ただひとり、こなかった
夕方の教室。
窓の外には茜色の光が差し込んでいる。
いつもは賑やかなこの場所も、今は誰も口を開かなかった。
ことはは、席に座ったまま、じっと膝を見つめている。
頬に触れる風が、じんわりと痛む。
その隣に、青あざの残る頬を押さえた梨佳。
言葉はなく、ただ目の前の机に視線を落としていた。
教室の反対側には、腕を組んだ男子がふてくされたように座っている。
三人の間に、目に見えない壁のような沈黙が横たわっていた。
やがて、ガラリと教室のドアが開く。
「失礼します……こちらです」
先生が、静かに声をかけると、
後ろからふたりの母親が教室に入ってきた。
ひとりは、小柄でやや疲れた表情の女性。
もうひとりは、ずん、と足音高く現れた、がっしりとした体格の女性だった。
そのがっしりとした方──男子の母親は、入るなり開口一番、
「アンタ、なにしとんねん!!!」
バチンッ!!と響く平手打ちの音。
「女の子2人にケガさせるなんて、アンタは鬼か!!このバカタレ!!」
男子は頭を押さえて縮こまる。
「琴羽ちゃん、梨佳ちゃん……ホンマ、ゴメンなぁ……」
怒鳴った勢いそのままに、今度はふたりに向かってぺこりと頭を下げた。
その横で、梨佳の母親は、ずっと唇を噛みしめていた。 目はどこか泳いでいて、梨佳にも、私にも、しっかりと向けられなかった。
「梨佳……どうして……」
それは自分に向けた問いだったのかもしれない。
先生が空気を立て直そうと、口を開く。
「まず、今回の件について整理させていただきます……」
だが、その声が終わる前に、男子の母親が言う。
「とにかく、このバカが鉛筆投げたのが一番悪いんや!もちろん、手を出したのはアカン事やと思う。でもな、琴羽ちゃんケガさせられて、怒るのも無理ないと思うわ。梨佳ちゃん、無理させてゴメンなぁ」
梨佳は少したじろぎながらも、小さく頷く。
「い、いえ、あたしも、ついカッとなっちゃって……ごめんなさい……」
「かまへんよ!梨佳ちゃんのお母さんも、気に病まんといてな?梨佳ちゃんは琴羽ちゃん守るために、頑張ったんやから。あぁいや、力任せに解決しようとしたんはダメな事やけど、それ以外の方法が見つからなかったんやろ。これから覚えさせたらええから!な?大丈夫やって!」
男子の母は、握ったゲンコツをグリグリさせながら梨佳の母を気遣う。
梨佳の母は、眉を寄せて俯いたまま、何も言わなかった。
先生は少し困ったように視線を巡らせた後、
ふっと息をついて言った。
「……琴羽さんのお母さんにはご連絡したのですが、
本日は、来られないとのことでした」
その場の空気が、また一段と静まった。
琴羽の瞳は揺れなかった。 ただ、膝の上に置かれた指先が、ぎゅっと握られていた。
男子の母は肩をすくめた。
「……そっか。じゃあもう、うちのは連れて帰りますわ。コラアンタ!帰ったらビンタもう一発や、ゲームも禁止!」
そう言って、息子の腕を掴むと、教室を後にした。
梨佳の母も何か言いたげに唇を開いたが、声にはならなかった。
暫くの間、沈黙が教室を支配した。真っ先に沈黙を破ったのは、梨佳だった。
「お母さん、今日は先に帰ってて……」
梨佳の母は、少しだけ目を見開くと、静かに口を開いた。
「ダメよ。あなたにも話があるの。すぐに帰るわよ」
ぶんぶんと首を振って、梨佳が言葉を繋ぐ。
「ことはと一緒にかえりたいの。お願い……」
その言葉を聞いて、梨佳の母は一つだけ空いた席に視線を移す。
それから小さなため息をついて、梨佳の頭を撫でた。
「あまり遅くならないよう、琴羽ちゃんを送ったらすぐに帰りなさいね」
梨佳の表情がふっと軽くなる。先生も、少しだけ表情が和らいでいた。
そして、大人たちは静かに教室を後にした。
教室に残されたのは、ことはと梨佳、そして夕日だけだった。
琴羽は俯いたまま、微かに唇を噛んだ。
その唇の端から、ほんの少し、血がにじんでいた。
声を出しても、届かない場所がある。
誰かを守っても、誰にも守られないことがある。
そう思った瞬間、胸の奥で、また何かが凍っていくのを感じた。
────ただひとり、こなかった。
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