第21話

制服に袖を通したあと、ふと視線が机の上で止まる。


そこには、ペンで描かれたピアノの鍵盤の絵――


そっと絵に触れてみるけど、もう私の中には、以前のように、“音”を感じる事は出来ない。


ーーあの日、音楽から逃げた時からずっと。


ぎゅっと唇を噛む。

今日も、部活休んじゃおうかな.....


そんな暗い考えをカバンと一緒に背負って、私は玄関の扉を開ける。


空は晴れていた。

なのに、私の目に映る世界はどこか灰色で――

青空さえも、私を見下ろしているようで、腹立たしかった。


ため息混じりに、重たい足を引きずるようにして歩き出す。

通学路を進むたび、胸の奥に沈んでいたあの後悔が、また一つ、重りのように響いていった。



「ねぇ梓、今日も部活行かないの?」


同じ吹奏楽部の部員である恵美が、私を咎めるようにそう尋ねる。


「うん、ちょっと気分乗らないから」


「今練習してるジャズ調のアレンジ曲、ピアノがいないと進まないんだけど」


「……ごめん。私、外れてもいいから。代わりの人、探して」


その返答に恵美はむすっと唇を尖らせる。


「私は梓の音でトランペットを奏でたいの。いい加減さ、歌唱大会の事は忘れなって」


「別に、もう気にしてないよ」


「嘘つき」


私のほっぺを軽くつねる彼女。


「悔しいとき、唇噛む癖、出てるよ」


「もう、やめてよ」


恵美の手を軽く払いのける。


「皆んなが皆、桐原先輩みたいになれる訳じゃないんだから。あの人は特別!あんな状況じゃ誰だって逃げ出すって」


ズキリと、逃げ出すという言葉に反応して胸が痛んだ。

そして気づかぬうちに、ぽつりと本音が漏れる。


「どうせ私は、歌う事もせず逃げ出した臆病者だよ」


「そんな事は言ってないじゃん」


呆れた様にため息をつく恵美は、「全く」と腕を組む。


「そんなふうにグチグチしてたら、もう声かけないからね」


「いいよ別に、頼んでる訳じゃないし。ほっといて.....」


そう言って席を立ち、私は逃げる様に教室を出る。

「梓!」と恵美が呼び止めてくれる声が聞こえたけど、聞こえないふりをした。



帰り道。


茜色の空を眺めながら、私は夏祭りの出来事を思い出す。


ーーあのステージから見たこの夕焼けは、一体どんな風に映っていたのだろう。


待機場で待っている時。

場違いな男の子のせいで会場の空気は一気に冷え込んだ。


あんな雰囲気で、しかも怒った小野悠太を前に歌える訳がない。


誰もが一様に、青ざめた顔をして震えていた。


そんな中、次が自分だと気づいた瞬間。

一気に身体中から脂汗が流れて、胃が痛くなった。


無理だ。


気づいたときには、「歌えません」と口走っていた。

逃げるようにその場を離れた私に続くように、他の参加者たちも辞退を申し出る。


そう、あの人以外は。


ふと振り返った視線の先に映った桐原先輩は。

静かで、けれど凛とした決意の表情を浮かべ、ただ前を向いていた。


そして、遠巻きに見たあのステージ。


感動よりも先に、胸を突いたのは、嫉妬だった。


――どうして、あそこに立っているのが私じゃないの?


本当は、私が“桐原先輩”になりたかったのに。

そうなる夢を見て、あの場に並んでいたはずなのに。


圧倒的な彼女の歌を前に、打ちひしがれる私。


それはまるで、音楽が「逃げたお前には無理だ」と現実を言い放ってくるようで。


歌が終わるころには、もう下を向くことしかできず。

私は誰とも目を合わせずに、足早に会場をあとにした。


どうして、私は挑戦もせず逃げてしまったの?

どうして、あの人は逃げ出さずに歌いきれたの?


名家クラスの、“お嬢様”のくせに。


そんな嫉妬と羨望と自己嫌悪が混じった、黒い泥の様な感情が、帰り道、私の胸の中に溜まり続ける。


帰宅して部屋に入ると、机の上には――

小さい頃、自分で描いたピアノの鍵盤の絵が沈みかけた夕陽に照らされ、佇んでいた。


家にピアノがなかった私は、それが唯一の“楽器”


