短篇小説集『微かな残像たち』
@miteno
苛立ちの記憶
僕は苛立ちという感覚について、あまり深く考えたことがなかった。人は苛立つものだ。それが自然なことだとずっと思っていた。でも、最近になってふとその感覚を思い返すことが増えた。苛立ちはどこから来て、どこへ行くのだろうか。
例えば、小学生の頃の夏休みの家族旅行。あれは確か山奥の温泉地だったと思う。父親が運転する車で延々と山道を走り、目的地に着いた。宿に荷物を置いてから、おみやげ屋を何軒か回った。その中の一軒で、僕はどうしても欲しいものが決められなかった。おみやげ屋には色とりどりのキーホルダーや、木彫りの動物、地元名産のお菓子が並んでいた。でもどれもピンとこなかった。買いたいものがないなら買わなくてもいい。それは今ならわかる。でも当時の僕にはそれが許されないように感じられた。
「早く決めろ」と父親が苛立ちを隠さずに言った。その声は鋭く、山間の静けさに不釣り合いだった。僕はその場で固まってしまった。何を選んでも正解ではないような気がしたし、選ばないという選択肢も存在しないように思えた。結局、一時間近く悩んだ末に、僕は適当なキーホルダーを手に取った。それは鳥の形をしていて、羽根には鮮やかな赤い塗料が塗られていた。
その記憶は今でも鮮明だ。父親の苛立ちも、自分自身の苛立ちも、その場の空気もすべてがひとつの塊となって僕の中に残っている。そして大人になった今、その出来事について考えるたびに奇妙な感覚に襲われる。「要らないなら要らないで買わなくてもよかったじゃないか」と思う一方で、「それでも父親は一時間も悩む時間を与えてくれたんだ」と驚きもする。
苛立ちはどうしてあんな風に人を支配するのだろうか?父親はきっと僕に早く決断してほしかっただけだ。でもその言葉には無意識の苛立ちが含まれていた。そしてその苛立ちは僕にも伝染した。僕自身も自分に苛立ちを感じていた。「どうしてこんな簡単なことが決められないんだ?」と自分を責めていた。
大人になった今でも苛立ちは時々顔を出す。それは突然現れることもあれば、じわじわと忍び寄ることもある。そしてそのたびに僕は小学生だった頃のおみやげ屋での記憶を思い出す。「早く決めろ」という父親の声。そしてそれに対する自分自身の無力感。
でも、その記憶には奇妙な温かさもある。一時間悩む時間を与えてくれた父親。その時間は長かったけれど、それでも与えられたものだった。その一時間は僕自身と向き合う時間でもあった。そしてその向き合い方は、大人になった今でも変わらない。
苛立ちは消えることなく、人間の中に居座り続ける。それは時々厄介なものだけれど、それなしでは生きていけないようにも思える。苛立ちは僕たちを動かし、考えさせる。そしてその過程で、自分自身を少しずつ知ることになる。
時計を見ると午後三時だった。僕はコーヒーを淹れて窓辺に座り、外を眺めた。遠くには山々が見える。その山々を見るたびに、小学生だった頃のおみやげ屋での記憶が頭をよぎる。そしてその記憶とともに、自分自身について少しだけ考える。それはいつものことだ。そしてその「いつものこと」が僕の日々を支えている。
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