第八話『神殺し』
咄嗟に上げた両腕を強い衝撃がぶち抜き、身体が柱に叩き付けられた。思考が瞬く。鈍痛と赤い血液が視界の隅に滴り落ちる。
「アキラっ‼」
こちらに向かって来る人影は三つだ。いや、正確には二つというべきかもしれない。
「アサヒ! 二人は別人の気配に乗っ取られてる! 視覚を!」
「よく分かんないけど分かった!」
ぱちりと、確かな音を立てて頭の構造が切り替わる。一人で戦闘する際に活用するのは、音や匂いからなる疑似的な視覚だ。そこに他の明瞭な視覚が重なる。俺の意識は自身を軸に拡張され、俯瞰の位置を撮り出す。
およそ演習場と同程度の広間だ。中央に石像が鎮座し、周りは等間隔の柱が立ち並ぶだけで障害物はない。ダイチとアオゾラは体を密着させ、しかし絡まることなく突っ走って来る。アサヒを脅威と判断せず、あるいは俺を最優先で狙う腹積もりのようだ。
俺は壊れた柱の破片を投げ付ける。ダイチの左腕がそれを弾きながら身を引き、入れ替わりの要領でアオゾラの右腕が眼前に迫った。
下げた頭越しに柱を砕く音が響く。続く左腕の攻撃を軽く振り払い、俺は上半身の勢いそのままに手を伸ばす。しかし届かなかった。アオゾラの細い指が俺の手首を掴み取り、握り潰さんと血筋を浮き立たせる。信じられない握力だ。
二人は何者かに成り代わった。並べられた言葉を率直に受け取るなら、その正体は
要するに、二人の両親が昔行おうとした儀式は神降ろしだったということだ。今の二人は、肉体こそ二つだが、一柱の神の意志の下に操られている。
どうやら百代さまとやらは唯一神で、しかも人間の戦闘に関する心得が——
「——ごちゃごちゃ考えるな」
空振りを好機とみなして繰り出された拳に、俺は額を突き出して自ら当たりに行った。
血が流れるのをつぶさに感じる。だが視界はこれ以上ないほどに晴れ晴れとしている。
あらゆる感覚を以て見る景色のなかで、雑念はそのままノイズとして視野に表れる。他人とは違う目線の高さを自覚している俺にとって重要なのは、不純物のない判断だ。
即ち反射と直感。高尚な考えなど入り込む余地もない土俵に、神を引きずり下ろす。
俺は額を血に滑らせ、低く二人の間を潜り抜けた。背後から掴まれるより速く一歩踏み込んでいく。さらに加速し、松明の目の届かない暗闇へと。
「神様は足音がうるさいな」
追って来る神は、その鋭い殺意と裏腹に二人分の痕跡を残している。情報は一方的だ。ぐるりと素早く回り込んで——いると思わせるよう杖を前に蹴飛ばし、俺自身は跳躍して引き返す。杖が床を叩く三度目の足音と、俺がダイチの肩に踵を落とす衝撃が重なった。
踵は寸前で遮られている。手を割り込ませたのはまたもやアオゾラだ。俺は重心を左にずらし、落下しながら反対の足で蹴り付けた。これをダイチが受け止める。すぐに引き寄せられる感覚があった。掴まれた足を軸に俺は身体全体を捻り、空中で旋回した。無防備なダイチの腕を、再び遮ろうとしたアオゾラの手もろとも横殴りに蹴り飛ばす。
意思の感じられない吐息を残し、二人が壁に激突した。精神に神性が宿っているとしても、肉体的に強靭ではない二人だ。それなりの損傷は避けられまい。
こうやって戦うことは、二人の意志ではない。そう思っていいはずだ。きっと何か分かり合うための糸口が見つかる。ただ、それも一筋縄ではいかない。第一の目標は二人を元に戻すことだ。方法は分からない。死なせない程度にどう加減したものかと抱いた気持ちは、直後に吹き荒ぶ黒濁の情動に掻き消された。
ずるりと、醜悪な気配を身に纏った神が這い出る。
「私も戦うよ」
「ああ」
心地好い香りと共にアサヒが横に並び、彼女から回収してもらった杖を受け取った。
