まぁまぁ、と使用人の女性に執り成しを受けて椛子なぎこは事の真相を明らかにするのを後回しに致しまして、小原おばら家の上がり框に足を上げさせてもらうことにしました。

 ときがかんじきを解いている横に椛子も腰掛けましてブーツの紐を緩めます。幾ら皮を何重にも張り合わせた高級品とは言っても、踏み出す度に降り立ての細かな雪の中へ沈んでいったのですから、椛子の足を包む絹の靴下はぐっしょりと濡れそぼっておりました。

「うわぅ……足がすさんでる……」

 寒さで凍り付いたように冷たくそして感覚のなくなっていた足が、室内の暖かさに触れて思い出したようにじわじわと痛みが沁みてくるので、椛子は拉げた呻き声を上げました。

 血行が阻害されて蝋のように白く固まっている椛子の足を見まして、小原家に仕える女性はさっと素足のまま三和土に降りてきます。

「あれまぁ。こりゃひどくなっでんなし。ちょっとお揉みしますがら」

 椛子の冷え切ったせいでつるつるとした足が両手で優しく包まれまして、掌与たなたえられた体温が確かに椛子の心を癒してくれます。

 その快さにすっかり委ねた椛子は蕩けるように床板に上半身を崩しました。

「なしてそんなになる前にいわねの」

「はぇ?」

 ときが口を尖らせてぼやいた言葉の意味が分からなくて、椛子は腑抜けた未声みこえで返してしまいました。

 それが面白くなさそうに、ときはふいっと視線を椛子から外しまして、手早く蓑を脱いで壁に掛けました。

 室温で簡単に雪は解けていきまして、蓑の裾からはぽつりぽつりと、ときの不満と不機嫌を代弁するように雫が切なく響乃ゆらのを零します。

 そのままときは廊下の奥へと立ち去ってしまいましたが、まだ外の寒さと雪で張り詰めた空気から解放されて思考がまともに戻ってきていない椛子はぼんやりとまりにその後ろ姿を見送るしか出来ていません。

 やがて使用人の甲斐甲斐しい手つきで足先にもめぐってきた血液の圧力で皮膚をむずがらせるまでになりまして、椛子は相手の手を気にしながら足を体に引き寄せました。

 それで自分の指でも土踏まずをさぐりまして、足と違って鋭敏な感覚を残していた指先で鼓動の温もりを確認されます。

「ありがとう。もう大丈夫よ」

「かしごまりましだ」

 椛子が自分の足で立つ気配を察して使用人の彼女は伸ばしていた手を恭しく下げました。そして椛子に先んじて床板の上に立ち、背筋を伸ばして待機します。

 椛子は彼女を無駄に待たせてはいけないと、すっくと両の足で立ち上がって何度か足踏みをしまして感覚を確かめます。幸い、足の裏の床板の冷たさも硬さもしっかりと感じ取れますし、体がぐらつくこともありません。

 椛子がそんなことをしている間に、丁稚奉公でしょうか、少年が一人さっと出てきまして椛子の足から脱がされた靴下を取ると同時に壁へ身を寄せて、頭を下げたまま動かなくなります。

「あれは洗いさ出してもよろしいがよ?」

「ええ。悪いけど、よろしくね?」

 椛子の足を労わってくれた女性が少年の代わりに椛子に取次をしてきますので、椛子は少年に向けて声を掛けてやりました。

 少年は思いがけないお言葉を頂いて、ばっと顔を上げて丸くした瞳を椛子に見せてしまい、すぐに慌ててさっきよりも余計に頭を上げて腰がひん曲がってしまっています。

 これ以上声を掛けると余計に恐縮した少年が酷い体勢へなっていくのを椛子は知っていますから、少年に見えないまでも薄く微笑み掛けるだけにして、やっと屋敷の奥へと繋がる廊下へと体を向けました。

