小原おばら家で一晩を明かした翌日、椛子なぎこはまだ布団から出れずに目を擦っている前で、ときは身支度を整えています。

「おれが出るまでに支度済んでねがっだらおいでぐかんな?」

「そんな! わたしのお世話をしてくれるって約束してくれたじゃない!」

「しでね! おめさが勝手にいいづげできたんだ!」

「昨日も一緒にお風呂入ってくれなかったのに! いけず!」

「華族様の風呂とちがっでうぢの風呂はせめだ! 二人いっぺんになんの入れっが!」

 二人で叫び合っている間に椛子の目もすっかり覚めたようです。

 お互いの顔を睨み付けていましたが、椛子の方がふっと視線を外して布団から体を引き出します。

「取りあえず顔洗ってくる」

「いってご」

 ときも椛子が怒るようには意地悪でもありませんので、ゆっくり丁寧に服を着替えて時間を潰します。

 椛子も昨日荷解きをしておりませんので、借りた寝間着を畳んで着替えたなら鞄をひょいと持ち上げてそれで何時でも出立出来るようになりました。

「とき、なにそれ?」

「鉈」

 まだ蓑を被る前のときの腰に、明らかに物騒な物を見掛けて椛子は首を傾げます。

 それをときの方はぶっきらぼうに、こんなありふれた農具の名前も知らないのかと言うように答えます。

「いや、鉈は見れば分かるけど。それ神器じゃないの。ときはおみを返上したんじゃないの?」

 神器とは、神が人々に役目を与える際、それを全うする為に神の力を分け与えた品物です。

 一般には椛子の言う通り、神器を携えているのは臣の証であります。

 それを見咎められた時はバツの悪い顔を隠すように着物の袖を頬まで持ち上げます。

「力を身に移せないだけで、道具としては民でも十全に扱えますので。父上様が心配されて、せめてこれだけは持って歩けというので有難く受け取ったのです」

 神器とは単に神の力を宿した道具ではありません。臣として神器を握る事をすめらぎに認められた者は神器の持つ力をその身体にも繋いで、正に神の権能の一端を発揮するのです。

 ときが言うには、民となった彼女はそのように人並み外れた身体機能を発揮する事は不可能なものの、神器そのものの機能は問題なく使えるとの事です。

 椛子としては、神器を持つ民など聞いた事もありませんので、目を丸くして驚いております。

「まぁ、護身用ならそれで十分過ぎるほどかもね?」

 農村で無頼漢に襲われたとしても、そのような輩は大抵が平民です。神の力を宿した鉈があればその刃を見せるだけですごすごと逃げ出すでしょう。

 椛子はひょいと顔をときの腰に寄せて、まじまじと革を何枚も鞣して重ねた鞘に収まっている神器を検分します。

「ふーん、未開の土地を開拓する力を宿した神器なのね」

「……わがんの?」

 椛子の見立て通りで今度はときが目を丸くしました。

 そもそも鉈とは、山野へ分け入るのに邪魔になる枝葉を払う道具であり、それそのものが道を切り開く事が本義であります。そのかたちに神は権能を重ねる事で人でも扱えるように拵えたのでしょう。

 小原に古くから伝わる教えにも、この鉈を用いて田畑を広げ、民が鍬を振るう土地を増やせと託されたと聞いています。

 普段のちゃらんぽらんで自分勝手な言動からは意外にしか思えないのですが、椛子は現在の華族の面々から飛び抜けるくらいに神威が高く、また神威への感受性が高いのです。

「てかさ、なんでときは臣を返上したの? 神器を持ち出すくらいなら、臣のまま行けば良かったんじゃないの?」

 臣と民では神器の扱いについてもそうですが、社会からの扱われ方も全く変わってきます。

 臣も華族と同じく品位ほんいを皇から頂きます。本来は俊玄としはるが椛子に対して命令権を持つように、普通は臣相手に民が手出しなんてしません。

 それについて答えるには少し話が長くなるので、ときは椛子の前に座りました。その拍子に鉈の重たい刃を内に抱える鞘が、ごとり、と畳を打ちますが、ときは慣れたもので座り姿勢を阻まれる事なく鉈の位置を納めています。

