歌姫 青春編
横浜 べこ
第1話
帰りの車内、弾んだ調子で話し始めたお母様。
「今日の演奏会は、本当に素敵でしたね」
「はい。一音一音に深みがあって、細やかな表現力がひしひしと伝わってきました。まるで情景が浮かぶようで」
本当は、クラシックなんてあまり好きじゃない。ただ、教養の一環としてよく連れて行かれるせいで、適当な褒め言葉だけは上手くなってしまった。
「葵もあの良さが分かるようになったか。やはり才能があるのかもしれんなぁ。どうだ、大学は音楽が学べるところに行くのもいいんじゃないか?」
私の当たり障りない発言に対し、満足そうなお父様。
意気揚々と話すその様子に、少しだけ申し訳なさを感じながらも、「いえいえ、そんな……」と場を濁す。
「音楽を学ぶのはいいことよ、葵。いずれ結婚して子どもができたら、楽器や歌を教えるのは素敵な教育になるし、趣味を通じて社交の場も広がるわ」
「おいおい良美、まだ結婚後の話は早すぎるだろう」
柔らかな笑いが車内に広がる。私もそれを壊さぬよう、手を口元に添えて静かに微笑んだ。
――聞き慣れた、いつもの会話。
お母様は、あらゆる経験は結婚とその後の人生に役立つ教養だと信じている。そしてお父様も、その考えに何の疑いも持たない。
そこに悪意は一切なくて、本気で“それが女の幸せ”だと信じているのだ。
結婚して、子を産み、夫を支え、穏やかな家庭を築くこと。それも一つの幸福の形だとは思う。でも、本当にそれだけが人生なのだろうか?
その疑問がふと胸に浮かぶたび、首を真綿で締め付けられるような息苦しさに襲われる。
……こんなことを考える私は、きっと罰当たりだ。
両親は真剣に、私のことを思ってくれている。私以上に、私の将来を案じてくれている。
裕福な環境と優しい両親に恵まれたこと。それだけで神様に感謝すべきなのに、不満を抱くなんて。
そう自分に言い聞かせながら、私たちを乗せた田沼さんの運転する車は、静かに自宅へと到着した。
ドアは当然のように開けられ、私たちもまた当然のように車から降りる。
玄関の扉が勝手に開く――もちろん、魔法なんかではなく、誰かが開けてくれたのだ。
上着に手をかけただけで、使用人の方たちがそれを受け取り、荷物も前を向いているうちにすべて片付いていく。
……ああ、なんて恵まれた生活。
それなのに、心のどこかに、うっすらとした違和感が残る。
「これくらい、自分でもできるのに」――そんな思いは、胸の奥に押し込めた。
いつものように微笑みを崩さず、自室に戻った私は、服も脱がずにベッドへと倒れ込む。
全身にまとわりつくような気怠さに、はぁ……と小さなため息が漏れた。
時計の針は、すでに22時を指している。
今日は少し、長い演奏会だったな――。
微睡む頭でぼんやりとそう思っていると、ふと、机の上に置いたままになっていたラジオのことを思い出す。先日、叔父様から頂いたものだ。
“音がとてもいい”らしい。
私はそのラジオに手を伸ばし、電源を入れた。
ダイヤルを回し、少しずつ雑音の中からクリアな周波数を探していく。
普段ラジオはあまり聞かないから、局の周波数なんて知らない。手探りで少し苦戦したけれど、やがて人の声がスピーカー越しに聞こえ始めた。
「さあ、次に紹介するのは、来月武道館で初公演を行う、イギリス発のバンド・エンプレスより――『ザ・リビング・ラプソディ』です」
紹介の声のあと、ほんの少しの静寂。
その次の瞬間、私の目の前いっぱいに“音楽”が広がった。
オペラ調の構成にも関わらず、空き缶を叩いたような音や、何かが割れるような不協和音――楽器とは思えないような音まで散りばめられている。
けれど、それらが奇跡のように混ざり合い、混沌の中に調和を見出していた。
訳もわからないまま、私は一気にその音の世界へ引き込まれる。
――これ、本当に今、現実で流れてる音なの?
