第2話 路地裏の邂逅
男の助言を聞き入れたわけでは決してないが、一度自宅に戻ってから身なりを整えた。
髭を剃り、一生慣れることのないだろう糊の利いたシャツに袖を通す。
大通りに出てタクシーを拾った。スーツはいつだって息が詰まる。晃は車内でネクタイの結び目を直すと、これから自分がすることについて頭の中で何度も予行演習をした。
平日の昼ということもあり、車の流れは比較的スムーズだ。区役所の角を曲がり、藤棚浦舟通りを北に進む。太田橋から黄金町駅の方へ向かう途中で、警察と野次馬でごった返す栄橋が見えた。幸いなことに、現場検証はまだ続いているらしかった。
「駅の手前で降ろしてくれ」
そう運転手に告げ、タクシーを降りる。やけに物々しい雰囲気の黄金町駅を横目に、目的の栄橋へと急いだ。
橋には規制線が張られていて、鑑識官たちが慌ただしく行き交っている。遺留品の捜査なのか大岡川の水を攫っている班もあった。平日、月曜の朝からご苦労なことだ。
晃は野次馬をかき分けて進み、さも関係者ですという顔で黄色と黒のテープを潜った。ブルーシートの張られたエリアに向かう途中で、若い制服警官に肩を掴まれる。
「すみません。ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「……ああ、そうだったな。すまない」
スーツの内ポケットから黒い革製のケースを取り出し、声を掛けてきた若い警官に中を見せた。
「警視庁刑事部の篠村だ。現場検証中悪いが、
制服を着た自分の写真に、実際に警察で使われている職員番号。本物そっくりに造った警察手帳は今までで一度も見破られたことはない。
男はかすかに目を丸くした後、ばつが悪そうな顔で頭を下げた。
「お疲れさまです。……失礼しました」
「いや、こちらこそ突然で申し訳ない」
「……警視庁の方が、どうしてわざわざ神奈川まで?」
「じつは横浜にいる協力者に会いに来たんだが、数日前からまったく連絡が取れないんだ。何か事件にでも巻き込まれたかもしれないと思っていたところで、この騒ぎだったからな」
「なるほど。……そういうことでしたら、自分が案内しますよ。検証の方もだいぶ済んだようですし」
明るくそう言った男に導かれ、古びた橋の上を歩く。長い年月によって錆びついた欄干。雲間から射し込む光でブルーシートが白く輝いていた。
「どうぞ。こちらです」
区切られたエリアの中に入ると、刺激臭が鼻をついた。おそらく目の前の遺体が放っているものだろう。案内してくれた男がシートの端を掴んでそっと持ち上げた。あまりの異臭に胃が底のほうから突き上げられている感じがする。
白く膨れ上がった女の顔に、見覚えはなかった。長い黒髪には水草が絡みつき、首には絞められたような跡がある。服は着ておらず、身体には刃物で刺されたような傷が無数にあった。指先に目が留まる。爪はすべて剥がされ、ひどい拷問でも受けた後のようだった。
ふと、足首にタトゥーが彫られていることに気がついた。
鮮やかな赤と青。複雑に絡み合った二匹の龍。
「十分だ。ありがとう」
その言葉に男はシートをそっと元の位置に戻し、咳払いをした。
「そこに並べてあるのが遺留品です。遺体のものと見られる服やバッグが見つかっています」
さっきとは別のブルーシートの上に、透明なビニール袋の数々が整然と並べられている。
幾何学模様のモノグラムで有名なブランド物のバッグに、同じ柄の財布。
身分証はどこかと探していると、免許証ではなく健康保険証があった。
名前は英語表記で、有効期限は五年前に切れている。
「ヤン・ユーチェン……」
「
晃は軽く相槌を打ちながら、並んでいるビニール袋を注視する。
(……見つけた)
石の価値を考えると、資産家でもない一般人の若い女性が持つことなど到底考えられないような貴重で高価なものばかりだ。
石の入ったパケを手に取り、案内の男にさりげなく訊いた。
「この宝石類もバッグの中に?」