アサヒの祝福は、自身の感覚を共有することだ。今は彼女の視覚を貰い受けている。普通の人に用いれば二人の視覚が重なり、目が四つになったような感覚に陥るというが、俺の場合は少し異なる。
「すぅ、はー……」
焦らず、ゆっくりと深呼吸する。落ち着いたバラの香りが鼻を抜けて染み込んでいく。緊張がほぐれ、煩雑な視界が、程よく調和するのを感じた。
感覚の共有は長く使えば毒になる。狙うは短期決戦だ。
杖を一度叩く。俺とアサヒは左右に駆け出し、遠回りに接近を試みる。神はやはり俺の方を狙って来た。
耳は、飛びかかる獣の牙のように放たれた二つの攻撃を捉えている。片方を杖で防ぎ、もう片方は手刀を切って弾いた。わずかな隙も与えず連撃が叩き込まれる。俺も手首を回して杖を振るい、一つ一つの攻撃が勢いに乗る前に挫く。
波が打ち寄せては引き返し、返し切る前に再び打ち寄せる。洗練された速度と連携だ。
しかし、言ってしまえばそれは一人分の動きに過ぎない。手数が対等ならば押し負けるわけにはいかないのが騎士だ。
徐々に勢いを押し返し、一歩、前進する。同時にもう一度、爪先で軽く床を叩いた。
音もなく迫ったアサヒの左手が、ダイチの首筋に触れる。だが惜しくも、それが打撃を与えるより、首が振り返る方が速かった。掠った軌道に血の飛沫が散り、ダイチの突き返す拳がごう、と空気を押し出して唸る。
アサヒの横腹に一撃が叩き込まれた。身体がくの字に曲がり、足が地面を離れる。
ダイチが拳を最後まで振り切らなかったのは、それがアサヒ自ら飛び上がったためだと悟ったのだろう。避けたはずの手が肩に添えられ、気付けば細い腕が首を絞めている。
アサヒの得意とする戦闘は、視線と意識の誘導を利用した関節技だ。軽やかな回転を伴って彼女の身が舞い、滑るようにして相手の背後に回る。咄嗟に掴み落とそうとする手を逆に脚で絡め取り、関節の可動域を超えた方向へと自身の体重を振り子に倒れ込む。
一度の瞬きの間に、ダイチの身体が地べたに転がった。
途端に邪悪な気配が揺らいだ。神の意志は一つだ。二人が密着していれば一般的な身体感覚で動かせるかもしれないが、左右が分離したために一体感は途切れ、動作が破綻する。俺はその隙間に杖先を滑り込ませた。
痛打の音と衝撃が手まで伝って来た。アオゾラの右肩の骨に亀裂が走るのを確かな手応えと共に感じ——ダイチの脚が跳ね上がる。
反射神経が、それを前髪の先端に掠らせるにとどめた。背筋にひやりとしたものを覚えつつ、俺は続くアオゾラの反撃を受け流す。どちらにも優位が傾かない、想定よりも激しい戦いだ。熱が全身を包み、汗を滲ませていた。
アサヒのつけた香水は急速に揮発し、中立ちのレモンの香りを漂わせる。蘇るのは鍛錬中の記憶だ。視界が鮮明に、それでいて焦点はぎゅっと絞られる。
「全速力だ」
防御を捨ててアオゾラの懐に入った。興奮した筋肉が脈打ち、火照った身体は飛ぶように軽い。速度の緩急に適応できず、彼女の目は虚空を眺めている。
肘打ちは彼女の顎を強打し、頭全体を揺らした。少しの硬直ののち、白目を剥く。
その背後では、目まぐるしい応酬が繰り広げられていた。起き上がろうとするダイチをアサヒが押さえつけながら、左腕の関節に手を伸ばす。それを予備動作のない裏拳が弾き、意趣返しとばかりに彼女の腕を引っ張る。同時にダイチは上半身を起こした。
流れるように上下の位置関係が反転する。打ち下ろされた拳がアサヒの顔があった位置にめり込み、首を回して避けた彼女は四肢のバネで以て横に転がる。再び二人の天地が翻り、揉み合ってアオゾラの足元に達する。すでに自力で立っていられる状態ではない。