高校生になった今でも、この上で何度練習を重ねただろう。


どんなに高価なピアノでも出せない、私だけに聞こえる、世界で一番美しい音色がしていたのに。


今鍵盤を指先で触っても、返ってくるのは、“トン”と無機質な、音のしない感触だけ。


ああきっと。

逃げた私は、見放されてしまったんだ。


胸の奥に溜まった黒い泥は、もう支えれないぐらい重くなっていて。


机から背を向けたまま、私は布団に横たわった。



次の日。


昨夜、嫌なことを思い出しながら眠ったせいか、目覚めは最悪だった。


いつものように身支度を整え、重たい体を引きずるようにして登校する。


教室に入ると、そこには見慣れた恵美の姿と、その隣に――全く話したこともない、“あの”演劇部部長・柳田千代さんが私を待っていた。


「鈴木梓さん、ですね」


よく通る、澄んだ声。

同学年とは思えないほど大人びた雰囲気に気圧され、思わず背筋が伸びる。


「は、はい……」


「実は、あなたにお願いしたいことがありまして」


千代さんが話し出そうとしたそのとき、恵美が割り込むように口を挟んできた。


「千代さんね、文化祭に向けた演劇部の出し物で、最後に歌を披露するらしくて。そのピアノ伴奏に梓を誘いたいんだって」


「……えっ」


あまりにも突然の誘いに、言葉が詰まる。


「お引き受けいただくかどうかは自由です。ただ、できれば今週中にお返事いただけると助かります」


千代さんが丁寧に頭を下げる。


「……何を演奏するかは、もう決まってるんですか?」


私がおずおずとした様子で尋ねると、彼女はニコッと微笑み、鞄から一枚の楽譜を取り出すと、私に手渡す。


「こちらの創作曲です。ちなみに作詞・作曲は、桐原葵さんが手がけました」


――桐原葵。


その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ね、呼吸が詰まる。


「桐原先輩も……その演劇部の出し物に出演されるんですか?」


「ええ。というより、この舞台は彼女を主役に据えています。特に、最後の歌の披露は――」


千代さんの言葉の続きを、私は上ずった声で遮った。


「……すみません。無理です、私には」


そう言って、渡された楽譜に視線を向けることなく、手のひらで押し返すようにして突き返す。


「ちょっと、梓……!」


隣で恵美が、私の制服の袖をぎゅっとつかむ。


「無理だよ、恵美。私が桐原先輩の演奏に参加するなんて……できるわけない」


千代さんは少しだけ考え込むような素振りを見せたあと、静かに頷いた。


「わかりました。無理にとは申しません。でも……今週いっぱいは待っていますので、心変わりがあれば、いつでも私まで」


そう言い終えた後、彼女はさっきの楽譜を再び私に差し出してくる。


「これは、あなたに持っていてほしい。……きっと、演奏してみたくなるはずです」


そう言い残し、彼女は教室を後にした。


――演奏してみたくなるはず、って。

そんなわけない。桐原先輩の名前を聞くだけでも、嫌気がさすのに。


そのうえ、彼女の書いた曲なんて、見たくもない。


これ以上、惨めな気持ちにさせないで。


受け取った以上、今すぐ捨てるわけにもいかず、楽譜をぐしゃっと半分に折って、カバンの奥へ乱暴に押し込むと、私は自分の席へと足を向けた。



その日の放課後。


私は恵美に引きづられるようにして部室へと足を運んでいた。


「ちょっと恵美、ちゃんと行くから!腕引っ張らないで!」


「いーや信用できない。離した瞬間走って帰っちゃいそうだもん」


そう言いながら私の腕を掴む彼女の力は強く、冗談抜きで痛い。

きっと今まで誘いを無下にしてきた怒りも籠っているのかもしれない。


「皆んな、梓連れて来たよ」


恵美と部室に入った瞬間、いくつもの視線が一斉に私に向いた。

どれも優しさの混じったものであるはずなのに、足元がすくむ。


「梓、最近休み過ぎだぞ?」


「そうそう、メンバーなんだからちゃんと来て貰わないと困るよー」


部活の仲間達が次々責める様な、でも優しい言葉を私にかけてくれる。


「皆んな、ごめん....」


私は謝りながら、ペコッと頭を下げた。


「いいよ、早く練習しよ」


「遅れを取り戻すよー」


そう言って各々が自分のパートの席に座る。


すると、技術顧問の西田先生が、私の方へ向かってきた。


「鈴木、何があったかは知らないが、真面目に来てくれないと困るぞ。ピアノの代わりは先生ができるが、お前の音の代わりはできないんだからな」


厳しくも優しい先生の言葉に、ただ私は「すみません」と答えるのがやっとだった。



練習の後、私は恵美と先生を交えある相談をする。