戸惑いを隠せない私に、さらに衝撃が押し寄せた。
それは、音楽の中で突然中心に現れた、ボーカルの“声”。
極彩色のメロディすら脇役にしてしまうほど、圧倒的な存在感だった。
ボーイソプラノのように透明で突き抜ける高音。
でも、その声は確かに成熟した大人の深みも併せ持っていた。
彼が成人男性だということを、一瞬本気で忘れそうになる。
独特のリズム、次のフレーズの予測がつかない高揚感。
一音ごとに胸が高鳴り、耳をそばだてる。
そして、何より――この声量。
オペラ歌手にだって劣らないそのパワーが、スピーカー越しに私の胸を震わせた。
曲が終わるころには、私は息を呑んだまま、ラジオにかじりつくように身を乗り出していた。
ラジオを握りしめていた両手に、熱がこもる。
さっきまで体を包んでいた倦怠感は跡形もなく消え去り、胸の奥に火が点いたように、熱い血が全身を駆け巡っている。
今まで聴いてきた“綺麗で整った音”じゃない。
色とりどりの音が入り乱れ、常識を打ち破るような鮮烈な音楽だった。
ごちゃ混ぜで、破天荒で、それなのに芸術的で、完全にオリジナルだった。
そして、拒絶なんて許されない。
暴力的なほど、心をぐっと掴まれる“声”。
――今、この瞬間。
私は、新しい自分に生まれ変わったのだと感じた。
過剰な表現かもしれない。けれど、そう思わずにはいられなかった。
コンコン――
部屋の扉がノックされる。
その音に、びくっと体が跳ねた。
「葵様。お風呂のご用意ができましたので、どうぞお入りくださいませ」
「わ、分かりました。すぐに参ります!」
動揺が混ざって、少し上ずった声になってしまう。
明日は学校だ。早く寝支度を整えなくては。
慌ただしく階段を降りながら、ふとひとつの考えが浮かぶ。
――明日、花子先生に聞いてみよう。あの曲のこと。
たしか「エンプレス」って名前だったはず。
いつもは少しだけ憂鬱な学校が、たったそれだけの理由で楽しみに思えてくる。
……我ながら単純な性格だな。そんなふうに思いながら、私は足早にお風呂場へ向かった。
湯船に浸かってもリラックスはできず、頭の中で延々とあの曲が流れる。
あんな音楽もあったんだ。そして私はこんなに音楽が好きだったんだと、反芻するように思いを噛み締めた。
*
次の日。
いつもより少し遅く目覚めた私は、手早く化粧台の前で身支度を整え、ダイニングへ向かった。
食卓にはすでにお母様とお父様、そして先週帰省してきた葉月お姉様の姿があった。
「葵、おはよう」
葉月お姉様が穏やかに挨拶してくれる。
「おはようございます、葉月お姉様」
「葵、少し目の下にクマができてるわね。昨夜はよく眠れなかったの?」
お母様が少し心配そうに尋ねる。
「い、いえお母様。昨日の演奏会があまりにも素晴らしくて……思い返していたら、少し寝つくのが遅くなってしまって」
「はは、葵の感性は本当に豊かだな。その気持ちは大事にしなさい。さ、朝食にしよう」
お父様の声に促されて席につくと、すぐに食事が運ばれてくる。流れるような所作でサーブされる朝のひととき。
話題は、葉月お姉様の結婚相手のこと。病院を継ぐお兄様の努力。私の進学の相談。
どれも思いやりに満ちた、穏やかな会話ばかりだった。
不快ではない。嫌いでもない。けれど、どこか――自分がこの空気に溶けきれていない気がした。
お姉様は本当に、両親の決めた結婚相手に納得しているのだろうか。まだ一度しかお会いしていないと聞いたけれど。
お兄様もまた、病院の跡継ぎとして、医学だけでなく経営や地元議員との付き合いに追われている。子どもの頃、目を輝かせて語っていた「1人でも多くの人を救いたい」という夢は、どこへ行ってしまったのだろう。
みんな笑顔だ。だけど、その裏にある吐き出したい“何か”を、誰も語ろうとしない。
それとも、こんなことを考える私の方が、間違っているのだろうか?
