衝立から宴会の場へと姿を現した椛子なぎこをどなたも一拍、静かに目を見開き動きを止めるのです。それから息を取り戻したように口から漏らしてから、まるで椛子なんて見なかったというように元通りにそれぞれのお楽しみを続けられる様は、少し面白く見えなくもありません。

 それを足の一差しごとに眠る草花を芽吹かせる春の女神の振る舞いに似ていると喩えることも出来ましょうが、如何せん椛子が齎すのはまさしく水を差して冷えた空気とバツの悪い取り繕いであるのです。

「ねぇ、やっぱりわたしは引っ込んでた方がみんなのためじゃない? ご飯とか家に帰ってから台所漁るからさ」

「このような目出度い場で、華族の娘が自分で夜食を手筈するなどと言うものではない」

 居た堪れなくなったせいで余計な口を利く椛子を、繋子けいこ様の手前仕方なく先導される国津名和崎彦くにつなわさきひこは随分と言葉を選ばれて窘めます。これが障子の陰であったなら遠慮なく口汚い言葉で罵られたことでしょう。

「お華族様は外面を美しくお化粧されるのに大変苦労されていらっしゃって、お可哀想ですねぇ」

 どうせなら自分の性分を曝け出した方がまだしも好感が持てるのに、と椛子は嫌味たっぷりに前を立つ青年の背中に独り言をぶつけて差し上げました。

「いたっ!?」

 しかしその矢先に椛子の足裏に板張りのささくれが突き刺さったような痛みが走ります。勿論、華族の為に手入れされた畳の上でそのような痛みが走る物など落ちている筈はありません。

 椛子は神格こそ華族の末席ではありますが、神威は今世に並ぶ方々と比べても飛び抜けています。なのでその権能を顕しなさったのが涼しい顔で横に並んでおられる繋子様であるのをすぐに見抜かれました。

「ひどいです」

 人目があるのに繋子様に堂々と話しかけるのは憚られる、況してや批難を向けるなど畏れ多くて仕方ありませんから、椛子は潜めた声をぼそりと呟くしか出来ません。

 聞こえないように、けれど声に出されたという葛藤が滲み出たその囁きを、繋子様はしっかりと耳にお留めになられて微笑みを椛子に向けられるのです。

「あら、どうかなさって?」

 年端も行かぬのに正四位に就かれた繋子様にこうも白々しく白を切られては、椛子は追及する訳にはいきません。すごすごと、今更に口を謹んで、国津名和崎彦が手で指し示す手つかずの膳の前に振袖を降ろしました。

「数違いと下げられてなくてよかったな」

 にやにやと口角を上げる目の前の男がなんともムカついて、椛子は喉まで反論が出掛かりますが、叱られたばかりのさっきの今です、どうにか繋子様の顔を立てるという意志だけを全力で振り絞って思いの様を飲み込みました。

 その間に移り変わる椛子の表情を見られた繋子様は満足そうに頷いてから、席を共にする若者の杯に銚子ちょうしからお屠蘇を注ぎます。

「有難く頂戴致します」

 国津名和崎彦は恭しく掲げた杯にこうべを垂れてから、くいっと飲み干されました。

 そして繋子様の手が離れた銚子を今度は彼が取り、そしてちょっとばかり眉を顰めます。まだ十四の繋子様に余りに多くお屠蘇を注ぐのも憚られますが、かと言って銚子に残ったお屠蘇を自分の杯に移して空にするのも体裁が悪いです。

 そうするとその余りはどの杯に注ぐべきかと言いますと、繋子様にとっては狙い通りに、国津名和崎彦にとっては業腹なことに、椛子の膳に並べられた時のままに乾いている杯が流れとしては一番相応しくあります。

 国津名和崎彦は繋子様に気取られないようにひっそりと口から息を零し、まずは繋子様の杯に一舐め程のお返しを、ついで銚子の注ぎ口を椛子の顔に向けました。

 ここまでされて、きょとんとするのが椛子という世間知らずの引き籠りです。

 他の華族なら七つでも礼をしながら杯を持ち上げるところを、ちっとも椛子が分かっていないのに国津名和崎彦は苛立って雑に銚子を跳ねさせます。

「え、わたし?」

「文句言わずにさっさと酌を受けろ」

 口で言われてもなお戸惑う椛子は、幼子が母に伺うようにして繋子様の顔を見てしまいます。

 そこで繋子様より確かな頷きを頂いてしまっては、椛子も観念して杯を持ち上げるしかありませんでした。

 この青年もそこそこに宴に呼ばれた数を重ねた者です、銚子のお屠蘇はちょうど椛子の杯にぷくりと表面張力で膨らんでいるのにぎりぎり溢れない量でぴたりとなくなりました。

 酒を飲むのも慣れてない椛子はおっかなびっくり、張り詰めた透明の帳を崩さないように注意して、そして不格好に腰を曲げながら口から杯を迎えて一口お屠蘇を啜ります。

 けして大きなものでありませんが、音を立ててお酒を口に含んだ上に、杯を空にしないまま一旦膳に置く椛子のなってなさに、青年はやるせなさそうに息を漏らしてしまいました。

