骨董店『無名庵』~心の茶室で紡がれる物語~
藤紫 雫
第一話① 黒楽茶碗「禿」と夫婦の再生~夕闇の誘い
夕闇が迫る頃、静子はいつものように、骨董屋「無名庵」の引き戸をくぐった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った通りに、無名庵の柔らかな灯りが浮かび上がり、まるで静子を招き入れる行灯のようだった。
引き戸を開けると、そこはいつもの静子をほっとさせてくれる風景が広がっていた。
埃を被った古い時計、使い込まれた書机、そして、静かに佇む古伊万里の壺。
所狭しと並べられた骨董品たちは、それぞれが独自の物語を秘めているよう。そして、その風景のなかには、店の奥、薄暗い隅の帳場に、店主の源さんがいた。
藍染の着物に羽織を纏い、手には古びた茶碗。その手つきは、まるで大切な宝物を扱うかのようなその手つきは、静子をほっとさせる。
無名庵は、店主の源さんが一人で切り盛りする小さな骨董屋。
気まぐれで「本日休業」の札がかけられるほかは、毎日昼下がりから深夜まで開いている。
源さんは、店を訪れる様々な客を、静かに観察していた。ふらりと立ち寄り、品定めをするように店内を巡る者。何かを探し求めるように、熱心に品物を見つめる者。そして、静子のように、どこか物憂げな表情で、一点を見つめている者。
「いらっしゃい、静子さん。今日もまた、物思いに耽りに?」
源さんは、静子に声をかけた。それは、いつもの挨拶というよりも、静子の心の奥底を見透かすような、深い洞察に満ちた言葉だった。
この人にはかなわないな。。。いつもそう思う瞬間である。
「ええ、まあ」
静子は、いつものように曖昧に答えた。しかし、その瞳の奥には、言葉にできない深い悲しみと、静かなあきらめが宿っていた。
「よろしければ、奥の茶室へどうぞ。温かいお茶をご用意します。」
源さんは、そう言って、静子をそっと茶室へと促した。
茶室へと続く細い廊下を歩く。そこは、外界とは隔絶された、静謐な空間が広がっている。
この茶室は、無名庵を訪れる誰もが足を踏み入れることができるわけではない。源さんの目に留まった者、あるいは、この茶室に呼ばれた者だけが、その存在に気づき、足を踏み入れることができる、そんな不思議な場所。予約制でもなく、特別な案内があるわけでもない。ただ、心の奥底に何かを抱えた者が、ふと、この茶室の存在に気づき、導かれ、入っていく。
床の間に掛けられた「閑坐聴松風」の軸、さりげなく活けられた季節の花、そして、静かに佇む茶道具…、それらは全て、源さんの洗練された美意識を物語っている。しかし、それ以上にこの茶室には、言葉では言い表せない、何か特別な力が宿っているように静子は感じた。
いつのまにか源さんが用意してくれた茶碗を手に取る。それは、小ぶりで、手にしっくりと馴染む、黒楽茶碗だった。表面には、使い込まれた跡が残り、まるで老人の皺のような、独特の侘びた風合いを醸し出している。
「この茶碗は、初代長次郎の作と伝えられています。銘は『
源さんの言葉に、静子は息を呑んだ。
あの有名な茶人、千利休が愛用したという茶碗。それが、目の前にある。信じられない気持ちと、言いようのない畏敬の念が、静子の胸に押し寄せる。
「なぜ、『禿』なのですか?」
静子が尋ねると、源さんは静かに答えた。
「この茶碗は、もともとは鮮やかな色で美しい景色が描かれていたそうです。しかし、長年使い込まれるうちに、その景色は消え、ただ黒いだけの、まるで禿げた頭のような姿になった。しかし、利休は、その姿にこそ、真の美を見出したというのです。利休は言いました。『美は、形にあらず、心にある』と。外側の美しさは、いつか必ず失われる。しかし、内なる美しさは、歳月を経ても変わらない。むしろ、歳を重ねるごとに、深みを増していくものだと。利休は、この茶碗を通して、私たちにそう教えているのです。」
静子は、茶碗をじっと見つめた。そこには、確かに、何もない。しかし、何もないからこそ、静子は、そこに無限の可能性を感じた。それは、まるで今の自分のようだと静子は思った。そして、気づけば静子は、深く静かに、自身の内面へと意識を沈めていった。
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