「ええ。内ポケットに隠すように入れてあったそうです」
「ほかに黒い石が見つかったとかは?」
「いえ……今のところはこれで全部のようですが」
たしかに宝石の入ったビニール袋はこれひとつだけで、男の話に間違いはなさそうだった。
……あの日からずっと探し続けている黒い石は、どうやらここには存在しないらしい。
三十二年の人生で一度しか見たことがない、黒色の稀少石。明度も彩度も低い『黒』というその色にも関わらず、透明度が高く、光にかざすと隠された色が鮮やかに浮かび上がってくる。
それは初めて採掘された土地にちなんで『セレンディバイト』と名付けられていた。
五年前、何者かに殺された弟の遼が得意げに見せてくれて以来、その石を見たことはない。
必ず取り戻して、弟の墓前に供えてやる。
あの日以来、ずっとそればかり考えていた。
互いに離れて暮らしていたとはいえ、この世でたったひとりの血の通った兄弟だ。
石は必ず取り返す。そして、弟を殺した人間に復讐する。
たとえ、どんな手段を使ってでも……。
過去に思いを馳せていたせいか、気づくのが遅れた。
こちらに小走りに駆けてくる人影。二の腕部分に腕章をつけた、スーツ姿の年配の男だ。県警か所轄の刑事かもしれない。
「おーい、鈴川ぁ。お前、伊勢佐木署の須藤さん見なかったか?」
鈴川と呼ばれた隣の男が、申し訳なさそうに首を振る。
「すみません。見てないですね」
「ったく、どこ行っちまったんだよ。課長が探してんのに」
男の鋭い視線が、不意にこちらに向けられた。
「あれ、この方は?」
「ああ、警視庁刑事部の篠村さんです。ガイシャについて確認したいことがあるって言うんで、お通ししたんですけど」
「ん、刑事部の篠村ぁ?」
男は訝しげな顔をして首を傾げた。
「一課の篠村さんって言や、俺と同い年くらいだったはずなんだがなぁ。……それに、ずいぶん前に異動になったって。お宅は何課の方ですかな?」
その言葉に、鈴川も口を半開きにしてこちらを見ている。場に妙な空気が流れた。
たぶん、誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せたはずだ。
『その篠村さんとは別人で……』
ただそう言えばいいだけだ。……なのに、なぜか言葉にならなかった。嫌な汗が滲み、じりじりと後ずさりする。目の前の刑事がすこしずつ間合いを詰めてくる。
晃は深く呼吸をして覚悟を決めると、踵を返し全力で駆け出した。唖然とする刑事の顔。若い警官のあげた小さな声。後ろから何人かが追ってくる気配がしたが、振り向かず全力で走り続けた。
駅の方へと無我夢中で走った。電車に乗ろうかとも思ったが、構内には監視カメラがある。人目を避けるように高架下の細い道に入り、適当な民家の隙間に身を寄せた。
しゃがみ込んで息を整える。顔だけ出して駅の方を見ると、警察車両とともに数人の警官が辺りを注視しながらさまよっていた。すこし休んだら、タイミングを見計らってここから出たほうがよさそうだ。
中国人、大量の宝石、龍のタトゥー……。
知りたかった情報は十分に得られた。
彼女はきっと、過去のある事件に関わっている。
壁に背中を預けて地べたへと座り込んだ、ちょうどそのときだった。
じゃり、と何かが地面を擦る音がした。自分のものではない。とっさに後ろを振り返った。
人影はない……ように見えたが、視線を落とすと、そこにひとりの少年が身体を丸めて横たわっていた。
ぎょっとした。近くにいたのに、まるで気配が感じられなかったからだ。
力の抜けた肢体、薄汚れて変色したグレーのスウェット、何日も洗っていないのだろうぼさぼさの頭……。こちらを見る生気のない瞳はなぜか、ひどく虐められて捨てられた野良犬を彷彿とさせた。昔テレビか何かで見た、荒れた土地をさまよう薄汚れて痩せ細った野良犬。世界に絶望したような、光のないガラス玉のような瞳が何を訴えるでもなくただこちらを映していた。
