第21話 淡い約束

「ごめん、待った?」アヤメが小走りにやってきた。


「45分経ってるけど?レッスン終わったのは1時間前じゃなかったのか?」慶一が冷たく言う。

「ネリ先生に振り付けの相談をしてて...」 アヤメの表情が曇る。

「それを連絡してくれれば良かっただけだろ!」

「ごめん...でもね、今日ね、すごく良いことがあったの!」

 瞬間、アヤメの輝く顔、レッスン後の疲れを感じさせない、純粋な喜びに満ちた表情。

 いつもの慶一なら、アヤメの笑顔を見れば嬉しくなるのに…心のモヤモヤがどうにも晴れない。


 アヤメは一瞬、慶一の顔をじっと見た。

「怒ってる?」

「別に…」

「怒ってるじゃん!…私が遅れたから?」

「そうだとしても仕方ないだろ!」

「でも、連絡したよ?」

「そうだな…終わったって。その後の連絡はなかった」

 慶一は黙って歩き始めた。

「ねぇ…」アヤメはしばらく立ち尽くした後、彼の後を追いかけた。

「あの…私ね、オーディションに推薦してもらえることになったの!NEXTプロジェクトっていう、若手ダンサー発掘のプロジェクト!」

「へえ、それは良かったな」慶一の言葉は不自然に平たく響く。


「何なのよ、その態度!」アヤメの声のトーンが変わった。「折角会えたのに…」

「その『折角』っていうのが引っかかるんだよ!」慶一は歩きながら言った。

「何が言いたいの?…ねえ、何があったの?」アヤメが再び訊ねた。


 慶一が立ち止まった。

「最近、お前と会えなくなった!」

「そりゃあ、忙しいから…ダンススクール、リハビリ、学校…それが約束でしょ。父との」

「そういう意味じゃないんだよ」慶一は言いかけて、言葉に詰まった。

 アヤメは深いため息をついた。


「私、折角、今とっても大事なこと話したんだよ!」

「大事って?…自分の事ばっかりか?」 

 慶一の中で何かが切れた。

「誰の何が大事なんだ?お前の踊りか?それともオーディションか?」


「何で、そんな言い方するの?」アヤメの声が震えた。「やっと会えたのに...」

「やっとって、お前の都合だろ!お前の時間がないからだろ!アヤメがダンススクールに通い始めてから、会う時間が減っていって…最近は、週に2回ないかだ。忙しいのも分ってる。俺はずっと待ってる。いつだって待ってる。折角の週2回…なのに、アヤメは...」言葉が途切れた。


「私が何?…私に会いに来てくれるのは嬉しいよ。でも、それは私に踊るなって言いたいの?」

 アヤメの目が潤んでいる。

「そんなんじゃない!ただ…」

 何を言えば良いのか分からなかった。アヤメとの距離がどんどん離れていく…遠くに行ってしまうような気がする。彼女の世界がどんどん広がっていく。そこに自分の居場所があるのかどうか、分からなくなってきている。

 

「もういいよ」慶一は諦めたように言った。

「何がもういいの?」アヤメの声が強まった。「何なのよ、投げやりな言い方!そういう言い方ズルいよ!ちゃんと言ってよ、思ってること」

「言ったって分からないよ」

「言ってみなきゃ、分からないでしょ!どうして分かるの?」

 2人は御津公園の街灯の下にいた。


「俺は、アヤメが、遠くに…」慶一は言葉の続きを出せずに、空を見上げた。

「私が遠くって、ここにいるじゃん!」

「そうじゃなくて。ほら、お前にはダンスがあって、新しい学校があって、新しい友達がいて…」

「だから?」

「だから、俺は…」

 慶一は声を大きくした。

「俺は…俺だって頑張ってるんだぞ!お前のために時間作って、大阪まで会いに行って…」


「『お前のために』?」アヤメの目に怒りの色が浮かんだ。

「そういうこと言うんだ。まるで私に会うのが義務みたいに」

「そういう意味じゃない!」

「じゃあ、どういう意味?」

 慶一は口を開いたが、言葉に出せず沈黙が続いた。


「もういい」アヤメはバッグを肩に掛け直した。「帰る!」

「おい、待てよ!」

「何のために待つの?また意味不明な文句言われるため?」

 アヤメが踵を返し、歩き出した。


「アヤメ!」慶一は叫んだ。

 慶一はアヤメに直ぐに追いつき、彼女の腕をつかんだ。

「待て!」

「放して!」声が震えていた。


 アヤメが振り返った瞬間、慶一はアヤメを強く引き寄せ、有無を言わせず抱きしめた。

「離して...!」

 彼女は小さく抵抗した。

 慶一は抵抗できない程に、より強く抱きしめた。


「ダメだ!俺から離れたら、ダメだ!」


 慶一は離れないどころか、彼女の顔を両手で包み、唇を重ねた。

 月明かりの下、音のしない世界の中で。


 アヤメの目から一筋の涙が流れた。


「好きだ。好きなんだ。だから、アヤメがどんどん遠くなっていくのが怖いんだ」慶一が耳元で囁く。

「バカ...」アヤメが離れたが二人とも言葉がない。

「ごめん」慶一が言った。


「ありがとう。慶ちゃん」アヤメの目には複雑な感情が映っていた。驚き、戸惑い、そして何か別のもの。

「強引にキスされて、ありがとうっていう奴が居るか!」慶一の口角が上がった。

「違うよ。キスも嬉しいけど、気持ちを話してくれて…」


「ああ、俺は、情けないけど…アヤメと違って…何も変わっちゃいない。自分が何をしたいのかもよく分からない。教室にいても勉強が手につかない。自分の居場所は何処だろう…今の俺にはアヤメしか居ない。でも…アヤメは違う。最近はお前の邪魔するばかりさ」


「私は、離れていかないよ」彼女は静かに言った。

「きっと、ずっと一緒にいられる。約束だよ!」


 アヤメの言葉が理由あってのことか、本当なのか、嘘なのか、誰もわからないだろう。


「約束だな?」

「うん、私たちは変わらない」 アヤメは小さく頷いた。


 2人は、もう一度抱きしめあった。


 街頭に浮かび上がるアヤメの髪は、肩にかかる長さで、以前のようなパープルではなく、ナチュラルな茶色に変わっていた。

 直に、夜空に再び雲が月を覆い、公園は闇に包まれた。

 

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