 そのような不躾の音を繋子様の耳に触れさせたと一瞬で気付いた彼は慌てて膝に付いた手を差し引いて背筋をしゃんと伸ばして取り繕いを戻します。

「このお酒きつくない? 繋子様、喉焼けない? 平気?」

「お前は何をそんなはっきりと皇の振る舞いに文句をぬかすのだ。他の者に聞かれたら首が飛ぶぞ」

 椛子の不用意な発言に華族社会にどっぷりと漬かった若造は、同席している自分まで巻き添えに遭う破目にならないかと周囲を見回します。

 幸いにもこの椛子が放置した膳はお座敷の隅も隅でしたので、宴を楽しむ方々は誰も椛子の遠慮ない声を聞き留めるような位置にはおられません。

「ほらー、やっぱりわたしは向こうに引っ込んでた方がいいんじゃないの」

 それ見たことかと椛子は前に座る青年に白い眼差しを向けます。

 全く余計なことして自らも悪評を被るかもしなくなっている彼を、椛子は心底馬鹿馬鹿しく思ってしまうのです。

 まぁでも意味もなく他者を貶めるのも気が重くなるので、椛子は膳の香の物を口に運んでそれっきり黙ることにしました。

「あ、これ、白米ってお代わりできるんです?」

 いえ、黙っていられたのは一切れの名良なら漬けでご飯を一膳かっ込むまででした。

 酒より米を求める椛子のガサツさに席を共にする国津名和崎彦は恥ずかしそうに額に手をやって首を弱々しく振ります。

 けれど繋子様はそんな開けっ広げな椛子の態度こそ好ましいところころと笑いが零れてしまう口許を振袖で隠しておられました。

 そのようにして場慣れしたお二人共が気を緩めてしまった瞬間を狙い澄ましたように、どっかりと畳を軋ませてでっぷりと恰幅の良い壮年が一人、我が物顔で若者だけの席に腰を落としたのです。

「これはこれは、寛仁ちかひと親王殿下の女御にょうご殿に、若山県知事のご子息殿。それと……ああ、歌も碌に詠めもしないで歌詠みの名手である興経おきつねの顔に泥を塗っておる行き遅れ娘か。若者同士楽しそうで何よりだが、おじさんもちょっと混ぜてもらえんかね?」

 勝手にこの場に引っ張ってきたバカ息子はともかく、繋子様にも敬意を払わず、しかも自分には真正面から泥水を被せるような物言いをしてきたクソオヤジに、椛子の額でぶちりと音が鳴りました。

 しかし隣に座る繋子様のすべすべとした掌が自身の手の甲に置かれたので、椛子はぐっと罵倒の言葉を胃に押し込めます。

「あぁん? なんだその目は? 神を養うという貴き役目を果たさずして叙勲された位をお返しもしない恥知らずの小娘が、なんのつもりでこの正二位の海八尋浪尊わたなやひろなみのみことを睨んでる? ん? 津波で家を失くしたいか?」

 高々領海の広さでしか名を上げられない神如きが何を偉そうにと、椛子はぎりと歯噛みします。

 けれどそんな心押し殺して懸命に堪える椛子の態度ですら、他の貴族を束ねる古参は気に入らなかったようです。

「態度がなってないな。そんなにデカい顔をしたいなら、歌の一つでも詠んで認めさせてみろ。それが出来なきゃ、お前はとっとと分不相応な神の座を皇にお返しして身を弁えろ」