アオゾラの身体が大きく影を落とした。ダイチは跨ったアサヒから立ち上がり、倒れる彼女を片腕で抱きとめようとする。しかしその手が背に隠れて拳の形に握られていることを、俺はアサヒの視点から観測した。
半身を利用した死角からの攻撃を、真っ向から受け止める。手のひらに拳が突き刺さり、骨の硬い感触が痺れた痛みをもたらす。だがこれで神は右腕を失った。このままアオゾラごと倒れ込めば、アサヒの締め技でダイチも無力化できる。
そう思った時、ダイチの鼻先がふと微動した。今、戦場に漂っているのはアサヒの香水による匂いだ。これは祝福の発動を誘発するための触媒で、俺との連携に欠かせないものでもある。
——祝福とは、概して過去の経験によって定まるとされている。それに関連して、特定の記憶を刺激すれば効力が強まるという研究結果もあり、騎士団の団員たちは少なからずその触媒を持っている。ヒロミさんの詠唱という言葉の組み合わせもその内の一つだ。
それはあくまでも、個人の記憶と強く結びついたものでないと意味がない。
しかし、だとしたら、なぜ、神がそれに反応したのだろうか。
「どうりで懐かしい情動が見えると思ったが……そうか。ユウヒ、今はまだ生きてたか」
背中から地面に倒れるさなか、ダイチの瞳孔がどこか遠くを据えていた。得体の知れない感情が渦巻き、黒く濁る。
そこに、俺はうねりを見た。喜び、悲しみ、怒り、悲しみ、無理解、殺意、殺意、殺意、虚無……そして、諦め。見ているだけで途方もない歳月と感情の摩耗を錯覚させる濁流が、視線越しに押し寄せる。
「裏切り者め」
そう呟いてダイチは首をぐるりと回した。「え」と驚くアサヒはまだ起き上がっている途中で、自身を凝視する男の顔を間近にして固まる。
俺も理解が届かなかった。ダイチは、いや、百代の神はアサヒを認識して明確に態度を変えた。香りへの反応といい、奴は一方的に何かを知っている。その驚きが気の緩みを生じさせ、受け止めていた彼の拳がアサヒの胸元へ振り下ろされるのを止められなかった。
「アキ——」
——自身の走馬灯が如く圧縮された時間のなかで、俺は十重二重の光景を同時に見た。そこでアサヒは死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、死に、そして死んでいた。
「さっきから……一体なんなんだよこの記憶は……夢じゃ、ないのか?」足が底知れない絶望にはまり、俺は膝から崩れ落ちる。「あああああぁぁぁ……」
黒濁が溢れ出す。
地下の暗がりを塗り潰すほどの濃さを湛えたそれは、赤子を包む毛布のように、山を覆う雲のように、世界を瞑目させる夜のように、優しくたなびく。変化を悟らせない穏やかさと静けさ。風が通る。草原が首を傾げる。森が噂話を交わし、動物たちが耳をそばだてる。遠くで潮騒が鳴る。風は少し冷たい。
いつの間にか、景色は暗く沈んでいた。幼い頃のアサヒが立っている。後ろから見える茶色い髪は影によく馴染んでいた。
敵の拳が夢の景色を突き破って肉薄する。
「それが復讐の色だ」
俺は拳を右の頬に食らいながら、漫然と手を伸ばした。大きく開いた手のひらで敵の顔を鷲掴みにしてそのまま前に押し倒す。ミシミシと肩が鳴り、骨が軋む。
思い切り振るった腕で、その後頭部を地面に叩き付けた。衝撃は大理石を砕き、蜘蛛の巣状に亀裂を走らせる。老朽化した施設のあちこちから埃と破片が舞い落ちる。
手を放すと、敵は涙と血で顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた。
「なんて悲しい感情抱いてんだ……嫌なこと思い出させんな」
「お前……っ」
