第3話 大阪港プロジェクト〜夢見る百貨店人〜
三人は、いつもの喫茶店にいた。
やたらに濃く苦いコーヒーの香りが漂い、年季の入った内装と家具が落ち着いた雰囲気を醸し出す。外の雑踏を遮るかのように、店内だけは静寂が保たれていた。西村部長は手元の大阪市の計画書類を広げ、ページをめくりながら静かに口を開く。
「再来年にな、大阪の東の港湾地区に、最新のアミューズメント型水族館ができるんや。都心から地下鉄で二十分。大阪の数少ない観光スポットに、新たな目玉が加わることになるで」
武一も耳をそばだてる。確かに大阪は観光名所が少ない。「大阪観光カレンダーを作ろうとしたら、正月と節分の大阪城や通天閣でネタが尽きる」――そんな冗談もあるほどだ。
「この水族館のそばには、大型商業棟も新設される。ミュージアムやホテルも併設される。海に面したアミューズメントとショッピングの一大ゾーンになるんや」
臼井課長が軽く相づちを打つ。
「まさに、アメリカ西海岸のウォーターフロント開発の再現ですな」
武一は手元の計画書に目を落とした。《商業地や宅地を基盤として、老朽化した港湾施設や工場跡地を再開発し、地域の再生をはかる》――そう記されている。
西村部長が声を張った。
「分かるか? 人々に安らぎを与える“親水空間”を整備して、快適な生活環境を創造するんや。武一君かて、海を眺めてたら気分ようなるやろ?」
――いや、自分は京都出身で、海にはあまり馴染みがない。泳ぎも得意じゃないし、“親水性”といわれても、正直ピンと来ない。
武一は苦笑した。
「全体テーマは“祝祭空間”や。フェスティバル・プレイス構想やな」
部長は熱を帯びた声で続ける。
「当社は、このプロジェクトの第三セクター運営に参加する。もう市の準備室には、うちから優秀な人材を出向させてある。ただな――この計画を仕切っとる港湾局の部長が、かなりのクセモノらしい」
臼井課長が小声でうなずく。
「市役所でも評判の人ですわ。横柄で、えらい官僚的やとか……」
タケマツヤのほかにも、京神鉄道や近名鉄道といった地元の有力企業がこのプロジェクトに参加していた。だが、皆その港湾局部長のやり方に反発していた。あまりにも強引で、上から目線の物言い。それでも、出向メンバーたちが優秀だったおかげで、最後まで解任されることはなかった。
後年――。その出向者たちは、いずれも本社に戻り、各社グループ会社のトップを務めるようになった。タケマツヤの水田、京神鉄道の田山、近名鉄道の松高。いずれも、大阪湾再開発で鍛えられた現場経験を糧に、本社に戻りやがて要職についたという。
武一はパース図を眺め、胸が高鳴る。
「タケマツヤが百貨店かショッピングセンターを南港に出店するんですか?」
西村部長がコーヒーカップを置き、言った。
「出店というより、全体プロジェクトに参画して、大型レストランや新規事業の開発やな。新規事業はこの臼井課長に任せてある」
臼井課長はタバコをくゆらせ、にやりと笑う。
「武一くん、君にはこのレストラン事業に参加してもらう」
「えっ、僕がレストランに出向ですか?」
「午後から、本社事業開発部の新しいメンバーが視察から戻る。その人に会ってくれ。詳しい話はそこでや」
「視察って、どちらへ?」
「決まってるやろ。ウォーターフロント開発の成功例――アメリカ西海岸、ボルチモアや」
午後、小さな会議室で、武一は少し肩をすくめた。目の前に座るのは、小柄な初老の男性と、秘書風の上品な女性。
「この方が、レストラン事業会社の社長、亀さんや」
亀社長は柔らかく微笑むが、その瞳の奥には確かな意志が光っていた。
「武一くん、西村部長から話は聞いていると思うが、君にこのレストランの“空間プロデュース”を頼みたい」
武一の胸の奥で、鼓動が跳ねた。
「えっ、空間プロデュース……ですか?」
思わず声が裏返る。頭の中で、カフェバーを一世風靡させた松井なんとか氏の名前がよぎった。――こんな大役、自分に務まるのか。
亀社長はにっこりと笑い、続ける。
「店舗面積は約百五十坪、客席は百五十席ほど。商業棟の一階、中央広場に面した最高の立地や。反対側には水族館。席から海の生き物も見えるで」
武一は目を見開いた。想像だけで胸がいっぱいになり、言葉が詰まる。――なんで僕に……?