 ダン、と椛子の右足が畳を踏み抜くと、その衝撃にお座敷の端から端までがさっと静まり返りました。

 裾が乱れてまろび出た椛子の生足の繰り出した一撃を受けて、体重を誇る海八尋浪尊も手を付いて体勢を支えています。

 繋子様が必死に、そして握力の限りに椛子の手を掴んでおられますが、それもするりと振り解いて椛子はすっくと立ち上がります。

 眼光鋭く、そして暗く、喧しいクソオヤジを見下ろした椛子の様は、それこそ津波前に深く黒く沈黙する海さながらです。

 椛子は思いっ切り眉に皺を寄せて、苛立ちで唇の端をピクピクと震えさせて、そして嫌そうに舌打ちをして一部の神々をビビらせてから、深く息を吸い込みました。

 凛と立ち姿を直し、喉の下、そこから歌が涌くのだと示すように指先を添えて、場の雰囲気を一息に飲み込みます。

 これこそ、神を顕す歌詠みの威厳だと魅せつけるような椛子の佇まいに、お座敷のどこかからごくりと生唾を飲み込む音が聞こえました。

「いかにとも

 やひろなみおるばかりには

 海津空わたつそらなる果てにとどかじ」

 これが椛子の歌です。

 海津空。それはこの世で誰も言葉にしてこなかった景色。

 椛子だけがただ独り、自らが生きている世を如実に見知って掬い上げた、全くに新しい言葉の一つ。

 未言を名付けた、椛子だけの、誰にも届かない神威の発露です。

「く、はは、くはははは!」

 それをいつも椛子は他者に笑われてきたのです。

「なんだその歌は? 全く意味が分からん。誰かこの娘の歌意が分かる者はいるか? どうだ?」

 分からないと、言われ続けています。

 そんな言葉はこの世にないと、嘲笑われています。

 お前だけの妄言だと、今も昔も貶されているのです。

「海の空とはなんだ? ん? そのように言葉を弄んで楽しいか? まるで子供だな。海の神たる儂にようもそのような中身のない歌を差し出した! 全く下らん! 儂の神威は一つも上がっておらん! 権能も増えておらんぞ! 相手に伝わらない歌など、なんの価値もないわ! それでようわたくしは神の末端でございます、などとデカい面を曝しおるわ、恥知らずの阿婆擦れが!」

 高位の神には罵倒でも他者の心を呑んで竦ませる神威が宿ります。かつての神であればこれ程に罵った言霊は呪いとなって相手を蝕んだでしょう。

 繋子様は固く握り締めて震える椛子の手を包み、せめてもの支えになれかしと願って、顔を見上げました。

 そうして見えた椛子の顔色が、思っていたように悄然とはしていなくて、いえむしろ、魔を前にした不動明王が如く赤く滾っていて、繋子様はあっと身を乗り出しました。

 けれど繋子様でさえ気付いたのはもう遅く、制止は既に届くものでありませんでした。

「おめーらがわたしの歌を理解できないのが悪いのに、こっちの責任にすんな! 上げ膳据え膳で神様やってんじゃねぇ! ばーーーーーーか!!!!!!!!」

 ああ、と繋子様が畳に身を崩されました。

 国津名和崎彦が頬を引き攣らせて頭から煙でも吐きそうな椛子を見上げています。

 海八尋浪尊は大蛸のように顔を真っ赤に沸かしています。

 椛子の発言は直接喧嘩を売ってきたクソオヤジだけに向けられたものと済まされるものではありません。

 今の華族達は、平易で定形、選ばれた言葉で歌を交わすことで、その意味を過たず送り、そして受け取ることに終始して、自分達の地位を固めているのです。

 一つの才が一人の神を引き立てる、そんな時代は遠くに過ぎ去り、自分達が思い描いた通りの権力図を実現させる、それが今華族の間でやり取りされている短歌の実情です。

 そこには、未言という今までにない存在が入り込んできては困るのです。それでは華族達は考えた通りの神威の配分が出来なくなってしまいますから。

 それを椛子はどうでもいいと思っています。自分を認めろだなんて言うつもりもありません。権力など興味ないのです。

 それでもただ誰も気にしていなかっただけで確かにこの世にある物事を、未言となったものを否定させるつもりはないのです。そこにはきちんと、それがあるのですから。

「この腐れ女が!」

 もう海坊主の怒りは罵倒では済みませんでした。

 彼の支配する八尋の海が身の内より押し寄せて、椛子に向かって浪を剥こうとしています。そして海がこの場に現れては、椛子どころかこの屋敷全てが無事では済みません。

 今にも噴き出しそうな海の気配に、華族達は我先にと周囲を押し飛ばして逃げ出します。

「八尋の波如きで届かないって言ってんだろ、このバカが!」

 けれど真っ赤な大蛸オヤジから噴き出した波飛沫はそのまま、椛子が空間を繋いだ先の、空と海が一つに繋がって青が果てしない景色に飲み込まれて消えてしまいました。

 椛子が皇から賜った神名を、未言織姫みことのおりひめと申します。

 その名が意味するところは、未言を織り成し実現させる姫君ということです。

 誰も知らぬ、途方もない数の未言達、その前にあっては大抵の脅威は軽く対処出来てしまえます。

「で? わたしはこうしてあんた如きの神威を凌駕してみせたけど、それでも神格を笠に着て威張り腐ってくださるの?」

 ダン、と今度は蛸オヤジの鼻先を踏み付けて、やはり津波前の海のように静かで深く、そして黒くて恐ろしい眼差しで腰を抜かした大馬鹿野郎を見下すのでした。

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