痺れた手のひらが痙攣する。呼吸が細切れになり、心臓が弾けそうだ。
アサヒは気絶しているがかすかに心音が感じられる。敵は攻撃の直前にぴくりと身を震わせていた。それで威力が減衰したのだろう。その際、アサヒの言葉に動揺したようにも、俺の感情に揺さぶられたようにも見えた。
どちらも不可解な理由だ。百代の神とやらの別の名前が『アキ』に続くとは考えられないし、俺の感情を目視したのだとしたらそれは祝福でしかありえない。
「はっ、はっ……」
一度は捨てた雑念を、俺は無意識に拾い上げた。人間の戦闘に関する心得を持った神様など、聞いたことがない。そもそも王国における神は俗にいにしえさまと呼ばれる初代国王のみだ。遥かな古代ではこの大陸にも小国がいくつか存在し、それぞれの文化や宗教を持っていたという話がある。だが少なくとも初代国王が降臨し、大陸を一つに統べてからおよそ千年に到る現代までは、勇者信仰が唯一の教義で救済だ。
そして神の血族たる王家の人間に、一般的な人と異なる特徴は見られない。強いてあるとすれば、王家が持つ祝福の内容は秘匿されているということだ。それは預言によって祀り上げられる勇者ですら例外ではない。歴代の国王たちがどのような祝福を授かり、活用してきたのかは、それこそ神のみぞ知る領域となる。
もしも、初代国王が単なる未来予知の祝福を持っていただけの、ただの人間だとしたら。
もしも、誰かが新興宗教を作り、信者たちの心に自身の欠片を散りばめていたとしたら。
百代の神という存在は、あるいは——。
「アキラ。俺は敵じゃない」
敵が、よろりと立ち上がる。俺は、その横顔に杖から抜き放った刃を迸らせた。
「お前、アサヒの何を知ってる? なにが言いたい? 目的はっ⁉」
「会話になってないな。……まあ人のことは言えないか。俺も、ただ復讐したかっただけなんだ。慰めも説得も怨嗟も、それを成し遂げるまで何の意味も持たない。……クソ、さっき躊躇わなきゃ……いや、でもあれは……」
刃が虚空と言葉尻を斬り付けた。深く屈み込んだ敵は俺の腰を器用にも左腕と肩で抱きかかえ、凄まじい力で押し出す。瞬間的な攻防の切り替わりに姿勢制御が間に合わない。背中から倒れ、敵の振りかぶった手が影を落とした。
俺は反射的に構えそうになる腕を動かさないよう意識しながら膝を突き上げた。隻腕の敵が体勢を崩し、その隙に、伏せていた指先がようやく剣を見つけ出した。
上段に払った剣筋が敵の胸を切り裂く。しかし傷が浅い。続けて柄頭で太腿と脛を叩き、悶える敵の身体を蹴り飛ばす。起き上がる動作を省略して俺は一瞬で突撃した。
奇しくも、敵と鏡合わせになる。向かい合った一撃の姿勢に、敵の黒い意思が線として表れた。そして悟った。これは相手の思考を反映した攻撃の予測軌道だ。
「気付いたか? 未来は、復讐の心の方が見やすい。対話と違って余計な可能性を考えずに済むからだ」
拳が交差し、二つの衝撃がそれぞれの肩と胸を貫いた。俺は片腕が鈍ってもまだ戦えるが、傷口に追撃を食らった敵は顔を歪める。
不安定なはずの姿勢から、爪先が斜めに蹴り上げられた。背を曲げて後ろに避けると、押し出された空気の風圧で顔の筋肉が震える。それに交じって額に感じるのは、小さい針で突くような静電気の起り、祝福の予兆だ。
「それじゃ死ぬぞ」
予測の軌道を見取ることすらも許されない速さで、返し刀の踵落としが炸裂した。
「ぐぁ……っ⁉」
祝福の予兆がむしろ思考を乱し、直感の防御を一瞬だけ遅らせた。目の前の敵は、明確にこちらの手の内を把握している。
「アキラ。他人を信じるな。常識も、仲間も、世界も全てお前の味方じゃない」
