第7話 九州プロジェクト〜ヨイ加減な百貨店人〜

 いつもの難波の喫茶店。

 古びた木のテーブルに肘をつき、日本一苦いと言われるコーヒーをすする。熱い液体が喉を通るたび、心も少しずつ覚醒していく。店内には他の客のざわめきや、奥のスピーカーから流れる軽やかなジャズが混ざり合い、外の寒風とは別の温度が漂っていた。


「武一くん、リゾート法って知ってるか」

 隣の西村部長が、手元の書類に目もくれず、唐突に口を開いた。


「え、なんですか? それ」

 武一は咄嗟に尋ねる。聞いたことはあるが、詳細は知らない。


「正しくは“総合保養地域整備法(そうごうほようちいきせいびほう)”と言うらしい。

 要するに、開発を促進するための法律や。レジャー施設を設置する事業者が、税や許認可などの優遇を受けられるようになる。つまり、地方都市での大型リゾート施設の新設を後押しして、地域振興を図るのが目的なんや」


 部長の口調は淡々としているが、その背後には九州案件にかける熱意が伝わってくる。武一は、コーヒーの苦味をかみしめながら、頭の中でその意義を反芻した。


「当社がリゾート施設を開発するんですか?」

「いや、九州で地元の事業者さんが大型リゾート施設の開発を目指していてな。全国で初めて“リゾート法”が適用された案件――『九州シープラザ』や。それをタカマツヤが応援するんや」


 武一の胸の奥で、小さな期待がふくらんだ。リゾート法の第一号案件――それは、まるで新しい時代の幕開けのように思えた。


 部長は、企画書のパースが描かれたページをめくりながら続ける。

「コンベンションホール付きの大型ホテルも建設中。それに隣接するこの大きな屋根付きドームが、宮崎シープラザの目玉や。中には人工の海辺が広がる。機械で波を作り、泳いだりサーフィンも年中楽しめるんや」


「でも、九州宮崎って言ったら、有名な海岸もあって、夏は海水浴で賑わう地域じゃないですか?わざわざこんな大型施設を作らなくても……」


 武一の問いに、部長は軽く肩をすくめる。

「このあたりは岩場が多く、広い砂浜もなくて、海水浴には向かんらしい。冬になろうと台風が来ようと、年中、夜でも海水浴が楽しめるアミューズメント施設――そういうコンセプトなんや」


 武一は心の中で頷いた。なるほど、既存の自然条件だけでは満足できない人々の楽しみを、技術で補うわけだ。そして、自分が担当するのは、施設内のお土産品物販ゾーンの開発である。プロジェクトメンバー表をめくると、パブリック設計には南港ハーバービレッジのレストランで世話になった尾形さんの名前があった。

 ――これは心強い。


 部長はさらに続けた。

「君もよく知っている、当社のグループ会社から浦本さんも参加するんや」


 浦本課長。神戸ハーバータウン開発の時、関西ガスビル隣のレストラン併設ショップ施設で一緒に仕事をした仲間だ。その時の海外視察旅行も同行しており、あの旅の記憶は今も鮮明に残っている。


 行き先はモナコ王国。施設のテーマは“グレース”――「優雅さ」や「気品」を象徴するモナコのイメージを具現化するため、関係者で現地視察を行った。モナコ国営カジノのきらびやかな光、海を見下ろす一流ホテルのメインダイニングでの食事、丘の上で食べた、和食レストランで特別に作ってもらった“おむすび”の味。まるで夢の中にいるような日々だった。


「――あの浦本さんと、また一緒に仕事ができるのか」

 武一は胸の奥が熱くなるのを感じた。久しぶりに、仕事が心から楽しみだと思える瞬間だった。



 それから半年後、1994年の秋。九州シープラザ開業の前日。武一は現地で浦本課長と再会した。巨大ドームのエントランス前で、浦本課長は屈託のない笑顔で手を振って迎えてくれる。


「久しぶりやねぇ。タケちゃんが企画して、尾形さんが設計してくれたお土産ゾーン、ばっちりできとるで」


 二人は上層階の観覧席へ向かう。下の階には白い砂浜と青い水面が広がり、ゆるやかに波が押し寄せる。人工波に戯れる若い女性スタッフたちの笑い声がガラス越しに響き、胸に明日への期待を刻む。


 しかし、その時――

「浦本さん、ちょっと来てください。問題発生です。準備中の店舗に戻ってもらえますか」


 駆け込んできたスタッフの声に、二人は急ぎ店内へ。武一はすぐに異変に気づいた。図面に記されていた什器が、どこにも見当たらない。


「直営の《タートルくん土産ショップ》の中央に置く予定のテーブル什器が、設置中にガラス部分を破損してしまった。修理に時間がかかり、明日のグランドオープンには間に合わない」


 浦本課長は驚くどころか、いつもの笑顔で頷いた。

「そうか。初日の準備には、いろいろあるもんや」


 場の空気は一瞬凍りつくが、課長は奥の倉庫から箱を抱えて戻ってきた。

「ほな、誰か会議用のテーブルでもええさかい、運んできてくれるか。店の入口に置いてや」


 手際よく什器を配置し、《タートルくんクッキー》を並べる浦本課長の姿に、武一は思わず感嘆する。現場を知り尽くした人間の、余裕と気配り。



 翌日のグランドオープン。九州シープラザは大きな混乱もなく開業した。特に評判だったのは、《タートルくん土産ショップ》前での浦本課長による試食販売。会長も満足げに笑い、

「やっぱり商売は“攻め”でいかんな。なるほど、賑わいは“作るもの”か」と感心。


 夜、上機嫌の浦本課長に誘われ、武一は宮崎市内の行きつけの居酒屋へ向かう。焼き鳥の煙が立ち込める中、課長は生ビールを手に語り始める。


「タケちゃん、百貨店の売り場に立ってたら、いろんなことが起こるのが当たり前や。これは“イカのアタリメ”やな」


 館内放送で“雨が降りそう”と聞けば傘を入口に用意する。紙袋にはビニールを二重にかぶせる。そういう地味だが確実な工夫が百貨店人の仕事。さらにお土産屋では、キーホルダー什器を百個並べる“百理論”まで。


 武一は笑いながら聞き入った。浦本課長は、ただ場を明るくするだけでなく、仕事の本質を教えてくれる。手を抜くのではなく、良い加減を知っている人――本物の「百貨店人」なのだと、改めて感じた。


「そやそや、この会社の女性社員はベッピンさんが多いで。ここで嫁さん見つけて帰ったらどうや」

「……小柳トモコさんという女性のことですか?」

 武一が恐る恐る尋ねると、課長はニヤリと笑い、テーブルに置かれた醤油瓶を指で弾きながらお約束のギャグを炸裂させる。


 ――武一の胸の中で、静かに“ガス灯”の明かりが消えた。


 気持ちを切り替え、次の案件――関空コンペに向けて、武一の目は再び現場と未来を見据えていた。



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