「こっちざ、どうぞ。旦那様がお待ぢです」

 椛子は先導されるままに初めての屋敷に堂々と歩を進めて参ります。

 使用人に襖を開けてもらって通された座敷には壮年が一人座って待っていらっしゃいました。椛子にも記憶の端っこに見覚えがあります。

 興経が国司として逢津おうづに派遣された時期に若松市長を務めていた小原俊玄としはるにまず間違いはないでしょう。

 俊玄の左手、障子の閉められた窓とは逆側の襖は開け放たれておりまして、そちらからは熱いくらいの空気が流れ込んできます。きっと向こうでは薪ストーブが焚かれているのでしょう。その熱風を直に浴びている俊玄は茶羽織が薄手とは言っても相当に熱いはずです。そんな彼を代償に、向い合せの座布団に座った椛子はなんともちょうど良い気温で過ごせるように気遣わられておりました。

「この度は長旅、お疲れ様でございました。小原家当主の俊玄でございます」

 流石は市長を務めた実績を持つだけあって、俊玄の言葉遣いはとても聴き易いものです。

 椛子もお辞儀を返して挨拶します。

「これからお世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します。伃葦よい椛子と申します」

 二人して申し合わせたようにおもてを上げて、ふっと空気が緩む気配が交わされました。

とき、こちらへ来なさい」

 俊玄は、ぱん、と手を打ち鳴らしまして、ときを呼び付けました。

 ときも部屋の外に控えていたのでしょう、呼ばれるとすぐに椛子が入ってきた襖を開けて広い座敷に入ってきます。そのまま俊玄の隣と言うには絶妙に間を開けた場所に座布団を自分で置いて座ります。

 蓑を脱ぐと、ときは余計に小柄さが目立ちます。椛子は女性にしては背丈も男性並みにあり骨もがっしりしているのを差し引いても、ときは顔立ちからしても何処か小鹿のような嫋やかな姿をしています。

「それにしても、郡屋こおりやからの列車は雪で春まで動かないだろうと聞いていたのですが、都合よく走ったものですね」

 むっつりと黙るときの振る舞いを勘案して俊玄は率先して会話の音頭を取ります。

 椛子も気さくに話してもらえるのは好んでおりますので、にこやかに事実を答えます。

「いえいえ。動かないと言われたので、ちょっと機関車に神威を分け与えただけです。雪を吹き飛ばして走れるくらいの」

「……はい?」

「そだことしてけつかったのか」

 ただその事実というのが余りにも非常識だったので、小原親子は揃って目を丸くしました。

 今時は神と言っても、そんな気軽に神器を生み出すような神威を宿す者はほとんどいません。それを十年に一度の大雪で、これはもう往来は春の終わりまで諦めていた程なのに、軽く線路を繋いでしまうなど驚天動地も良い所です。

 そんな大掛かりな権能の使用は上へ下への手続きで年単位を求めるのが、統智とうちに定められた憲法や条例なのです。

 ときはじっと父親に視線を送ります。

 その目が雄弁に語ることには、これ、犯罪じゃねぇのがよ、と言ったところでしょうか。

 俊玄は口に出されなくても娘の疑問を過たず受け取りまして、ちょっと上の空を見上げてから曖昧に頷きます。

 その振る舞いが答えることには、まぁ、神にはある程度の独断が認められているから、と見て見ぬふりが心の安寧を齎すという消極的な意見です。

 長い物に呆気なく巻かれた父親を情けなく思って、ときははっきりと聞こえるように溜息を零しました。

 それを俊玄は咳払いで押し退けます。

「それほどの神威を使われて、随分とお疲れになられたのではないですか?」

「いえ、別に、そんなには」

 さらりと涼しい顔をして答える椛子は、どう見ても言葉通りに疲れている気配がありません。

 重ねて言いますが、機関車なんていう巨大でしかも年数が然程経っていない代物に、小原家の二人は知る由もありませんが意志を宿す神器へと召し上げられるなんていう神威は、神のいる大日本皇国であっても遠い昔に過ぎ去ったものであります。

