第二話~クジラの庭園~

 きっと疲れてるんだろう。鯨が空を優雅に泳いでいる幻影を見るなんて。そう何度も目を擦り瞬きしてみても、目の前の光景は一向に変わらない。青い空に入道雲ではなく白くて大きな鯨。終いにはマイワシの大群までが鯨の周りを舞い始めた。非現実的なのは空だけではない。よくよく見てみると、花畑の茂みにはたぬきと狐が仲良く花々を愛でている。視界の端には見たことの無いフワフワした生き物が、我が物顔で小道を闊歩している。これは相当重症のようだ。現実逃避にしては余りにもメルヘン。思わずその場でへたり込んでしまった。急にその場に座り込んだせいで目の前の女の子が


「お兄さん?お兄さーん?」


 と心配そうに覗き込んできた。首をこてんと傾げて、まるで俺の反応の方が可笑しいような、何とも言えない不思議な顔をこちらに向けている。ああ、可愛い。

 考えてみれば、こんな可愛くて綺麗な若い女の子が仕事帰りのくたびれた男に声をかける訳ない。彼女が言ったようにここは本当に「夢」なのかもしれない。俺はまだ家に帰っている途中で電車に揺られながら居眠りをしているんだろう。

 所謂、明晰夢というやつだ。きっとそうなんだろう。もうすぐ三十路を超えようとする男がみる夢にしてはちょっとファンシーすぎる気がするし、こんな可愛い年下の女の子まで登場させるなんて不健全だと思うけど。夢だと自覚した途端、緊張の糸がぷつんと切れたように肩の力が抜けた。腹が鳴る。

 そういえば、今日忙しすぎてウィダーインゼリーしか摂っていないんだった。などと、恥ずかしさが入り混じりながら考えていたら、先程から心配そうにしていた女の子がびっくりしたように目を丸くさせ、笑い出した。


「うふふ。お兄さん、お腹すいてるんだね?」

「えっ、ああ。聴こえてましたか。す、すみませんね。お見苦しいところを…」


 動揺して吃ってしまった。いい年の大人が情けない。大人というには些かあどけなさが残る女の子に腹の音を聞かれてしまった。恥ずかしさから顔がカッと熱くなる。夢の中だとしても異性の前でこれは情けない。夢なら腹の虫よ今は静まってくれ!と願っても身体は正直なのか変わらず腹はギュウギュウと鳴り続けている。

 すると、見かねたのかクスクスと笑っていた女の子は立ち上がり持っていたバスケットを見せてくれた。


「今日はここら辺でお昼を食べようと思っていたところなの。良かったらご一緒にどうかしら?」

「へっ??」


 こんな出会ったばかりの冴えない男と?昼を一緒に?冗談かな?どでかい声が漏れて、またしても思考が固まった。彼女はそんなことを気にも止めず、目の前でさっさと分厚めの大きな布を広げる。そして、隣においでおいでと、言わんばかりに人1人が座れそうなスペースを開けて座った。どうも冗談じゃないらしい。


「えっと、そんな。急に悪いですよ...」

「遠慮しないで。いつも沢山作りすぎちゃうの!」


 そう言ってバスケットの中を見せてくれる。

 中には色鮮やかなトマトとレタス、たまご、ハムチーズなどのバリエーション豊かなサンドイッチにクロワッサン。透明な容器に入った蜂蜜色の美味しそうな液体に瑞々しい果物まである。見ただけで涎が出てきそうだ。どこから取りだしたのか、明らかにバスケットに入れるには大きなお皿にそれらをよそい、アンティーク調の真っ白な丸みのある陶器のティーポットにお茶を注げば、素敵なピクニックセットの出来上がり。

 え?こんな可愛い空間の中に俺が混ざっていいの!?と躊躇ったものの人懐っこそうな少女の微笑みと空腹感に耐えきれなかった。おそるおそる女の子の隣に座ると彼女は一層嬉しそうにした。


「何から食べる?どれも今朝採れたばかりのものなの!」

「じゃ、じゃあこちらを1つ...」


 うわぁ!笑顔が眩しい。

 差し出されたサンドイッチの山から1つ適当に手に取ってみた。

 断面からトマトと生ハムの美味しそうな彩り豊かな赤色が見え、見るだけでも唾液がにじみ出てきそうだ。しかし、幾ら空腹とは言え、いきなり見知らぬ女の子の出してきた食べ物にすぐ口を付けるほど警戒心が無い訳では無い。横目でチラッと少女の方を見ると、彼女も1つサンドイッチを手に取って食べる。そんなに厚みがある訳でもないハムエッグサンドを、小さな口でリスみたいに動かしては幸せそうに咀嚼している。