それに、最初の割り切りと今の一撃が重なって頭の出血が酷い。感覚も鈍く、視野が不明瞭だった。よろめいた勢いを利用して後ずさりする俺に、敵はさらなる前傾姿勢で追い縋って来る。身体的な有利不利はもはや存在しない。
そう判断し、俺は剣を地面に突き刺した。甲高い音と火花を散らして固定される。彼我の距離が急速に縮まる。次の攻撃が来る。俺は剣を支えに一回転し、両足を前に投げ出した。敵の迫る速度はそのまま飛び蹴りとかち合い、唯一の左腕をひしゃげさせるに至る。
それでも黒い意思はまだ消えていない。
すぐさま片足を突き、全身のバネと梃子の原理で剣を引き抜く。大味の振り払いが空を斬って唸る。敵は、使い物にならなくなった腕の肉と骨でそれを防ぎ切った。そして怯むことなく、剣の刺さった腕ごと突進して来る構えに移る。
「嘘だろ……」
感覚視野に暗雲が垂れ籠める。アサヒの死が、瞼の裏に想起される。
白昼夢のように襲来する記憶の出処は分からない。それが現実なのかどうか、現実ならいつの出来事なのか、未来なら変えることができるのか、それが何を意味するのか、一切合切が全部分からないことだらけだ。
すぅっと、ヒノキの芳香が鼻をくすぐる。後立ちの香りは心を落ち着かせ、血の上った頭を冷やしてくれる。時間経過によって変化するアサヒの香水だ。彼女の意志が、まだここで共に戦っている。
アサヒは、死んでいない。
彼女の死の記憶と、敵の不意の攻撃は一致していた。だからこそ全く同じ構図の記憶が重なって見えた。しかし、腕が壊れた今の状態では、再び同じような場面は引き起こされない。要するに、先の一撃が分水嶺だと考えることはできないだろうか。
「『他人を信じるな』……ね。極論なのはひとまず置いといて、言い換えれば『自分を信じろ』か?」
「……」
「なるほど……確かに俺が負ける記憶は一つも見てない。つまり、そういうことだ」
俺が負ける道筋はない。アサヒの死も回避できたのなら、もう復讐の理由付けは要らない。
目を瞑った。どんな無明にも勝る暗幕が張られる。だが見るべきものは明白だ。
「そもそもアサヒは他人じゃねぇよ。お前が踏みにじった二人と同じで、足りない俺の片腕だ。だから俺たちは負けない」
視線が交わる。攻撃の軌道は見えない。どの道、突進ならば一直線だ。
迎え撃つ覚悟でどっしりと構え——いや、違う。
軌道は見えていた。ただし背後へ一直線、気絶したアサヒの方向だ。
「おま……っ」
その気付きを敵も察した。ばっと身を翻し、背中を向けて走り出す。
もっと早く気付くべきだった。敵の目的はアサヒにある。優先順位はそちらの方が上だ。
俺も慌てて姿勢を直して追いかける。高揚した戦場の熱が頬を掠っていく。息を吐き出し、全速力で駆け抜ける。
間に合え、間に合え、間に合え。
敵の身体が、低く飛び上がった。着地地点にアサヒは力なく倒れている。
新たな死の記憶が思い浮かばないよう祈りながら、俺も最後の力を振り絞って地面を蹴った。
だがあと一歩遅い。諦めるな。腰元までなら手が届く。踏ん張りの利かない空中で、どれだけ敵の動きを逸らせられるのだろう。横に押して致命傷を避けるか。それだと次が止められない。最悪の場合、自分の身体を前に引っ張り、自ら肉の盾になれば防げる。絶対にアサヒは死なせない。かくなる上は、ダイチを殺してでも——。
「……ごめん」
ダイチの腕に刺さったままの剣を掴む。引き抜いている時間はない。突き立てるように、逆手に握り締める。
「おおおおぉぉぉっっ‼」
俺はがむしゃらに腕を振り、引き裂いた。
さしたる抵抗もなく肉の断たれる感触が、弧を描いて突き抜ける。
ぼやけた視界の端で、アオゾラの首元の鏡が光を反射する。そこに二人の勇者の姿を見た。黒々とした気配が霧散したのは直後のことだった。