 ときはちょっと手首辺りを唇に掠めさせて、自分の肌に声を触れさせます。

「それについては、私が何をしたいのか……そもそもの目的についてですね、そこに関わってきます」

 ときにとって大事な話だと感じ取って椛子も膝を揃えます。

「ときのやりたいことって、美味しい林檎を作ること?」

「品種改良ですね。そもそもそれも、林檎に限ってはいないのです。現実的に林檎でやるのが相応しいと判断したまでですので」

 ときは新しい林檎を作出するのが夢、という訳ではないそうです。それは手段であり、目的ではありません。

「私はまず、神の力に頼らずとも人々が生きていけるようにしたいのです」

 そして口許を隠しながらもはっきりと、随分と危ない発言をしてきたので、椛子はしばらくの間頭の上に鴉を飛ばしてしまいました。

「え……ときちゃん、国家転覆を狙っていらっしゃる?」

「そんな馬鹿げた事は考えておりません、このおばか」

 椛子は、自分は悪くないとばかりに唇を尖らせます。

 確かにどう聞いても、ときの物言いが悪くて誤解を招いておりますもの、普段と違って珍しく椛子の方に慰めが入っても良い状況です。

「だいたいですね、日本は神の恩恵で民が暮らしているとは申しますが、お上の威光がどれ程届いていると思っておいでなのですか? 五年前に回り番で逢津おうづにも実りの神がいらしましたが、その神威を振る舞ったのは大地主の土地だけでした。勿論、逢津地方に広く祈祷もされましたが、直に儀式された地主とその他の田畑では、あからさまに収量の伸びが違ったのです」

「あー……確かに最近の神どもじゃ、日本全国全ての田んぼで収量上げますとか、無理よね」

 ときの実体験による指摘に、椛子も直に目にしてきた華族達の神威の低さで思い当たる節しかなく、すっかり弱り目になってしまわれます。

「あ、でもでも、それならわたしがやってあげようか? 逢津は大好きだもん、それくらい喜んで権能奮うよ?」

「そうやって、神が好みで贔屓して、苦労しても食べていけない民と楽しても富を増やす民とが分かれるのは、おかしな話ではありませんか? 民はみな、懸命に生きているのですよ」

「うっ」

 全てが平等に、なんて面倒臭い事しないと実現しない理想を持つような思考を椛子はしておりませんが、苦労が報われないというのは存分に身につまされます。

 権力を持つ者の気分で、命の限りを尽くしてようやく生きている者の生涯が左右される、というのは椛子からしても面白い話ではありません。

「では、民はどうすれば、神に目をかけてもらおうが、神の目に留まらなかろうが、変わらずに生きていけるようになるのか、考えたのです」

「とき……頭がいいんだね」

 ときがちらっと厳しい眼差しを椛子に向けて余計な茶々を踏み潰します。

 その視線の鋭さは鏃にも似ていて、椛子は目を反らしながら口を噤みます。

「年貢が米で出せた頃は、自分達で食べる分の田の他に余分に作っていれば良かったのです。しかし、今の政府は米ではなく銭で税金を納めろと言いますね?」

 米をそのまま出すのと、換金してから出すのでは、手間というだけでは済まない負担が農民に掛かります。

「米を売ってお金にして税金を納める訳ですが、例えば一人が一年食べるだけの米を売って銭にしたとて、その銭で買える米は一人が一年食べるには足りない量にしかなりません。米を買って売る卸の人だって食べていかなくてはならないので、その分が差っ引かれて支払われるのですから。なので、米を売れば売る程、農民は富を削り取られていくのです」

 ときの説明は随分と概略しているので、ここまで現実は分かりやすくはありませんが、結局はその方向に現実が進んでいくのは事実であります。

 食事とは万人が必要とするものでありますから、その値は万人が働いて賄える程にならなくては、万人が餓死するという事なのです。そんな本末転倒な事態に陥るような貨幣経済ではありませんので、自然、人が食うのに支払う金額とはその働きで得る収入よりも低くなる訳です。

 言い換えれば、農家に入る収入は、そうでない者が働いて得る収入よりも、自然低くなるという摂理であります。

「それなら、米よりも金になるものを作ればいい、という話になります。高く売れるものとは、みんなが欲しがるものですよね? 美味しいものはそれだけ人が求めて価値が上がります。良い作物を品種改良で生み出して、それを農民が作り、売って金にする、その中で私が手を付けやすかったのが林檎だったとそういう訳です」

「……あれ? でもそれと臣の返上となんの関係があるの? ときが美味しい林檎の木作ってそれをみんなで作ろうって言えばいいだけじゃない?」

 そんな事を言ってしまうのが、椛子の世間知らずぶりというものでしょう。

 ときも呆れをありありと顔に出して椛子に見せ付けて、だらりと手も下がってしまいました。

「おれが臣やっでだら、神の力持っでっがらできだんだって言われんべさ。同じこどなぞできやしねぇって、やる前がら突き返されんのがオヂだ」

 誰でも出来るという証明の為には、ときが何も持っていない事が条件となります。

 だから、ときは父親を説得し、脅し、一切譲らないで、姓も捨て、名の漢字も剥ぎ取り、臣も返上して、畑に林檎を植えようというのです。

 この屋敷で暮らしていれば食うに困らず、また身分ある家に嫁げばそれこそ民が絵に書いて夢に見るような幸せを手に出来た筈のときですが、自分の為ではなく広く顔も見えない人々の為にと、文字通りに身を擲っているのです。

「……とき、かっこいいね?」

 だから椛子は、今の話を聞いただけでちょっと憧れてしまいました。

 そしてやっぱりときの側で、彼女が成し遂げるものを見届けたいと思われたのです。

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