第10話 金色のキツネ
お昼の十二時。
やっとの思いで山の頂上へたどり着いたわたしたちは、お昼ごはんの準備に取り掛かっていた。
「スバル、そんなもの使ったら危ないだろ」
「いやいや、料理するのに必要なものだから」
「ケガしたらどうするんだ」
「えぇ……」
あれからというもの、それはもう鬱陶しいくらいにわたしの後ろをついてくるイチくん。どうやら、さっきわたしが言っていたことが、相当彼の胸に刻み込まれてしまったのだろう。
そして、さらに過保護に拍車がかかってしまった様子……。
「イチくんっ、大丈夫だってばっ」
幸い、この場には事情を知っている人しかいないから、別にイチくんが何を言ったっていいんだけど……。
「スバルはオレのご主人様だから」
「〜〜〜っ」
彼のうしろで、見えないはずのシッポがふさふさと揺れるのが見えた。
うぅ、さっきのわたし、なんて恥ずかしいことを言っちゃったの。
「忘れてください……」
「ムリ」
「うぅ」
熱くなった顔を、パタパタと手で仰ぐ。
こんなことになるなら、あんなこと、言うんじゃなかった……っ。
と、その時。
すぐそばにある木の上で、暇そうにあくびをしていたタイガくんが、ため息をつきながら口を開いた。
「なあ、イチャイチャしてないでさ。オレのカレーはまだ?」
「なっ……!」
い、い、イチャイチャ……っ!?
「こら、二人、いい雰囲気だったのに!」
「スミちゃん!?」
しーっ!と、口もとに人差し指を置くスミちゃんも、なんだか変な勘違いをしてるみたい!
「イチャイチャなんて、してませんっ」
もう、タイガくんもスミちゃんも、こういう時にだけイジワルしてくるんだから。
「まあ、どうでもいいけど。とにかくオレ、早くカレー食べたいんだよね」
「だいたい、なんでいるんだよ?」
「イチロウには会いたくなかった!」
「はあ?」
はあ〜〜〜、と、盛大にため息をついたわたし。
「また始まっちゃった……」
「あの二人、喧嘩し出すと止まらなさそうだね」
「ごもっとも……」
腰を折ってしゃがみこんだわたしの隣で、苦笑いを浮かべたスミちゃん。
ホワイトタイガーとオオカミなんて、想像もできないような組み合わせだもんね。
独立心が強くて基本的に単独行動のトラと、集団を好む協力的なオオカミ。もしかすると、相性が悪かったりするのかもしれないな。
そんなことをぼんやりと頭の中で考えていた時。
「スバルちゃーんっ、紙皿持ってきてーっ!」
みんなで食事する広場から、同じ班の子がそう叫ぶのが聞こえた。
一気に現実に引き戻されたわたしは、慌てて立ち上がると、OKのジェスチャーを作った。
「紙皿って……あっ!」
そうだ、さっき先生が、紙皿は各班で倉庫に取りに行ってねって、言ってたんだった……!
メンバーが誰も取りに行っていない私たちの班のテーブルには、紙皿の一枚もなくて。
「忘れてたぁ……」
「あちゃあ……」
紙皿、取りに行かなきゃ……。って言っても、カレーを煮込んでいるスミちゃんはきっと、手が離せないだろう。
でも、あの倉庫、一人で行くにはちょっぴり怖いんだよね……。
「——スバル」
「わあっ!」
び、びっくりした……っ!
背後から突然聞こえた声に、思わず叫んでしまうわたし。その拍子に、勢いよく体が後ろへ傾いてしまった。
「……っと、危な」
「いっ、イチくん……」
でも、勢いがついてコントロールの効かなくなったわたしの体は、彼の大きな胸板が受け止めてくれた。
おかげで転ばずに済んだ。そう、転ばずに済んだんだよ。……けど、わたしの頭の中は、今それどころじゃないよ……っ!
「大丈夫か?」
「っ……」
バックハグをされているようなその体勢に、わたしの心臓はバックンバックン!
今日一日で、わたし、どれだけ心臓が破裂しそうになってるの……っ!
何も考えられなくなったわたしは、慌てて彼の腕から抜け出した。
「倉庫、オレも着いて——」
「い、いいっ!いいからっ、イチくんは、このにいてっ!!」
ダメだ、これ以上イチくんと一緒にいたら、わたしの心臓は耐えられない。もし次、イチくんが抱きしめてくるようなことをすれば、わたしはきっとお
首を傾げるイチくんの目の前に、手のひらをピシッと突きつける。
「ここで、待ってて」
「ヤダ」
「お願いだからっ」
イチくん、許してね。これは、わたしがわたしを守るための
このままじゃ、わたし、ドキドキしすぎて死んじゃう。
イチくんは、わたしが折れないことを察したのか、唇を尖らせて、拗ねたように渋々頷いた。
「……わかった」
——そんなわたしたちの一部始終を見ていたタイガくんは、勢いよく木から飛び降りた。
「じゃ、オレが行こーっと」
タイガくんは、イチくんに向かって、上機嫌な笑みを向けた。
* * *
「もう、タイガくん、イチくんと必要以上にケンカしないで」
「だって、アイツうるせーんだもん」
「はあ……」
倉庫への道を歩きながら、タイガくんは手を頭の後ろで組んだ。
タイガくんが、イチくんを挑発するように鼻で笑った後、意外にもイチくんは、タイガくんの挑発には乗らなかった。
ただ、すっごく大きい舌打ちはしてたけど。
ほんとに、二人を見てると、悪い意味でハラハラドキドキが止まらなくなっちゃう。
「それに、オレだってスバルと仲良くしてーんだ」
「タイガくん……」
白い髪をふわりと揺らしてニカッと笑ったタイガくん。
「イチロウ、スバルのこと独占してばっかりだから」
「えぇ……そんなことないよ」
「いーや、アイツからは、スバル大好きオーラが溢れてっからな!」
「うーん……?」
ふん!と鼻を鳴らしながらも、そんなことを言うタイガくんは、唇を尖らせた。
イチくんが、わたしを大好き……?いやいや、わたし、いつもイチくんに迷惑ばっかりかけちゃってるし……。
どちらかというと、"スバル迷惑オーラ"の間違いじゃ……?
