靴ひもはほどかれる
にのまえ(旧:八木沼アイ)
第一話 引退の準備
バッグに入った大量のレシートが、手記を取り出す手を阻む。くそっ。ひんやりとした廊下に自分の吐息が色を付けて広がる。整理してきてから出かければよかった。もう少しで記事にできそうなのに、なのに、アレが、あいつが邪魔をする。足音は乾いていた。手記にしたためた通り、俺はこれを、世に伝えなければならない。この町の誘拐事件の真相が、ここに隠されているのに。
あれ、あそこのドア、開いていたか?さっきの車の音、誰かが肝試しに来たのか。おいおい、勘弁してくれ。今は取材中だというのに。邪魔をされては困る。どれ、少し脅かしに行くか。まともな人間なら怖くない。まともな人間なら。
〇
見覚えのない煙草に火をつける。深呼吸。吸って、
すぅーっ。
吐いて。
ふぅーっ。
俺は何をしているんだろうな。ここ数年、その問いかけが頭の中で反芻する。
〇
六年前、銀行強盗犯が人質を取って、立てこもる事件があった。新人育成期間のパトロール中に起きた事件は、新人の彼らにとって忘れられない思い出となるだろう。
近くにいたのは俺の班だけで、すぐに向かった。車の中で、彼らは口々に「なんかワクワクしますね」「本当にこんなドラマみたいなこと起きるんだ」などと言っていた。「いい加減にしろ」と一喝する。餌を求めるように鳴き喚く雛は静かになった。ただ、俺もこんなこと初めてだったので、正直、ドキドキしていた。それが不安か期待かは思い出せそうにない。
到着する。新人たちにここで待ってろと伝え、「はい」としっかり返事をした。高鳴る胸に、出迎えたのは通報通りの覆面を被った強盗犯。小さな銀行に大きなアリが一匹、砂糖菓子を奪いに来た。犯人は、ナイフを人質の首にあてながら俺の様子をうかがう。手元が震えていた。人質にとられているおばあさんの顔は恐怖と不安でいっぱいいっぱいといわんばかりだ。
「そこを動くな」
冷静に銃を構える。訓練以外でこれを人に向けたことがない。
「う、うるさい、金を用意してもらっているんだ」
彼はたじろぐ。俺の手に握られているものがナイフよりも早く人の命を奪うことのできるものと想像し始めたのか、足元が震えていた。これは逆効果だったのかもしれない。情緒が不安定になると、人間は判断を誤りやすくする。
「いいから、離れろ!」
「お、お、お前はこうなりたいのかっ!」
その瞬間、彼は勢い良くナイフを持つ手に助走をつける。
パンっ
渇いた音が小さな銀行に響きわたる。覆面に一つの風穴が空いた。彼を打ち抜いたのは弾のはずなのに、粘土の中にぐりぐりと人差し指で穴をあける感触があった。それが、気持ち悪くて仕方がない。
「ひぃ」
人質のおばさんはその場に卒倒した。少しの静寂の後、周りにいた人から拍手の音がする。
パチパチパチパチパチパチ
「よくやった」
パチパチパチパチパチパチ
「ありがとう警官さん」
パチパチパチパチパチパチ
「あんたは英雄だよ」
パチパチパチパチパチパチ
車に戻って、新人らに、「どうでしたか」と聞かれる。どうでしたかって、なんだよ。なぁ、人を殺めかけた男を殺した俺は、ヒーローなのか。子供の頃に夢に見ていたヒーローはこんなにも苦いのか。なんて言えるわけもない。桃太郎は一体どんな気持ちで自分の村に帰ったのだろう。暗澹たる思いは一ミリも抱かなかったのだろうか。
幼い頃、父親に初めてブラックコーヒーを飲まされた。まさにそんな味で、二度と飲みたくないという発言は二十年後に撤回されるのだが、この感触も二十年もすれば慣れるのだろうか。
〇
吸って。
すぅーっ。
吐いて。
ふぅーっ。
犯人を撃つ感触が今でも忘れられない。夢にまで出るようになってしまった。一年休職したが、その後の五年、パトロールがトラウマになってしまった。俺は、今から辞表を提出しに行く。思い出した。この煙草は、その前の一服だ。今までの貯金と退職金があれば少しはくいつなぐことができるだろう。短くなったタバコを灰皿に押し付け捨てる。喫煙所を出た。歩きがぎこちないのは緊張しているからだろうか。言い訳は喫煙所で計算した、あとは答え合わせの時間だ。部長の席の前、終点に到着した。
「あの」
「どうした、俺の席に何か用か」
胸にある辞表に手をかける。
「俺、警察を」
言い出そうとしたその時だった。
「今、行方不明者の情報が手に入ってな、すぐお前と鎌谷で行ってほしい。男二人で行けば、噓の通報でも舐められはしないだろう」
「...わかりました」
辞表から手を放す。辞めるのは、この仕事が終わってからにしよう。
〇
早速、鎌谷と会うことにした。鎌谷は俺の五個下の後輩で、度々仕事を共にしている。まだ新人も新人だが、頭のキレるやつだ。
「お、先輩きましたね、じゃあ行きましょう。先輩の好きなブラックコーヒー買っておきました」
気が利くやつだ。車に乗り込み、依頼者宅へと向かう。話によると、依頼者は、行方不明となったフリーライターの娘さんのようだ。女子高生のしっかりした子だと、会話した流れで思ったそうだ。母親は、どうやら亡くなっているらしい。あまりずかずかと聞けたもんじゃないが、娘さんの心中は察する。今も不安で不安で仕方がないだろう。
「あ、ここですね」
白を基調とした、お世辞にも綺麗とは言えない木造アパート。ここで二人暮らしとはすごいなと、またもデリカシーのないことを後輩は言う。
「ほら行くぞ」
「はい」
「俺は様子を見るから、お前が話の主導権を握れ」
「わ、わかりました」
チャイムを鳴らす。出てきたのは、後ろで髪を結んだ女子高生。学校帰りなのか、制服姿のままだった。
「私、いりずみ区警察署の鎌谷と申します」
「あ、えーとフリーライターの父の娘の蜂谷です」
「蜂谷さん、では少しお話を伺ってもいいですか」
「はい、こちらに」
家の中に異常は見られない。普通の家だ。壁に飾っているのは三人の家族写真。生前の母親だろうか、笑顔で写る三人の姿は幸せを表すのには十分すぎる。
「失礼かもですが、お母さまはいらっしゃらないのでしょうか」
「そうですね、母は五年ほど前に失踪しました。引き続いて父もいなくなるんなんて、思いもしなかったですけど」
「そうですか、なんかすみません」
「いえいえ、お気になさらず」
俺たちは彼女を対にして座った。机の上に何枚かの紙が入ったファイルがある。鎌谷が本題を切り出す。
「えーと、依頼内容を確認したいのですが、フリーライターのお父さんを探してほしいんだよね?」
「そうです、それで、気になったのがあって、手掛かりになるかわからないんですけど、これ...」
すると、蜂谷はファイルを手に取り、中に入っていた紙を何枚かを広げた。
「父親が残した手記です」
「ほぉ、手記ですか」
「ひとまず、これを読んでみてほしいんです」
「わかりました。蜂谷さんは先に読まれたんですか?」
「いえ、ちょっと、知るのが怖くて、誰かといる時に読もうと思いました」
「そうですか、では少し失礼」
何枚かの手記の端に血が付着している。鎌谷はまだ気づいていないようだった。
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