Side:人14

 修一がスマホの着信音で叩き起こされたのは、クロの引っ越し翌日の早朝だった。

 時間はまだ夜明け前で、いつも起きている時間より、三時間近く早かった。

 画面を見ると、『御船結花』と表示されていた。

「もしもし?」

「河瀬さん、朝早くからすみません!実は、起きたらクロちゃんの姿が見えなくて!」

「なんだって!?」

 寝ぼけていた頭が、一気に覚醒した。

「ごめんなさい、リビングの窓が少し開いていて、もしかしたそこから脱走したかもしれません。一応、二階と一階の店舗は見て回ったんですけど、見当たらなくて。だとしたら……」

「外に出たかも、っていうことですね。」

 これまでの二か月余り、クロはこの部屋から出ようとしたことはなかった。だが、元が野良猫なので、外に出ること自体に躊躇はないだろう。

「わかりました、すぐにそちらへ向かうので、待っていて下さい。」

 修一は電話を切ると、すぐに身支度を始めた。

 動きやすい服装になり、カバンを引っ掴んで、外に飛び出す。

「みゃー」

「うわっ!?」

 そこには、真っ黒の毛むくじゃらが座り込んでいた。

 クロだった。


 修一は結花に連絡を入れ、とりあえずクロを室内に入れた。

 以前より成長したとはいえ、まだまだ子猫だ。

 距離にして約三百メートルとはいえ、ここまで大冒険だっただろう。

「ったく、御船さんが心配してたぞ?」

 修一はクロを膝に乗せてやり、頭を撫でた。

 クロは嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。

 どうにも、クロはここで修一と一緒にいたいらしい。だが、必要な用品や餌などは、全て御船家へ持って行ってしまった。このままここに置いて出勤するわけにはいかない。

 一時間ほどして、結花がキャリーケースを持ってやってきた。

「申し訳ありませんでした。私の監督不行き届きです。」

 結花が深々と頭を下げた。

「いえ、初日だったから仕方ありませんよ。こうして、クロも無事でしたし、気にしないで下さい。」

 修一が言ったその時だった。

 突如、結花がぽろぽろと涙を流し始めた。

「私、つい、舞い上がっちゃって……前に飼ってた猫がいなくなって、父もいなくなって、しばらく一人だったから……クロちゃんは、河瀬さんの大切な家族なのに……」

 修一が驚き、その横でクロも目を丸くしている。

「御船さん、あの、泣かないで下さい。俺は怒ったりしてませんし、クロも御船さんのことが嫌いとか、そういうわけじゃないと思いますので。なぁ、クロ?」

「みゃん!」

 珍しく、結花相手にクロが愛想よく返事した。

 よく空気が読める猫である。

「すみません……」

 まだ、ぐすぐすいっているものの、とりあえず結花は泣き止んでくれた。


 そのまま、クロをキャリーケースに入れ、二人は御船家へ向かった。

 昨日の抵抗が嘘のように、クロは大人しくキャリーケースに収まっている。

 御船家へ着くと、開店時間までの間に、途中で買った朝食を二人で食べることとなった。ついでにクロも一緒にご飯だ。

「本当にすみませんでした。クロちゃんの脱走を許した上に、大泣きしちゃって……」

 結花はサンドイッチを食べながら、改めて謝罪した。

「いえ、クロのことをそれだけ思ってくれてるってことなので、俺はむしろ嬉しかったですよ。泣くほど心配してくれる人がいるなんて、あいつは幸せ者ですよ。」

 修一は極力優しく言葉をかけた。こういう局面に慣れていないので、こんな言葉くらいしか思いつかない。

「実は、以前飼っていた猫が亡くなってから、割とすぐに父も亡くなったんです。なので、一気に独りぼっちになっちゃったんですよね、私。」

 結花はぽつりぽつりと語りだした。

「つらかったですか?」

 修一が恐る恐る尋ねる。

「いえ、猫が亡くなった時は、父も体調を崩していたので、入院とかその後の葬儀とかで、つらいと感じている暇はありませんでした。父が亡くなった後は、店の経営に必死で、それどころじゃありませんでしたし……」

「そうですか……でも、それって、寂しさとかつらさを感じる余裕がなかったっていうだけの話で、心が傷ついてなかったわけではなかったんじゃないですか?」

 結花は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「……そうですね。自分では気付いてませんでしたけど、思ったより寂しかったのかもしれませんね。河瀬さんと働いたり、クロちゃんのお世話をしたりするのが、想像以上に楽しくて、ついつい調子に乗ってしまいました。その果てが今回の騒ぎですから、始末に負えませんよね。」

「みぃー」

 不意にクロが鳴いた。かと思うと、結花の体に、頭をスリスリし始めた。

「クロさんによると、そんなことないとのことです。」

 修一がそう言うと、結花はまた涙目になってきた。

「あー!泣かないで!えっと、俺にできることなら、何でもしますんで!」

 修一は大慌てだ。

 クロも、なんか必死にスリスリしている。

「本当に?」

「えっ?何ですか?」

「本当に、何でもしてくれます?」

 結花は目をウルウルさせて訊いてくる。

「勿論です!」

 修一はうんうんと頷く。

「では、今日は泊まっていってくれますか?」

「はい!……え?」

 勢いで、頷いてしまった。

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