亀社長は軽く肩をすくめ、柔らかく言った。
「宣伝制作部の紀伊部長と横井次長の推薦があったら、断れへんやろ」
武一の脳裏に、二人の顔が浮かぶ。
紀伊さんは「武一もやっと風呂敷を大きく広げられるようになったな」と笑い、横井さんは「次はきれいに畳むことを覚えろ」とニヤリ。――ああ、あの二人らしいな、と苦笑いするしかなかった。
武一は深く息を吸った。胸の奥で、期待と不安が渦巻く。――自分の手で、この夢のような空間を作るのか。
「もちろん、グラフィックデザイナーやインテリアデザイナーとチームでやってもらう。詳しくは彼女から連絡がある」
秘書風の女性が軽く会釈した。
後日、彼女から電話が入り、「一週間後にお二人をご紹介します」と告げられた。――どうやら、プロジェクトはすでに動き出しているらしい。
「レストランのテーマは“西海岸”。メインはアメリカンステーキ。よろしく頼むよ」
***
一週間後。武一はほとんど事務所に寝泊まりしながら、必死にプランを練っていた。壁には地図や写真、参考資料が貼られ、机の上にはイメージスケッチが散乱する。コーヒーの空き缶がいくつも積まれ、疲労の匂いが部屋に漂う。
そして迎えたプレゼン当日、小さな会議室にメンバーが集まる。
「こちらが、ロゴやメニューのグラフィックデザイン担当の林さん。そしてインテリアデザイン担当の尾形さんです」
挨拶もそこそこに、武一は自作のイメージパネルを取り出した。写真と文字を切り貼りした、徹夜の成果だった。
「ネーミングは――サンフランシスコ・フードファクトリー1990です。広場に面したテラス風の全面ガラスサッシから差し込む日差し。明るい西海岸の坂道を路面電車が走り抜ける。駅名看板、消火栓、電話ボックス……まるで映画のセットの中で食事を楽しむような、“祝祭プレイス”を作りたいんです」
説明を終えると、一同はしばらくパネルを見つめた。静寂を破ったのは、亀社長だった。
「よし、これで行こう。武一くん、すぐサンフランシスコに行って、このプランに使う大道具・小道具を買ってきてくれ。ただし、路面電車の車両はあかんで。予算オーバーや」
「尾形さん、それでよろしいですか?」
「はい、了解しました。ただし、これだけでは空間が埋まらないので、個室にはオリジナルの壁画を描いたほうがいいかと」
「私のほうで、イラストレーターを手配します」と林デザイナーがすかさず応じた。
「経費はこちらでなんとかする。――みんな、頼んだで」
そう言い残し、亀社長と秘書の女性は颯爽と退席した。
ドアが閉まると、毛利が小さく笑った。
「あの人、ファッションのバイヤーでもやってたのかな。判断が早いなあ」
「ほんとですね。百貨店人って、決めるの早いですね」
武一も、思わず同感した。――けれど、そのスピードに自分が追いつける自信は、まだなかった。
胸の奥で期待と不安が交錯する。西海岸の光と風、街の喧騒、海の匂い。自分の手で、この空間を“祝祭空間”に仕立てる――その責任の重さと、魅力の大きさに、武一の心は震えていた。
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