淑女の鞭店~ウィロウズ・ラッシュ~の奥の部屋

月詠 透音(つくよみ とーね)

第一章 奥の部屋で

第1話 淑女の鞭店

 ロンドンの喧騒から少し離れた郊外、霧に包まれた石畳の小道の先に、ひっそりと佇む店があった。


 『ウィロウズ・ラッシュ ~淑女の鞭店~』


 豪華な装飾と清楚な雰囲気、このふたつを漂わせた看板が風にそよいでいる。

 淑女用の ――主に令嬢の躾を対象とした鞭――を扱う店としては珍しく、その外観はまるで貴婦人の私的な別宅を思わせる洗練された趣を湛えていた。

 調度品のならぶ店内に一歩足を踏み入れると、革と木の香りが微かに漂い、壁には熟練の職人の手による精緻な鞭が並んでいる。

 

 そこへ、貴族の母娘が訪れた。

【エレオノール・ド・クレアヴェル】38歳。黒髪を優雅に結い上げた美しい未亡人で、その瞳には知性と威厳が宿っている。深い藍色のドレスに身を包み、黒いレースの手袋を嵌めた手には扇子が握られている。


彼女の傍らには娘【マルグリッド】15歳の可憐な少女。白い絹のドレスに身を包み、金色の巻き髪が肩に揺れると、社交界デビューを間近に控えた初々しい美しさが際立つ。しかし、その表情にはどこか落ち着かぬ影が漂っていた。



 店の奥から現れたのは、鞭店の店主【ルイーズ】 若干25歳の女性であるが、栗色の髪を簡素に束ね、黒い絹のドレスに身を包んだ姿が印象的である。そのドレスは装飾を抑えたシックなもので、首元に小さな銀のブローチが光るだけ。彼女の立ち振る舞いは優雅で、冷ややかな瞳と薄い唇が知性と厳格さを際立たせていた。

 

 ルイーズは二人に深々とお辞儀をし、柔らかな声で挨拶を述べる。


「ようこそおいでくださいました、奥様、お嬢様。ウィロウズ・ラッシュの店主にございますルイーズと申します。私(わたくし)めに、お手伝いできることがあれば、どうぞお気軽にお申し付けくださいませ」


 エレオノールは扇子を手に持ったまま、静かに微笑みながらも、その視線に厳しさを湛えて応える。


「ルイーズ様とおっしゃるのね。なかなか感じの良いお店で安心いたしましたわ。私、エレオノール・ド・クレアヴェルと申します。こちらは娘のマルグリッド。実は、少し困ったことがありまして、貴女のお力をお借りしたく参りましたの」


 ルイーズは穏やかに首を傾け、丁寧に耳を傾ける姿勢を見せた。


「お困りごとでございますか? 奥様のお言葉とあれば、私めにできることなら何なりと。どのようなお話を伺いましょうか?」


 エレオノールは一瞬、マルグリッドに目をやり、娘が頬を赤らめて俯くのを確認すると、声をやや低くして語り始めた。


「実は、マルグリッドのことですの。この子、今春に社交界へデビューを控えておりますのに、近頃、困った癖を覚えてしまいましてね。……なんと言いましょうか、『手慰み』とでも申しますの? ああ、貴女にはお分かりいただけるかしら?」


 ルイーズは驚きを隠しつつも、表情を崩さず、穏やかに頷いた。


「はい、奥様。お言葉の意味、よく存じております。お嬢様のようなお年頃には、時折、そうしたことがおありかと存じます」


 エレオノールは小さくため息をつき、扇子を軽く振って言葉を続けた。


「そうなのですわ。けれど、このままでは社交界で恥をかくことになりかねません。私はこの子を厳しく躾け、立派なレディに仕立てたいのです。そのためには、貴女のお店にあるような、きちんとした品が必要かと存じましてね。娘の心に響くような、しなやかで威厳あるお鞭をいただけますかしら?」


 マルグリッドは母の言葉にますます顔を赤らめ、絹のドレスの裾をぎゅっと握りしめた。ルイーズは二人を見つめ、静かに微笑むと、棚の方へ歩み寄った。


「奥様のお気持ち、痛いほど分かりますわ。お嬢様の気品を損なわず、かつ心にしっかりと刻まれるような品を用意いたします。

 こちらをご覧くださいませ。柳の枝を模した柄に、柔らかな革を編み込んだ鞭でございます。見た目は優美ながら、その響きは確かでございますよ」


 エレオノールは鞭を手に取り、その質感と軽さを確かめながら、満足げに頷いた。


「素晴らしいですわ、ルイーズ様。これなら私の意を汲んでいただけそうね。マルグリッド、こちらへおいで。このお鞭が貴女を導いてくれるわ。社交界へ出る前に、心も体も清らかでなければなりませんもの」


 マルグリッドは小さく「はい、お母様」と呟き、恥じらいながらも母の隣に寄った。店内には、革の香りと共に、三人の女性の静かな緊張感が漂っていた。


 ■


 店内の一角で、エレオノールが手に持つ鞭を吟味している間、ルイーズは静かに微笑みながら、もう一歩踏み込んだ提案を試みた。

 彼女は棚から二つの鞭を取り出し、それぞれを丁寧に広げて見せた。

 一つは、先ほど示した柳の枝を模した柄に柔らかな革を編み込んだもの。もう一つは、黒檀の柄に深紅の革が巻かれた、より重厚で威厳ある品だった。


「奥様、こちらをご覧くださいませ。まず一つ目は、先ほどお示しした柳のお鞭でございます。しなやかで軽やか、その音色はお嬢様の心にそっと響き、優しく導くかと存じます。そしてこちら、二つ目は黒檀と紅革のお鞭でございます。見た目の気品もさることながら、その重みと響きは、より深い教訓をお体に刻むのに適しております。お嬢様の躾にお使いになるなら、この二種を揃えておかれるのがよろしいかと」


 エレオノールは扇子を軽く傾け、両方の鞭をじっくりと眺めた。その瞳には、娘を立派なレディに仕立て上げる決意が宿っている。


「なるほど、ご教示いただきありがとうございます。ルイーズ様、貴女のお言葉には確かに道理がありますわ。柳のお鞭は優雅で穏やか、黒檀のお鞭は厳粛で力強い。どちらもマルグリッドにふさわしい品かもしれませんね」


 ルイーズは一瞬目を伏せ、控えめに微笑むと、さらなる提案を口にした。


「奥様、もしお差し支えなければ、ひとつお申し出がございます。この二種の鞭の違いをよりお分かりいただくため、そしてお嬢様に相応しい躾の形をご覧いただくため、奥の部屋にて、私が手本をお示しいたしましょうか?私めに、お嬢様をこのお鞭でお導きする姿をご覧いただき、奥様のお心に適うかどうかお確かめいただければと存じます」


 エレオノールは一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに興味深げに頷いた。


「奥の部屋ですって? それはまた、思いがけないお申し出ですわ。貴女の手本を拝見するのは、確かに良い案かもしれません。マルグリッド、貴女はどうかしら?」


 マルグリッドは頬を染め、絹のドレスの裾を不安げに握りながらも小さく呟いた。



「お母様がおっしゃるなら、私、構いませんわ……」

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