受け身も取れずに地面を滑る。急いで起き上がるが、他に動くものはなかった。倒れているのは三人、しかしその内の一人は永遠に動くことなどないだろう。
ぱらぱらと埃が落ちる。松明もないのに、心なしか辺りが明るくなったように感じられる。その違和感はすぐに答えとなって現れた。
天井が、壁が、地面が崩れかけている。戦闘を繰り広げたとはいえ破壊の規模は大したことなかったはずだ。真の要因は別にある。
この施設はそもそも老朽化が酷かった。祭壇や教典が風化して元の形をほとんど失ったり、多くの通路が崩壊によって塞がったりしてしまうほどだ。
しかしながら、この空間にはその痕跡が見当たらなかった。神を象った石像や立ち並ぶ柱、最奥の部屋の扉、ここに到るまでの入り組んだ道もそうだ。重要な部分だけはかろうじて残っていた。
おそらく偶然などではない。あの黒い意思が、強固な記憶の支柱となって形状を維持させていたのだ。それが消えた。俺が殺した。ならば結果は見ずとも分かる。
「アサヒ! ここはもう駄目だ! 逃げよう、アサヒ!」
身体を揺らし、頬を軽く叩いても起きる様子はない。周囲を見渡す。廃墟同然の空間にはもう何も残っていない。
なにもかもがからっぽだった。
「クソっ!」
素早く杖だけを回収し、アサヒを左の肩に担いだ。先ほど殴られた右肩が痛む。見下ろした先にアオゾラが横たわっている。この期に及んでまだ何かに祈っているかのように、手を胸に置いたまま息をしている。
俺は右腕で彼女を腰の高さに抱き上げ、その場を去った。心の中でダイチの顔を浮かべ、何度も何度も謝りながら階段を上った。
一体、どうすればよかったのか。自ら生贄となり両親の遺志を継ごうとした彼らに対して、俺はどのように答えるのが正解だったのだろうか。正解というものが、存在したのだろうか。
重くなる足取りを、掴むものがあった。切り離された右腕だ。すぐにでも枯れ果ててしまいそうな力に、それでも俺の足は止められてしまった。
「ぁ……」
振り返ると、階段の下で何かが蠢いているのが見えた。アオゾラの失くした左腕かと思ったが違う。形を見れば確かに左腕だが、切り刻まれ、筋繊維と骨が露出し、止め処ない血を足跡として残していた。
それはダイチの上半身を引きずって階段を上っていた。生まれてすぐに両親を失い、右腕を失い、さらには下半身を失ってなお、彼は双子の半身を失うことを恐れていた。そうしてボロボロの手を伸ばす。
アオゾラの身体も反応した。彼女の右手が不意に持ち上げられ、ダイチへ向けて手のひらを広げる。動いた拍子に俺の腰から逃れ、階段に顔面から落ちた。血が段差を伝って下りていく。
まともに立つことも、意識があるのかどうかもあいまいな状態で二人は手と手を合わせた。
それはとても優しく静かな合掌だった。
瓦礫と粉塵のおくるみが、その優しさを包み込む。
「……安らぎが、あらんことを」
心の中で両手を合わせながら俺は走った。軽くなった身体で足を動かし、担いだアサヒの熱を感じながら、後ろを振り返ることなく前へと進んだ。
産声は聞こえなかった。
5
洞穴を出ると、すでに日は昇り始めていた。
顔料をへらで引き伸ばしたような濃淡が、地平の雲海から山脈の向こうへと敷かれている。雲の隙間には虹がある。自然の偉大さが感じられる絶景だった。
すっかり冷めた身体に山の黎明の風は肌寒い。肩に担いだアサヒに当たらないよう、位置を調節する。
帰り道は、来る時と異なる理由で静かだった。四人分の足跡を辿っていく。
杖を突きながらようやく村へ戻っても、出迎えるものはなかった。人狼を疑う儀礼も、物珍しい目つきで遠巻きに眺める人々の影もない。
