的な加工や調整の記載はなかった。だが、そこにいる彼女は、あまりにも“規格通り”だった。髪の一本に至るまで雪のように白く、肌の色もまた血の気が感じられないほど透けるように淡い。

 そして、ただ一つの“異物”が、胸元に浮かび上がっていた。焼き印のような刻印。赤く、まだ熱を帯びているかのようなその痕跡は、他のすべての静寂を否定するように存在していた。

 白いローブは、まるで儀式用の装束のように無駄のない造りだった。装飾は一切なく、縫い目さえ目立たないその衣は、布というよりも“存在”そのものを覆う幕のようにも見えた。袖口は長く、手の甲を覆い隠し、裾は床すれすれで揺れもしない。胸元から腹にかけてだけが、淡く紅く染まっていた。それはローブの生地を通して浮かび上がる印影であり、直接肌が露出しているわけではない。だが、あまりにも鮮明に刻印の形を映していた。まるで、痛みそのものが衣に染みついているかのように。

 少女は静かに頭を下げた。言葉ではなく、動作だけが儀式めいていた。その動きには、人間らしい揺らぎがない。まるで人形のように滑らかで正確だった。指の先に感情が通っていないような、誰かに命じられた通りに動いているような動きだった。

「……あなたが、私の新しい“イタミ”か」

 問いかけに、少女は顔を上げた。感情のない瞳。年齢は十六、いや、それよりも幼いかもしれない。だが、その目の奥には何かを知っているような――あるいは、何も知らないような、深い虚無があった。

「はい。マギ第三級、シン=ヴェルフォード様専属の痛み契約者――呼称は未登録です。以後、よろしくお願いいたします」

 声は澄んでいた。だが、その響きには芯がなかった。空洞の中から返されたような、どこか遠い声。どこかで聞いたような気がして、シンは思わず視線を逸らした。

「名前は?」 「ありません」 「勝手につけていいか?」 「必要であれば」

 名前をつけるべきか、シンはしばらく迷った。だがその場で言葉は浮かばず、名を与えることに奇妙なためらいを覚えた。それは、彼女の“在り方”があまりに無垢で、あまりに完成されすぎていたからかもしれない。名を呼ぶことで、何かが崩れてしまいそうな気がした。

 その反応は、あまりに機械的で、あまりに無感情だった。まるで“そう返すように作られている”かのような、空虚な応答だった。

 シンは、そっとペンダントに触れ直す。銀の輝きは鈍く、だが確かにそこにある。かつての“イタミ”が、生きていた証のひとつだった。

 その日のうちに、初任務が下された。

 契約を終えてからしばらく、シンは何も言葉を発しなかった。隣に立つ少女が視線を寄越すこともなく、沈黙は部屋に薄く滲んだままだった。

 名を与えなかったことが、ずっと胸の奥に引っかかっていた。必要なら名をつけてもいいと彼女は言った。だが、その“必要”が本当に彼女にとってのものなのか、自分にとってのものなのか、それすら判然としなかった。

 結果、彼女はいまだ無名のまま、任務に同行することになった。そのことに、少女が異議を唱える気配はまるでなかった。

 現場は旧市街地に隣接する居住区の外れ。魔力汚染による空間歪曲の兆候が確認されていた。影響範囲は小規模であり、通常なら下位のマギ数名で対処可能と判断されるケースだったが、今回は“新たな契約体制”の運用実績として、シンひとりに任された。

 魔力汚染の中心には、意識不明の男性がひとり取り残されていた。居住者の避難は完了しており、時間的余裕もあった。それでも、目の前に渦巻く魔力の濁流を前に、シンの指先はわずかに震えた。

 任務内容は、空間の封鎖、汚染源の遮断、対象の保護――いずれも明確だった。今回シンが使う魔法《断離式展開》は、汚染された魔力の流れを一時的に遮断・分離し、指定領域内に“斥力場”を形成することで、魔力そのものの拡散を防ぐ防御系の術式だ。本来は複数人のマギによる連携を前提とする高出力魔法だが、今回は単独での発動が求められていた。

 手順は頭に入っている。だが、問題は、そのために“何を代償とするか”だった。

 魔力の濁流は目に見える形で空間を歪ませていた。歪んだ壁面、浮遊する埃、異様に響く足音。汚染源に近づくほどに、周囲の空気が重く変化する。

 シンはひとつ息を吸い、右手を掲げた。喉の奥で魔力が脈打つのを感じる。空気が震え、指先へと集中する魔力が皮膚の内側を這うように移動していく。詠唱に入る直前、わずかな迷いが脳裏をよぎる――だが、すぐに振り払った。足元に魔術陣が現れる。青白い光が放射状に広がり、石畳に幾重もの幾何学が重なっていく。その中心に立つ自分が、まるで世界から浮かび上がる存在のように錯覚する。

