最終章〜別離
第25話 遠くを見つめる瞳
「二条君はなぜ社会福祉を選んだの?」
『社会福祉概論』の授業が終わると、隣りに座っていた田中美咲が尋ねた。初めての実習で一緒だった社交的な女学生だ。
「人の話を聞くのが好きだから…かな。それだけじゃ駄目だろうけど」慶一は曖昧に答えた。
「いいえ、それって一番大変で、一番難しい事だ。と私は思うの」
「そうかな…」美咲の言葉に、桐生の姿を思い出していた。
大学での勉強と並行して、慶一は桐生の活動への参加も続けていた。週に二回、グリ下で桐生のグループとボランティア活動と、月に一度の児童養護施設「ひまわりホーム」でのボランティア。
「慶一、大学はどうだ?」ある夜、桐生が尋ねた。
「とても勉強になってます。理論を学ぶことで、桐生さんがやっていることの意味がより深く理解できるようになりました」
「それは良いことだ。でも、理論と実践は別物だ。実践できなきゃ意味がない」
「例えば、今日相談に来た健斗の件」桐生は続けた。「彼の問題は単純ないじめではない。家庭環境、学校環境、そして彼自身の性格、すべてが複雑に絡み合っている。教科書に書いてある通りの解決策なんて、現実には存在しないんだ」
桐生の言葉には、いつものように深い洞察があった。
毎週金曜日の夜、御津公園で会うのが、アヤメと慶一の習慣になっていた。
5月最初の金曜日、19時。慶一が公園に着くと、アヤメはいつものベンチに座って彼を待っていた。白いブラウスに薄いカーディガンを羽織った彼女は、新緑の中で絵画のように美しい。
「アヤメ!」慶一がベンチに腰を下ろすと、アヤメは明るく微笑んだ。
「慶ちゃん!今日もお疲れ様。大学生活はどう?」アヤメがいつものように尋ねる。お決まりの台本を読んでいる様な響き、その声は、いつもと変わらない親しみやすさと心地よさだ。
「忙しいけど、充実してる!」慶一が応える。
「今週は児童福祉論のレポートがあって、夜まで図書館にいたよ。でも、勉強だけしても桐生さんがやっていることまで辿り着けない。そこが又面白いんだよ」慶一の話には、以前にはなかった熱意が込められていた。大学生活が彼にとって本当に充実したものになっていることが、その口調からも伝わってくる。
「それは素晴らしいじゃない!」アヤメは心から嬉しそうに答えた。「慶ちゃんが自分の道を見つけて、それに夢中になってるのを見てると、私も嬉しいの」
アヤメは本当に嬉しかったが、ほんの少しだけ寂しさも感じた。
「アヤメは?ダンススクールの方は?」慶一が尋ねる。
「新しい振り付けも覚えられるようになったし、先生からも『上達してる』って褒めてもらえるの…順調よ」アヤメは明るく答えた。
「それは良かった!アヤメのダンスは、いつ見ても素晴らしいからね」慶一は本心から言った。
「ありがとう!でも、ダンススクールって、思ってたより小さな世界なのね。同じような練習の繰り返しで、時々これでいいのかなって思うことがあるの。このままで本当にいいのかなって…」
その時、アヤメの目は公園の向こう、遠い何かを見つめるような表情になった。
「どういう意味?」慶一は身を乗り出した。
「いえ、なんでもない」アヤメは慌てたように手を振った。
「ただの愚痴よ。ダンサーになるって、思ってたより大変だなって。みんなレベルが高いし、自分がまだまだだって思い知らされることばかりで…」
アヤメの言葉と表情の間に、微妙なずれがあった。
「でも、君は確実に上達してるじゃないか!この前見せてもらったダンスも、以前より格段に良くなってる」慶一は励ますように言った。
「そうかな?ありがとう、慶ちゃん!でも、上手になることと、プロになることは違うのよ。プロの世界って、もっと厳しいものなのかもしれない」
そこまで話して、アヤメは少し無理をしたような笑顔を浮かべ、突然話題を変えた。
「そうそう、慶ちゃんは桐生さんのお手伝いもしてるんでしょう?」
「うん」慶一は答えた。
「この前も、家庭内暴力で悩んでる高校生の相談があって。最初は心を閉ざしてたんだけど、時間をかけて話を聞いていたら、少しずつ本音を話してくれるようになったんだ」
慶一が本当に困っている人たちと向き合い、その中で成長していることが伝わってくる。
「すごいわね」アヤメは感心したように言った。
「慶ちゃんって、本当に人の話を聞くのが上手だから。その子も、慶ちゃんだから心を開いてくれたのね」
「そんなことないよ。まだまだ勉強不足だし、桐生さんから学ぶことばかりだ」
二人の会話は、互いの近況報告から、次第に愚痴の言い合いに変わっていく。いつものように…
慶一は大学での人間関係の難しさについて話し、アヤメはダンススクールでの競争の厳しさについて語った。
「今日も授業でグループワークがあったんだけど」慶一がため息をついた。
「メンバーの一人が全然やる気がなくて、結局他の人が全部やることになったんだ。社会福祉を学ぶって言っても、みんながみんな真剣じゃないんだなって思った」
「それは大変ね」アヤメは同情的に頷いた。
「私のダンススクールにも、親に言われて嫌々来てる子がいるの。レッスン中もやる気がないから、全体の雰囲気が悪くなっちゃう」
二人にとって心地よい時間が続く…
お互いの苦労を理解し合い、慰め合うこと、現実の困難から一時的に逃避することは、甘い麻薬のような効果があった。
ずっと、この支えがあれば何とかやっていけそうな気がしていた。しかし…
慶一は気になっていたことを思い切って尋ねた。
「なんか最近、元気がないような気がするんだ」
アヤメは少し動揺した。
「そ、そんなことないよ!」彼女は慌てたように答えた。「ちょっと疲れてるだけ…レッスンがきついから…ありがとう、慶ちゃん!心配してくれて」
アヤメの微笑みは少し無理をしているように見えた。
「でも、本当に大丈夫よ。ただ、将来のことを考えると、時々不安になっちゃうだけ…」
慶一は、アヤメの表情に違和感を覚えたが、それ以上は追及しなかった。
…いや、そんな筈は無い。
慶一は、必死で予感から気を逸らした。
心地よい時間が続く様に…
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