騎士団の出発までまだ時間が残っている。仮眠くらいならとれそうだ。ただし怪我は隠しようがない。正直に話そう。どこか振り切れた感じの清々しさが頭にふわふわと漂っていた。
宿に戻る前、俺はふとした考えから酒場に寄った。そこには目当ての人物がいた。酔い潰れて地べたで寝ていた村長だ。早朝に目が醒めたらしく、入り口に立っている。
どう声をかけるべきか迷った。ダイチとアオゾラは彼にとって実の子に近い存在だ。何が起きたのか、伝えなければならない。二人が秘めていた想いと、その最期を。
「あの……」
おそるおそる近寄ると、村長は大きく肩を揺らしてこちらを見た。
何か妙な感じがする。焦点が合っていない。
「ああ! これはこれはお客さん方! 勇者さまに、すごく大人びた淑女の方まで! ただ随分とぐったりとした様子……さては、夜通し杯を交わしていたんじゃァありませんかなァ? 駄目ですぞォ、潰れるまで飲んでしまっては! なにせ俺みたいになりますからねェ! ガハハハ!」
「それは、えっと……はい。村長さん。でも俺たち、酒は飲んでないんです。実はダイチとアオゾラが——」
「——なんと! 酒を飲んでないと⁉ こりゃァ偶然ですねェ、俺も今日はまだ飲んでないんですよォ! ほら、こんなに喋ってもしゃっくりが出ないでしょォ? ガハハ、ごっ、ごほっげほげほ!」
村長が咳き込んで危うげに跪く。彼は支えようとした俺を制止し、その手のひらを反対の手と合わせた。
「いや~、実はねェ……ここだけの話、俺、もう酒は飲まないことにしたんです。なぜかってェ? それはズバリおふくろに止めろって言われたからなんですよねェ!」
「……は?」
村長の母親がいないということは、彼自身の発言から察していた。それともあれは酔った勢いの戯言だったのか。
何気なく酒場の中を覗いた俺は、全身に寒気が走るのを感じた。
村を抜け出した時と同じだ。ここにはもう、異言爺しか残っていない。
「久々に昔のことを思い出しましたよォ。あれはそう……六才のころだったかなァ? 当時の俺ァ体の調子がよくなかったもんで、外で走り回る友人らの声を聞きながら、一日中布団の中で本を読んでたんですよォ。すでにいなかった親父の書斎にはいろんな本がありましてねぇ。なんだっけなァ~?」酒場の中に向けてゆっくり手を擦り合わせながら、彼は恍惚とした表情で語り続ける。「えェ~と、『百代の神の沈黙』じゃなくて……『虚ろに宿る神性』……あっ、『砂浜は宇宙よりも広く、波は創世よりも冷たい』です! これが面白くてねェ、宇宙の起源とか、神秘的な雑学とかがあるんですよォ! あっ! そういや、さっき見ました⁉ 虹、虹が見えたんです! 神は虹色をしてました! キレイだったなァ~。お袋も見てみろよォ!」
もはや会話ができる状態では到底なかった。彼の目は何も見ていない。どこか遠くの、いつかの景色しか。
「…………ごめんなさい。さよなら」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないまま俺は宿に向かった。重い足取りだった。橋へ続く角を曲がるまで、村長の大声が背後に響いていた。
「えっ? せがれ? 孫の顔も見たい? 急になんだよ、やだなァ、俺ァまだ結婚もしてねェっつーの! ガハハハハ——」
6
数時間後、騎士団は
規則正しい足音だけが大きく重なって山に木霊する。山を下っていく最中に、あの遺跡への道が見えた。虹も再び見えた。感慨は、確たる像を結ばない。
俺はおまもりを強く握り、振り返らずに進んだ。
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