 可愛いなぁ。ちょっとでも疑った俺が馬鹿だった。

 もう、思い切って手にあるサンドイッチに齧り付いてみた。口の中に放り込んだ瞬間、電撃が走った。


「う、美味いっ!!」


 よく熟れたトマトの甘みのある酸味と、生ハムの塩気が口いっぱいに広がった。香ばしいナッツと胡桃の入ったパンと相まって食欲を駆り立てる。1口、また1口と食べ進める。パンの裏側に塗ってあるマーガリンの甘みが、後から効いてきて噛めば噛むほど味わい深く、然しくどくもなくアッサリとしている。間に挟んであるレタスも瑞々しく、シャキシャキとした食感。飲み込む際のパサパサとした口内の水分を奪われる感じも全然しない。あっという間に1斤食べきってしまった。一緒に出されたお茶がまたこのサンドイッチに良く合う。蜂蜜の甘さが程よく効いたレモンティーは後味がさっぱりしていて余計に手が進む。サンドイッチを掴む手がやめられない。


「ふふ、お口にあって何よりだわ」


 女の子がいる前でサンドイッチをがっつく。こんなにしっかりとしたご飯を食べたのは、一体何時ぶりだろう。ここ暫くは忙しすぎてほぼ毎食カップ麺か何も食べず、そのまま寝るのがザラだった。乾いた身体に野菜のビタミンと優しい味が染み渡る。手作りの味とはこうであったかと言わんばかりに感動さえ覚えた。終いにぶどうとりんごを頂き、出されたものを全て平らげてしまった。身も心も満たされ、程よい眠気と充足感に包まれる。


「ご馳走様でしたっ!!とても、美味しかったです」

「どういたしまして」


 目の前の女の子はニコッと笑うと、食べ終えた食器を片付け始める。すると食べ物の臭いに釣られてきたのかどこからともなく動物たちが俺達の周りに集まってくる。さながら、童話の世界みたいだ。その中で女の子はクスリと笑うと、ポケットから木の実を取り出した。


「大丈夫。皆の分もあるからね」


 と木の実を渡し、微笑んだ。彼女は本当によく笑う。出会った時からずっとそうだ。

 こうしてサンドイッチをご馳走し、屈託のない微笑みを向けてくれる。向けられた優しさが冷えた心をじんわりと温めてくれる。なんて居心地が良いんだろう。


 ここが夢だからか?――いや、ここは本当に俺だけの『夢』の中なんだろうか?


 遠くでカモメが鳴く。カモメの歌に合わせ、クジラは大きな体躯をゆるやかに畝り、波飛沫をあげるように風が頬を撫でた。勿論、周りに海はない。それなのに潮の香りを運んだ風が、女の子の白く透き通る髪をふわりと舞い上げる。柔らかい光がそれに反射し、彼女はまるで朝露を帯びた若草のようにきらめいて見えた。

 ああ、雨上がりの木漏れ日のように、こんなにも柔らかく笑う子を俺は知らない。

 俺は見たことがない。


「あの、君は...」


 君は一体何者なんだ。

 その言葉を言い切る前に不意にズシッとした重みが背中に掛かった。身体が前のめりに倒れる。振り返ってみるとウォンバットのようなフワフワの生き物がのしかかっていた。オヤツはまだかと言わんばかりに目をキラキラさせて待機している。「お、重い」そう呟いても上に乗った大きな生き物は我関せず。全く動かなくて情けない声をあげた。


「あら、駄目だよ。お客さんが苦しそうよ」


 と彼女が注意するとそのモフモフの生き物は背中から降り、膝の中に入ってきた。干したお布団のような香りがする。違う、そうじゃない。そして、女の子から大きな人参を受け取るとそのまま膝の上で食べ始めてしまった。あまりにもこのずんぐりむっくりとした生き物が、幸せそうにのびのびと人参を貪ってるものだから怒るに怒れない。何よりもこの抱き着き心地の良さそうなものを前にして、腕を回さずにはいられなかった。柔らかい毛並みが肌を擽る。あったかい。だんだんと瞼が重くなってくる。

 夢の中でさえ微睡みの中に居るかのような錯覚を覚え、現実と夢との境がぼやけてくる。モフモフの暖かい重みを感じながら、俺はまた、意識を手放した。

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