綺麗に焼き上げられたオムレツが、妙に味気なく感じる。
黄金色のスープも、新鮮なサラダも、どこか満たされない。
朝食は静かに終わり、家族はそれぞれの予定へと散っていく。
私も制服に着替え、歯を磨き、登校の準備を整える。
少しだけ時間が押してしまった。急がなきゃ。
自宅から学校までは、歩いて十五分ほど。
両親からは車での送迎を提案されたけれど、それだけは頑なに固辞した。
登下校くらい、自分の足で歩いていたい。
せめてこの時間だけでも、誰の目も気遣わずにいられる“自由”がほしかった。
結局、お姉様が間に入って説得してくれて、このささやかな私の時間を得ることができたのだ。
お姉様は、困った時はいつも優しく手を差し伸べてくれる、数少ない理解者だ。
きっと、この胸の内も……本当は気づいているのだろう。
いつか打ち明けられる日がくるといいな――と、意気地なしの私は思う。
「いってきます」と使用人の方たちに挨拶をして、玄関を後にした。
昨日の夜に聴いたあの曲を口ずさむと、足取りが自然と軽くなる。
あの音楽を知る前と後で、世界の色が変わってしまったみたいだ。
この姿を見られたら、お母様には「はしたない」と怒られるかもしれない。
でも……この喜びを抑えれるほど、私はまだ“大人”じゃないから。
十五分の道のりは、あっという間だった。
校門が見えた所で軽く息を整え、気持ちを切り替える。
その時。
黒いセンチュリーが私の横をゆっくりと通り過ぎ、前方で停車した。
「葵さん! おはようございます!」
車のドアから姿を現したのは、武藤議員の娘――武藤楓さんだった。
「楓さん、おはようございます」
「昨日の演奏会、とても素晴らしかったですわよね! もしよかったら、感想をお話ししませんか? 私もここからは歩きますし」
そう言って、運転手に「いいでしょう?」と問いかける楓さん。
にこやかにうなずく運転手に背中を押され、楓さんは明るい笑顔でこちらに駆けてくる。
……もう少しだけ、一人でいたかった。
でも、彼女には悪気なんて一切ない。
純粋な好意で、話しかけてくれているのだ。
私はにこやかな笑みを浮かべ、楓さんの隣に並んで歩き出す。
オーケストラの演奏の素晴らしさや、印象的だったフルートの音色の話など、当たり障りのない話題を交わしながら。
――楓さん。あなたと、あの曲の話ができたらどれほど楽しいでしょう。
けれどきっと、あなたは知らないですよね。
もし機会があれば、いつかすすめてみよう。
そう心の中でそっと誓いながら、私たちは校舎の中へと入っていった。
教室にはすでにほとんどのクラスメイトが揃っていて、私たちが入ると皆が朝の挨拶を交わしてくれる。
この学校自体はごく普通の公立高校なのだけれど――このクラスだけは少し、特別だ。
集められているのは、地元でも名の知れた裕福な家庭の子どもたちばかり。
一般的な家庭の生徒はほとんどおらず、雑務の補助などを担うために、ごく一部の子が“配置”されているだけだった。
他クラスの生徒たちも、私たちとは必要最低限の関わりしか持たない。
学校行事で顔を合わせることはあっても、それ以上親しくなることはない。どこか、割り切られているのだ。
文字通り――ここには“
先生たちも、どこか遠慮がちに接してくる。
ちょっとした発言や対応が、名士の耳に入り異動や降格に繋がるかもしれないからだろう。
まるで壊れやすいシャボン玉のように、優しくそっと扱われてきた私たち。
気づけばもう、卒業まであと一年。
挫折も苦悩も知らない、丁寧にラッピングされた箱庭での三年間。
きっと大学に行けば、今以上に家柄の差が色濃く出るのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら窓の外を眺めていると、先生が教室に入り、朝のホームルームが始まった。
先生の声を遠くに聞きながら、私の“いつも通りの一日”が静かに始まる。
*
昼休みになり、私は音楽室へと向かう。
扉を開けると、そこには花子先生が次の授業の準備をしている最中だった。
「あら、葵さん。どうしたの?」
「先生、今お時間大丈夫ですか? ちょっとお尋ねしたいことがあって」
「ええ、いいわよ」と先生が穏やかに微笑んで手を止め、席に腰を下ろす。
私もその隣に座り、昨夜ラジオで聴いた「エンプレス」の話を切り出した。
「あら、葵さん。私もあのバンド、大好きよ」
いたずらっぽく笑う先生。その笑顔につられて、私も思わず吹き出してしまう。
「今まで聴いたどんな音楽よりも衝撃的で……感動と一緒に、憧れまで抱いてしまいました」