「《断離式展開――斥力場》」

 詠唱と同時に、空間が震えた。術式が瞬時に展開され、空間そのものが悲鳴を上げるように軋んだ。光が弾け、空気がうねり、視界が白く染まる一瞬。周囲の歪みが音を立てて砕け、爆ぜるように拡散していく。振動の余波が足元を走り、汚染の核を中心に結界が広がっていく。

 だが、魔力が安定に至る直前、鋭い痛みの感覚が背後から伝わった。

 振り返ると、キミの胸元に赤い刻印が広がっていた。白いローブの生地が焼けるように波打ち、その下の肌に、心臓の近くまで迫る焼印が浮かび上がっている。

 キミは声を上げなかった。ただ、静かに瞬きをひとつしただけだった。

 魔法が終わると同時に、空間の歪みは緩やかに沈静していった。鋭く張り詰めていた空気が一気に弛緩し、周囲に静けさが戻る。だが、彼女の胸に刻まれた痛みは、そこに残っていた。

 キミは何も言わなかった。ただ、真っ白な姿で、静かに彼の後ろに立っていた。

 任務は形式通りに処理された。救助対象は保護され、意識はまだ戻らないながらも、結界内での脈拍と呼吸は安定していた。補助班が転送用の魔術陣を展開し、後方支援へ引き継がれる。

 術式の成果としては成功と評価されるだろう。けれど、シンの胸には、釈然としない重さが残っていた。

 報告書には問題なし、と記されていた。

 だが。

 問題がなかったと記されていることこそが、シンの胸を重くした。

 契約室に戻ると、キミは壁際の椅子に座ったまま、何も言わなかった。白のローブはまだ濡れており、胸元の刻印が、うっすらと淡い赤を残している。

 痛みに顔をしかめることも、うずくまることもなかった。ただ、静かに目を伏せているその姿は、“何も感じていない”のではなく、“何かを閉ざしている”ように見えた。

(……あの刻印、本当に大丈夫なのか)

 任務中は気を張っていた分、今になって胸の奥がざわつく。斥力場の魔法は、決して軽いものではない。あの焼印は、教本に載っていたものより深く、濃かった。

 ふと、以前の記憶が蘇る。ニナが契約後、初めて痛みを受けた日。彼女は泣きながら笑っていた。

『痛いのに……変だね。あなたが無事なら、少しだけ嬉しいんだ』

 その言葉の裏に、どれほどの苦しさが隠れていたのか。

 シンは、自分の椅子に腰を下ろす。全身から力が抜けるように、背もたれに身を預けた。  疲れていた。任務よりも、その静けさのなかで向き合わなければならない記憶に。上着を脱ぎ、深く息を吐いてから、そっと胸元のペンダントに指を添えた。

 金属は冷たい。けれど、それが彼の記憶のなかの“温かさ”を呼び起こす。

 小雨の中、ニナと肩を並べて歩いた日のことを思い出す。無理に明るく振る舞う彼女に、シンはペンダントを渡した。

『これを持っていて。魔法の代償、ぜんぶ受けてもらう代わりに、せめて――』

『――わかった。じゃあ、これがあたしのごほうび』

 あのときの笑顔だけが、今も心の奥で色褪せずに残っている。

 キミがふいに、こちらを見た。その視線は、まるで何かを刺すようだった。

「……そのペンダント。誰かの、遺品ですか?」

 シンは少し驚いた。キミが“自分から”話しかけてきたのは、これが初めてだった。

「……ああ。前の、イタミだった子の」

「その人のこと、忘れないんですね」

「……忘れようとは思ってない。忘れられるとも思ってない」

 ペンダントを、もう一度握る。自分の魔法で誰かを傷つけたという事実。それを、金の刺繍の袖口とともに、彼は今も背負っている。

 キミは目を伏せた。そして、ほんのわずかに呟いた。

「じゃあ、わたしも……忘れられたくないな」

 その声は、雨の音よりも小さかった。けれど確かに、そこにあった。

 その一言が、これまでの沈黙を破った。名もなく、痛みを受け続けるだけの存在だと思っていた少女が、初めて“自分”を主張したように感じた。それが錯覚であったとしても、シンの胸には確かな感情が生まれていた。

 シンは顔を上げた。自分が見ようとしなかったものに、視線が引き寄せられる。その目の奥に、今まで見えなかったもの――感情の“痕”のようなものが、一瞬だけ浮かんだ気がした。

(……この子は、普通のイタミじゃない)

 確信にも似た感覚が、心の奥に静かに沈んでいく。

 そして、その言葉は、雨にも消えず、静かに胸の奥に灯り続けていた。

 その灯は、かつての喪失ではなく、これから向き合うべき“存在”への、わずかな予感として。


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