「つーか、スバル、もうあの術は使ったのか?」
「え?」
話がコロコロ変わるなあ、と、クスッと笑いながらも、タイガくんの口から聞こえたその言葉に、わたしはぴたりと足を止めた。
「術……?」
「そう、神山の術」
「……あぁ!」
ふと、わたしの頭の中に、あの秘伝書が浮かんだ。
きっと、『神山流派術』のことだろう。
術の発動条件である『印』のイラストと、それの説明をするように並んだ文字。
タイガくんは、「そうそう」と頷きながら、空を仰ぐように視線を上に放り出した。
「神山の術ってあれ、すっげー威力らしいぜ」
「へ、へえ……」
「前回、魔物が封印された時も、術で対処したとかなんとか。……まあ、そこらへんはイチロウの方が詳しいはずだ」
お母さんから秘伝書を渡された後、あのページを見たイチくんが息を呑んでいた記憶が頭の中に蘇る。……まるで何かを知っていたような、そんな表情で。
「……まあでも、スバルには使わせたくないんだろうな、イチロウも」
「——え?なんか言った?」
「いや、なんでもない」
タイガくん、何か言ってたんだけど、小さくて聞き取れなかったや。
タイガくんが、両手で作った印を見つめながら、不安そうにため息をついたその時だった。
「——なんの話してるん?」
背後から、聞きなれない関西弁が聞こえたのは。
さっきまで足音も気配も何も感じなかったのに、急にふと現れた影に、思わず肩を跳ねさせてしまった。……けど。
なんだ、この関西弁は……。
「コンくん!」
「やあ」
「ボクもちょうど、倉庫に色々取りに行こって思っててん」
いつもと変わらない、ほがらかな笑みを浮かべてわたしの隣に並ぼうとしたコンくん。
——でもそれは、そばにいたタイガくんの鋭い声によって、止められていた。
「スバルっ!!」
「え……タイガくん……?どうしたのっ!?」
振り返ると、タイガくんはいつのまにか、ホワイトタイガーの姿へと変身していて。まるでコンくんを威嚇するかのように、全身の毛を逆立ててグルグルと唸っていたのだ。
彼のアイスブルーの瞳孔は開き切っており、完全にコンくんをロックオンしている。
「ちょ、ちょっと待って、タイガくん。コンくんは悪い人じゃないよっ?ただの友達だから!」
タイガくんが今にも飛びかかりそうなコンくんの前に立って、両手を広げる。
それでもなお、体勢を変えないタイガくん。
「オマエ……ッ、あの時の……っ!」
お腹の底から這うような、タイガくんの低い声が、ザワザワとわたしの不安を掻き立てていく。
ちょっと待って、何が起きてるの……っ?
「タイガくん、聞いてっ!コンくんは——」
「まさか、コイツにオマエを清められるほどの能力があったなんてな。思いもせーへんかったわ」
「……え?」
ポン、とわたしの肩に置かれた大きな手。それとともに耳元で聞こえる、いつもよりも数倍冷たい声。
「コン、くん……?」
「もっと知りとうなってここまで来てみれば、なんや大したことない、マヌケな女やんけ?」
「テメェッ!」
「おっと」
これ以上近づくな、とでも言うかのように、コンくんはわたしの首に腕を巻きつけた。
「っ……ぅ」
コンくんの腕が、わたしの気道を締め付けていて、息が思うように吸えない……っ。
「ええんか?大事な女がボクの間合いやで」
「クソ……ッ」
本当に、コンくんなの……っ?
上手くできない呼吸を必死に繋ぎながら、目線だけを横に向ける。
金色の髪に、糸目。
まるで人格が変わってしまったように冷酷な瞳を持つ彼は、正真正銘、コンくんだった。
「すまんなあ、あのお方の邪魔になるみたいやし、コイツはここで始末させてもらうわ」
「やめろっ!」
「ハッ、ムリなお願いやなぁ。大体、オマエみたいなザコが、ボクに勝てるとでも?」
そう言った後、鼻で笑ったコンくんは、片方の腕で人差し指を立てると、小さな金色の光を集めて、それをタイガくんの方へと飛ばした。
ひゅ……と飛んでいった光は、反応が遅れてしまったタイガくんの目の前で、弾け飛んだ。
ドカァァァンッ!!!
「っ……!」
予想もできないような風圧と熱風に、思わずギュッと目をつむる。
だめ、だめだめだめ……っ!
そんなことしたら、タイガくんがっ!
「チッ、暴れんなや」
「うぅ……っ」
首を締め付ける彼の腕に、さらに力が入る。もともと筋力のないわたしは、その腕をほどくなんて無謀な挑戦で。
次第に、抵抗する力も入らなくなってきて、目の前が白く点滅し出していた。
土埃の舞う地面の奥には、かすかに横たわったタイガくんの姿が見えて。
「——おっと、厄介なオオカミくんの登場かいな」
そんな時、コンくんの挑発を含んだ高らかな声が聞こえたのを最後に。
——わたしの体は限界を迎え、意識を落としていた。
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