「それは素晴らしいことね。......そんなに気に入ったなら、私の家にアルバムがあるから、明日持ってきましょうか?」
「えっ、いいんですか?」と思わず身を乗り出してしまった。やっぱり花子先生は素敵だ。
誰に対しても誠実で、生徒と同じ目線で考えてくれるけど、叱るときは叱り、褒めるときはしっかり褒めてくれる。
疑問には真剣に向き合い、答えてくれる。
当たり前のようでいて、実はとても難しいことを、先生は自然にやってのけるのだ。
そのせいか、私たちのクラスの生徒からは敬遠されていると聞いた。
何度か苦情も出たらしいけれど、その都度毅然とした態度で返し、黙らせてしまうという。
戦時中から戦後の混乱を生き抜いたという話は、決して伊達じゃない。
私の稚拙な感想にも、先生は終始穏やかに耳を傾けてくれた。
そして、思わず口にした、
「私も、あんなふうに歌ってみたいです」
と放った言葉に、先生はポンと手を打ち、まっすぐな声で言った。
「なら、やってみましょう!」
突然の提案に動揺する私。
「え、いや、そんな……急に無茶です先生。それに私なんかが、あんなふうに歌うなんてできっこない……」
「どうして? 何事もやってみないと分からないわ。まずは“やりたい”と思う気持ちが大事よ」
そう言って先生はピアノの前に座り、鍵盤の蓋を開ける。
「さぁ、たしか昨日聴いた曲は『ザ・リビング・ラプソディ』でしたよね。葵さんなら、最初のフレーズくらい歌えるんじゃない?」
そう言うと、先生の指が鍵盤を滑り、流れるように伴奏が始まる。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて制止する私に、先生は優しく微笑んだ。
「葵さん、今ここには私とあなたしかいないのよ。何も遠慮することないし、恥ずかしがることもないわ」
力強いピアノの旋律が音楽室に響き、私の心をグッと押す。
――本当に、歌ってみたいの?
そう自分に問いかける間にも、先生の手は滑らかに鍵盤の上を踊る。
私のために、先生は本気で伴奏をしてくれている。
ならば、私も応えなければ。
喉の奥で震える小さな声を、そっと押し出す。
でも、やっと出た私の声は、うろ覚えの歌詞とともに口からこぼれ落ちるばかりだった。
「俯いちゃだーめ。前を向いて、ただ楽しむの!」
先生の声が私を導く。
ピアノの音が一層激しさを増し、その音圧に身を任せるように私は飛び込んだ。
すると、地面に吸い込まれていた私の声が、まるでよくできた紙飛行機のようにスーッと前へ響き始めた。
声がリズムを捉え、歌へと変わっていく。
パリパリッ。
乾いた殻が割れるような小気味よい感覚が全身を駆け抜ける。
浅くしか吸えなかった息が嘘のように、大きく吸い込める。
肺いっぱいに広がる酸素が、私の声をさらに遠くへ運んでいく。
より強く、より大きく、前へ――
背中を押していたピアノの音は、いつしか私の歌声を下から支える旋律へと変わる。
道標のように曲を進めるその音に導かれ、私はさらに声を響かせた。
――もっと。もっと、この喜びを表現したい。
邪魔に思えた歌詞を置き去りに、ただリズムに合わせて声を紡ぐ。
歌声と旋律が絡み合い、一体となる。
私と花子先生の思いが純粋な音となって、空間を満たしていく。
最後の一音とともに、ありったけの声を響かせると。
数瞬声がこだました後、シンとした、名残り惜しくも心地よい静寂が胸を包んだ。
ーーセッションが、終わった。
たった四分弱。
なのに、疲労は岩のようにのしかかり、汗が額を伝って落ちていく。
自分を表現するということは、こんなにも苦しくて――代えがたいほど気持ちのいいものなのか。
「どうだった?」
花子先生が優しく問いかけた。
「よく、分からないです。でもとっても楽しかった…」
言葉を飾らず、純粋な思いを口にすると、先生はニコッと笑って「私もよ」と言ってくれた。
その一言が嬉しくて、それでいてこそばい変な感じ。
あの時、私達の心は確かに繋がっていた。
年齢も時代も、思想すら超えて、無二の親友みたいに。
「先生、もしよければ」
「ええ、是非また一緒に歌いましょう!今度はギターの練習なんてどう?」
私が言い切る前に、花子先生が前のめりになって返事を返す。
きっと、先生も私と同じことを思っていたに違いない。
こうして私と先生の秘密の授業が始まり、
私の人生を変える最初の一歩となった――
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