第27話 別れの道標

八月の蒸し暑い夜、お盆の喧騒が街から去った後の静けさが、戎橋の下に漂っていた。


 慶一は桐生と並んで川岸に腰を下ろし、道頓堀川の暗い水面を眺めていた。グリコの看板が水に映って、まるで逆さまの世界が存在するかのように見えた。


「今日は人が少ないな」桐生が呟いた。黒いパーカーの袖をまくり上げ、煙草に火をつける。「みんな実家に帰ってるのかもしれない」

「そうですね」慶一は答えた。「…僕も本当なら、母さんの店を手伝うべきなんでしょうけど」

「家族サービスも大切だが、ここでの活動も意味があるさ…」桐生は煙を川面に向けて吐き出した。「お前がいるだけで、安心する子たちもいるんだ」

 実際、その夜も数人の若者が桐生のもとを訪れていた。高校を中退した少年、家庭内暴力に悩む少女、居場所を見つけられずにいる不登校の中学生。慶一は彼らの話を聞きながら、自分なりに寄り添おうとしていた。大学で学んだ理論と、桐生から教わった実践的な対応方法を組み合わせながら。


「慶一…」桐生が振り返る。「お前、最近どうだ?」

「どうって?」

「アヤメとのこと」

 慶一の手が止まる。川面に投げようとしていた小石を握りしめたまま、しばらく黙っていた。

「上手くいってますよ…」ようやく口を開く。

「…毎週金曜日に会って、お互いの近況を話して。アヤメもダンススクールで順調に上達してるみたいだし」

「そうか」桐生の声には、どこか探るような響きがある。


「お前は幸せか?」


「え?幸せって?」桐生の思わぬ言葉に、慶一は困惑したように桐生を見た。

「まあ、、そうですね。アヤメがいてくれることで、大学生活も頑張れるし、ここでの活動にも意味を見出せるような気がしていますし、充実しています!」

 返答を無視するかの様に、桐生は煙草を川に捨て、踵で踏み消した。


「慶一、お前にとってアヤメは何だ?」


「何って?」慶一は戸惑った。

「大切な人、、です。愛してるし、必要としてます!」

「必要、か」桐生は繰り返した。「お前はアヤメを必要としている。では、アヤメにとってお前は何だろうな?」

 慶一は答えに詰まった。桐生の矢継ぎ早の質問に少し苛立ったが、当然とでも言う様に答えた。

「僕も、彼女にとって大切な人だと思います!お互いに支え合ってるというか」

「支え合う…」桐生は小さく笑った。「それは美しい言葉だが、時として残酷でもあるな」

「それは、どういう意味ですか!」突っかかる様に慶一は言い返した。


 桐生は立ち上がり、手を大きく伸ばして背筋を伸ばした。そして慶一の方を向き直る。

「アヤメから、話を聞いたことがある」


 慶一の心臓が早鐘を打ち始めた。

「いつですか?」


「少し前だ。お前との約束の時間に遅れて、俺のところに来た時に」桐生は静かに語り始めた。「彼女は迷っていた。本当の夢を追うべきか、今の生活を続けるべきか」


「本当の夢?」


「東京だ」桐生の言葉は、夜の静寂の中で異様に響いた。

「アヤメは東京に出て、本格的にダンサーになりたいと思っている。そのための具体的な話も来ているらしい」


 慶一の世界が、一瞬で崩れ落ちた。


「そんな…」声がかすれる。

「アヤメは何も言ってなかった。大阪のダンススクールで順調だって…」


「順調だからこそ、次のステップを考えているんだ」桐生は容赦なく続けた。

「大阪は所詮、ショービジネスでは地方都市だ。本当にプロを目指すなら、東京しかない。…そんな事は、自明なんだよ」


 慶一は立ち上がり、数歩よろめいた。グリコの看板の光が揺れて見えた。


「でも、なぜ僕に言わないんだ?」

「それが問題なんだ」桐生の声が重くなった。「彼女は言えないでいる。お前との関係を壊したくないから」

 慶一は桐生を見つめた。その目には混乱と苦痛が宿る。


「つまり…」桐生は続けた。

「アヤメはお前のために、自分の夢を諦めようとしている。お前と一緒にいるために、だ」


「そ、そんな…」慶一は頭を抱えた。

「そんなことをしてほしくない。でも…」

「でも?」

「僕も、アヤメが必要なんです!」慶一の声が震えた。


「アヤメがいなければ、僕は何をしていいか分からなくなる。大学でも、ここでの活動でも、アヤメがいてくれるから頑張れるんです!」

 桐生は黙って慶一を見つめていた。

「桐生さん!」慶一は必死に続けた。

「どうすればいいんですか?アヤメには夢を追ってほしい。でも、僕は彼女なしでは生きていけない。こんな僕は、エゴイストですか?」


 桐生は深く息を吸った。

「エゴイストかどうかは分からない。ただ、お前たち二人は同じ罠にはまっている」


「罠?」

「依存の罠だ」桐生は川面を見つめながら言った。


「お前はアヤメを必要とし過ぎている。アヤメもお前を失うことを恐れ過ぎている。それは愛情とは違う。むしろ、お互いの成長を阻害する」


 慶一は混乱していた。自分とアヤメの関係が、愛情ではないというのか。

「では、どうすれば…」

「まず、お前自身が自立することだ」桐生は振り返った。「アヤメがいなくても生きていける自分になること。そして、アヤメの夢を心から応援できる自分になること」


「でも、それは…」


「簡単ではないし、辛いだろう。でも、それが本当の愛だ」桐生の声には確信があった。

「相手を所有するのではなく、相手の幸せを願うこと。たとえそれが、自分から離れることを意味していても」

 慶一は長い間黙っていた。


「僕に、できるでしょうか?」

「分からない」桐生は正直に答えた。「だが、試してみる価値はある。お前が本当に成長したい、アヤメを、本当に愛している。というのなら」


「もし、本当に僕がアヤメの幸せを願うのなら、アヤメとの関係はどうなるんでしょうか?」

「それは誰にも分からない」桐生は答えた。

「別れるかもしれないし、より深い絆で結ばれるかもしれない。ただ、どちらにしても、それが正しい関係になる」


 慶一の奥深くに『自分から離れる』という桐生の言葉が、響き続けていた。



 川の向こうから、夏祭りの花火の音が聞こえてきた。二人は立ち上がり、橋の方向に歩き始めた。戎橋の階段を上がると、街の喧騒が徐々に聞こえてきて、夜の静寂から現実世界へと戻っていく。

「誰もが、人生で同じような経験をする」桐生が微笑む。

「愛している人を手放すことでしか、本当の愛を学べない時がある。それは矛盾しているようだが、人生にはそういうことが多い」


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