第29話 愛しているから

「説明して!どうして嫌いになったの?私、何をしたの?」アヤメの声が震えている。

 慶一は答えることができなかった。

 

 嫌いになった、という言葉は確かに準備して口にしてしまった。しかし、それ以上の説明をすることができない。なぜなら、それは…愛しているからこそ手放そうとしているのだと、どうやって説明すればいいのか…

「慶ちゃん!…答えてよ!」

 慶一は俯いたまま、拳を強く握りしめていた。

「いつから?いつから嫌いになったの?」アヤメの声には怒りと困惑が混じっている。

「昨日は普通だったじゃない!メッセージでも、いつも通り『お疲れさま』って送ってきたじゃない!」

 「...」

「昨日の夜、慶ちゃん『今度の週末、一緒に映画を見ようか』って言ったでしょう?嫌いな人にそんなこと言うの?」昨日まで普通に接していた人間が、突然「嫌いになった」と言い出すのは不自然すぎる。


「ねぇ、本当に嫌いなの?」アヤメは慶一の前にしゃがみ込み、彼の顔を覗き込んだ。「私の顔を見て、もう一度言ってみて」

 慶一はゆっくりと顔を上げた。アヤメの瞳が間近にあった。涙で潤んだその瞳は、彼の心の奥底まで見透かそうとしているようだ。

「嫌い...」慶一の声はかすれていた。「嫌いに、なった...」

 しかし、その瞬間、慶一の目からも涙が溢れ出した。

 アヤメは気づいた。嫌いな人に対して、涙を流すことがあるだろうか?