その内容は、あの千代さんの誘いだった。


「なんだ、鈴木にも声がかかってたのか」


西田先生の言葉に驚く私。


「私以外にも、声をかけられた人がいたんですか?」


「ああ、一年生だと三原がな。あいつサックスが吹けるからそれで声がかかったんだと」


「後はもう引退したけど三年の住吉が、文化祭の出し物でまたドラムを叩くからちょっと練習させてくれって」


「そうなんですか....」


三原さんと言えば、ご両親がジャズプレイヤーで、一年生ながらも木管楽器や金管楽器をどれも器用にこなす、吹奏楽部期待の新人だ。


住吉先輩は、その大きな体に見合った安定感あるテンポを刻むセンスを持っていて、演奏時は縁の下の力持ちとして皆から頼りにされていたっけ。


でも、その2人の名前を聞いて尚更気分が落ち込む私。


「声をかけられた中で、1番私が下手だ....」


聞けば、桐原先輩自身もプロ顔負けのピアノ奏者だという。

そんな人の前で、未熟な、しかも拗ねて捻くれた私の音が気に入られるとは到底思えなかった。


「いやいや、鈴木は技術的な巧さじゃ無くて、もっと面白い持ち味を持ってるぞ?」


「そうそう、梓が演奏する音って、次にどんなリズムが来るのか分からない時があって、ドキドキするのよね」


「それって、私が下手だから先が読めないってこと……だよね?」


アハハっと笑う先生と恵美。

いや、笑い事じゃないんだけど.....


「鈴木の音は、何ていうか、気持ちが伝わってきやすいんだ」


「その瞬間瞬間の、喜怒哀楽の感情が一音一音に乗せて伝わってくるから、他の演奏者もそれに引っ張られたり、時には対話したりして、曲自体にどんどん深みが増していく」


「クラッシックじゃ歓迎されないかもしれないけど、今練習してるジャズとかポップスなら、これ以上ないくらい強みだよね」


「要はお前の音は、“スイングしてる”んだよ。こればっかりは、どれだけ技術が上手くても持てない奴は一生持てない才能さ」


褒められているのかそうじゃないのかわからない私への評価を聞きながら、「へぇ」と返事をする。


でもなんだろう、2人のおかげで少しだけ自信が湧いてきた様な気がしてきた。


「で、どうするんだ鈴木。その演劇部の出し物に参加するなら、練習時間の調整はできるが」


「実は、迷っていて」


「どうしてよ」


「....実は」


私は、恥を忍びながら歌唱大会での出来事と桐原先輩への複雑な思いを、先生と恵美に打ち明けた。


「なるほどな」


そう言った先生の表情は、どこか笑っているようで。

恵美の方を向くと、こちらは隠す気もなく大笑いしていた。


「ちょっと2人とも!酷くないですか!?」


こっちは勇気を出して、自分の悩みを打ち明けたのに!


「いや、悪い悪い。若いなぁって思ってな」


「そんな恥ずかしい事、ちゃんと人に言えるのって梓の良いとこだと思うよ」


肩をポンポンと叩きながらなおも笑う親友に、少しだけ腹が立つ。


「でもまぁ、教師として言えるのは。是非、参加した方がいいって事かな」


少しだけ、真剣な表情になる西田先生。


「嫉妬してるって事は、裏を返せば相手を認めてるって事に繋がる。そんな人の元で演奏できるのは学びでしかない。それに、その鈴木が持ってる感情ってとても大事なんだぞ?」


「誰かに憧れてるだけの奴は絶対成長しない。なんで私はこうじゃないんだっていう、マイナスに見える思いこそが、上達への鍵なんだ」


「お前は今、もっと上にいく為のチャンスを掴んでいるんだよ」


先生の言葉がスッと胸に沁みていく。


そうだ、私はあの時。

“桐原先輩”になりたかったと思ったのと同時に。

私が“桐原先輩”ならもっとこうするって、夢の先を見ていた。


カバンの奥の楽譜が、私を呼ぶ。


くしゃくしゃになった楽譜を広げて、内容に目を通す。


ーー凄い、どんな音か想像もできない新しさと、編曲の発想。


そして何より、私の心を燃やす“熱”を、この曲から感じる。


「.....先生、私も、演劇部の出し物に参加していいですか?」


その言葉に、先生は無言で頷いた。


「恵美、私のために本当、ありがとうね」


「今更何言ってんの。友達でしょ」


その言葉に、目頭が熱くなる。


そして気づけば、胸に溜まっていた“黒い泥”は、

いつの間にか——心の炎を燃やす“燃料”に変わっていた。


その日、駆け足で帰宅して自室に戻ると、机に描いた鍵盤の前に立つ。


そっと、叩いてみると。


ほんの僅かな一瞬だけ、あの時の音色が部屋に響く。


また音楽に振り向いてもらえた気がした私は、涙を流す前に、愛した楽器の上で少し指を踊らせた。

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