 今の神であったなら、十人掛かりでも可能かどうか、実現しても命を落とす危険すらあると容易に想像が付きます。

 それを何のことはないと言ってのける椛子を、俊玄は恐ろしく思いつつ、これは京都の華族が排斥に動くのも納得だと理解を深めました。

「ま、まぁ、逢津にいる限りは生涯小原家で身の回りのお世話をさせていただきますので、ご安心ください」

 正三位の興経に命じられては俊玄には逆らう権利はありません。歯向かおうものならそれこそ憲兵にしょっ引かれてしまいます。

 それを差し引いても俊玄は市長の以前からお人好しで知られている御仁です。京都で何不自由なく暮らしていた女性を一人、こんな凍死の危険が身近にある逢津の地で放り出して無関心を決め込むだなんて考えもしません。

「父親の無理難題を押し付けられて申し訳なく思います。小原さんのように素晴らしい方のお手を煩わせてしまうこと、我が事と弁えていますが、重ねて心苦しいです」

 まだ少ししか話しておりませんが、椛子にも俊玄の為人ひととなりは良く伝わっております。

 子供だとしてもおかしくない年齢の椛子に対しても礼儀正しく、そして本当に実の子を案じるように気に掛けてくれるのはとても有難いことです。

とき、お前が椛子さんに付きなさい。家にも帰ってくるように」

「はぁ!?」

 前以て聞いていなかった支持を唐突に投げ付けられて、ときは咄嗟に父親に向けて反抗の意思を見せつけます。

「家にけぇれっで、んなことできっが!」

「元から家を出るのも反対だと言っているだろう、事情も出来たのだから帰ってきなさい」

「ちゃんどおみの返上までハンコ押しておいで、いまさらなに言ってけつかんの、このばかとさま!」

 大日本皇国以前からこの国では神から役目と権力を授かった臣と、何も持たない民の身分はきっちりと別たれてきました。

 それを踏襲して今の大日本皇国の戸籍では神祇臣民の四つの区分が明記されます。そして女性であるときがその身分を変更するには世帯主である俊玄が手続きするしかありません。

 書面上の話ではありますが、ときの戸籍は既に降下されているようで、それはつまり俊玄が自分で書き換えて役所に届け出たという事です。

 そこで決着した話なのに、椛子を引き合いにして引っ繰り返そうとするのはなんとも往生際の悪い事です。そんな父親に、ときは火の付いたように怒りの声を上げました。

 けれども話の火種された椛子には全く事情が飲み込めてなくて親子喧嘩を前に落ち着きなく身を揺らしています。

 伃葦家では父親は機嫌が悪くなると黙って威圧してくるばかりなので、こうして言葉が打っては打ち返されるという応酬が目の前で起こるのに慣れていないのです。

「ふ、二人共、ちょっと、ちょっと落ち着こう? ね? ね? わたしはもう家の隅っこに置いといてもらえたらそれで満足だから! ね? 喧嘩しないで!」

 どうにか口にを挟んだ瞬間に、きっ、とときに睨み付けられまして、椛子は鼻白んで思わず仰け反ります。

 ときは開きかけた口を一度ぐっと飲み込んで、麻の袖を口元に寄せました。

「椛子さんは大事なお客人ですので、そのような目に合わせるなら私がこの父親を殴って差し上げますから安心してください」

「え、それ、ちっとも安心出来ないんだけど、取りあえず殴るのはやめよ?」

 椛子は何とか炎上するときを宥めようと試みますが、ときの方は聞く耳持たずと言った様相で今度は鋭く父親に向き直りました。

「椛子さの世話すんのに、なしておれが戻っでくるひつよがあんの! あんつぁまでもねさまでもいいべさ! おれなんが一番人の世話する身分ねぇってわがれ、このおんつぁげす!」

「とぎ! おめ、お客様いんのにそんな口悪く喋んでねぇ! 女の人の世話すんのに女がいた方がいいっでどこがおかしいのか言ってみろ!」

「人がやるこどあるってわがってんのに、わざわざ邪魔すんなって話だべ!」

「おめぇがやっことでねって最初から言っでんのに、きかねごうじょっぱりはそっちだべしだ!」

「ああ、何も分からない、わたしには何も分からないよ……」

 目の前で激しく火花を散らず口喧嘩に椛子は途方に暮れてはいるのですが、それはそれとして分からない言葉を直に聴けるのがとても楽しそうでもあるのでした。

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