「嘘よ!」彼女は小さく呟いた。

「あなた、泣いてる。嫌いな人のことで泣く人なんていない」

 慶一は手で目を覆った。

「慶ちゃん、なんで嘘をつくの?」アヤメの声は優しくなった。

「何があったの?誰かに何か言われたの?」

「...」

 「桐生さん?桐生さんに何か言われたの?」慶一の肩が震えた。


 「私のこと、何か知ってるでしょう?」アヤメは続けた。「私が隠していること、知ってるのね?」

 ついに慶一が顔を上げた。その目は赤く腫れていて、まるで子供のようだ。

 「…知ってる」

 ようやく絞り出した声。

 「東京のこと、知ってる」


 アヤメの表情が変わった。驚きから、やがて諦めのような表情へと。

 「そう...」

 二人は再び沈黙した。公園の向こうから、救急車のサイレンが聞こえてきた。誰かの人生にも、変化が起きているのだろう。

 「だから?」アヤメが尋ねた。「だから嫌いになったの?私が隠していたから?」

 「違う」慶一は首を振った。

 「じゃあ、なぜ?」

 慶一は立ち去ろうとした。もう限界だ。これ以上アヤメと向き合っていては、自分の決意が揺らいでしまう。

「慶ちゃん!」アヤメが追いすがる。「私は慶ちゃんと過ごしていきたい!東京に行ったってプロになれるって分からないし…」

「逃げないで!説明して!」


 その時、慶一の中で何かが決壊した。

「逃げてるのは、アヤメの方じゃないか!夢から…」

 アヤメの目が大きく見開かれた。

「…だから、嫌いになったんだ..」彼は振り返った。

「けど、愛してる、愛してるから、愛してるから…嫌いになったんだ!!」


 慶一はアヤメに歩み寄り、その小さな体を抱きしめた。そして、彼女の唇に自分の唇を重ねた。

 一瞬、アヤメは抵抗しなかったが、数秒後、彼女は慶一を押し返そうとした。


「やめて!」

 しかし慶一は離さなかった。この瞬間が、二人にとって最後になるかもしれない。そう思うと、手を離すことができなかった。


「やめてって言ってるでしょう!」

 アヤメの声は混乱と怒りに震え、慶一の胸を強く押し返して身体を離した。

「なんなのよ!嫌いだの、愛してるだの!勝手すぎるよ!!」

 アヤメの平手が、慶一の頬を打った。乾いた音が夜の公園に響いた。


 慶一は頬を押さえながら、よろめいた。

 アヤメの手形がくっきりと赤く残っていた。

 その痛みを感じた瞬間、慶一の心が決まった。…もう後戻りはできない。


 「サヨナラ」慶一はそれだけ言うと、踵を返した。

 「待って!」アヤメが叫んだ。「話し合わないで行くの?勝手すぎるよ!卑怯よ!」


 慶一は振り返らなかった。早足で、やがて小走りになり、公園の出口へと向かった。

 アヤメは一人、ベンチの前に取り残された。


 涙で前が見えなくなり、その場にへたり込んだ。なぜこんなことになったのか、何が起きているのか、理解できなかった。

 「ひどい...」アヤメの目から涙が溢れた。「ひどすぎるよ...こんなの!」

 「バカ...」アヤメは呟いた。「バカ、バカ、バカ...」


 誰に向けて言っているのか、自分でも分からなかった。慶一に対してか、それとも、自分に対してか、この状況全体に対して…


 夜風が吹いて、涙に濡れた頬を冷やした。


* * * *


 翌日の朝から、アヤメは慶一にメッセージを送り続けた。

 『昨日は何だったの?』

 『ちゃんと説明して』

 『電話に出て』

 『お願い、話をしましょう』

 しかし、メッセージは既読にならなかった。電話をかけても、呼び出し音が鳴り続けるだけ。

 二日目、三日目...一週間が過ぎても、慶一からの返事は来なかった。


 アヤメは食欲を失い、ダンスのレッスンにも集中できなくなった。動きがぎこちなくなり、何度も同じところでつまずく。

 「流山さん、大丈夫?」中村先生が心配そうに声をかけた。「なんだか、元気がないみたいだけど」

 「すみません...ちょっと疲れてて...」

 「無理しちゃダメよ。今日は早く帰りなさい」

 家に帰っても、アヤメの心は晴れない。慶一との最後の会話を、何度も頭の中で再生してしまう。


 『逃げてるのは、アヤメの方じゃないか!…夢から』

 『嫌いになった...けど、愛してる』



 九月も末になった。

 ダンススタジオで、アヤメは一人鏡の前に座り込んでいた。レッスンは終わったが、帰る気力がない。

「流山さん!」

 中村先生の声が、スタジオに響いた。その声には、いつもと違う厳しさが含まれていた。

「まだいたの?もう9時よ!」

「すみません...」

「あのね…」中村先生はアヤメの前にしゃがみ込んだ。「東京のオーディション、締切は明日よ!」

 アヤメの肩が、一瞬震えた。

「もう一度聞くけど、どうするの?」

 アヤメは答えなかった。俯いたまま、床のリノリウムの模様を見つめていた。

「一週間前から、あなたの様子がおかしい。レッスンでもミスばかり。心ここにあらずって感じ」

 中村先生の声は、次第に厳しくなっていった。

「何があったかは知らないけど、プロを目指すなら、プライベートと仕事は分けなさい!あなたは才能があるの。でも、才能だけじゃプロにはなれない。精神的な強さも必要よ!」

 アヤメは黙ったままだった。

「返事をしなさい!」中村先生の声が大きくなった。

「明日が締切なのよ!今決めないと、もう手遅れになる!」

 それでもアヤメは何も言わなかった。

 中村先生は立ち上がった。その表情には、失望と怒りが混じっていた。


 「分かったわ!」

 中村先生は踵を返した。

 「あなたは、所詮その程度の人間だったのね!本気でプロを目指す気なんて、最初からなかったのよ。私が見る目がなかったわ!」

 スタジオの出口に向かって歩き始める中村先生。

 その背中を見た瞬間、アヤメの中で何かが弾けた。


 「先生!」アヤメは立ち上がった。

 「わ、私!東京に行きます!」

 「オーディション、受けます!東京に行って、プロになります!」


 アヤメの声は、スタジオ中に響いた。その声には、迷いがなかった。

 中村先生が振り返る。表情が、驚き、喜びへと変わった。

 「本当?本当に決めたの?」

 「はい」アヤメは涙を拭いながら答えた。「私、もう逃げません。でないと、慶ちゃんが...」

 言いかけて、アヤメは口を閉じた。まだ胸が痛む。しかし、それでも前に進まなければならない、と言い聞かせた。

 「私、頑張ります!」

 アヤメの目に、久しぶりに光が戻った。それは決意の光だった。


 「それでいいのよ。それが、本当のあなたよ」 

 中村先生が微笑んだ。

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