何だ、こいつ。
そう思うや否や、ぐうぅ……と腹の虫の鳴る音がした。少年の指がかすかに動く。何かを求められている気がした。こっちに差し出されるように、もう一度指がピクリと動く。
(そういえば、憂炎にもらった月餅があったっけ……)
奇妙な状況で、晃はふとそんなことを思い出した。店に置いてこようかとも思ったが、急いでいたのでそのままポケットに入れてきてしまっていた。
行き倒れの人間を助ける義理もなかったが、食べもしない中華菓子を持っているのも邪魔なだけだ。晃はスーツのポケットから
……反応がない。
蓋を開け、中の月餅を取り出した。フィルムを剥がして少年の手に乗せてやる。
彼はむくりと起き上がり、恐る恐るそれを口に含んだ。
ひと口、ひと口と小さく齧り、咀嚼して飲み込む。動物じみたその仕草をただ何気なく眺めていた。
「こっちにはいないみたいだ」
「駅の北側を探すぞ!」
どこからか警官たちの声が聞こえてくる。
「それ、やるよ。じゃあな」
晃は短く言って、ふたたび走りだした。
暗く濁った瞳がこちらを見つめ続けているような、そんな気がした。
- - - - - - - - - -
中華街までは尾行を警戒しながら戻った。
すでに日は暮れかけていたが、報告がてら憂炎の事務所に顔を出す。
「ああ、おかえりなさい。晃さん」
憂炎は先ほど座っていたのと同じソファに腰掛け、同じ姿勢のままのんびりと茶を啜っていた。中国茶はゆっくり嗜むものだと聞いたことはあるが、一日中お茶を飲んでいられるとはよほど暇を持て余しているらしい。
「おや、珍しくスーツじゃないですか! よく似合ってますよ。こうして見ると、清潔感があってまっとうな社会人らしく見えますね」
「どういう意味だよ、それは」
「ああやだ、褒めてるんですってば……。それで、どうでした? 何かわかりましたか」
「まぁ、色々とな。情報をもらえて助かったよ。ありがとう」
憂炎は大げさに目を丸くすると、芝居がかった仕草で驚いて見せた。
「今日は雪でも降るんでしょうか……晃さんが私にお礼を言う日が来るなんて」
「いつも礼くらいは言うだろうが」
「そうだったでしょうか」
相変わらず嫌味な顔をして笑っていたが、ふと表情に影が差したかと思ったら、何やら怪訝そうにこちらを見て訊いた。
「ところで、晃さん。……月餅は美味しかったです?」
「甘いものは苦手だって、何度も言ってんだろうが」
「まさかとは思いますけど、私の心からのプレゼントを誰かにあげたりなんてしていませんよね?」
何故わかったのだろう、と不思議に思ったが、素直に認めるとこいつの終わりのない説教が始まってしまいそうだった。
「……お前の心からのプレゼントって賞味期限切れ間近なわけ?」
「プレゼントはプレゼントですから。私の気持ちであり、心遣いなわけです。それを晃さんが得体のしれない誰かにあげたと知ったら、私は……」
「はぁ?」
いまいち話が嚙み合わず、その顔をまじまじと見る。憂炎の視線が背後に注がれていることに気づき、ふと後ろを振り返った。
「なっ……!」
そこにいたのは、先ほど路地で出会った少年だった。さっきと同じ野性味溢れる姿でこっちをじっと見つめている。その口許は先ほどの月餅だろう食べかすで汚れていた。
「誰です? その少年は。ホームレスにしてはずいぶんと若そうですけど」
尾行がないことはしっかりと確認したつもりだった。警察を撒くためにタクシーに乗り、ずいぶん遠回りをして帰ってきたのだ。
それなのに、どうしてここがわかったのか。
「晃さんの知り合いか何かですか?」
「いや……さっき偶然入った路地にいたんだ。知り合いでも何でもねぇ」
「そうですか……」
憂炎はしばらく訝しげに少年を見つめていたが、不意にデスクの上の電話を取り上げて言った。
「とりあえず、警察に連絡しましょう」
「いや、待て。警察はだめだ」
「どうしてです?」
「俺の都合が悪いんだ。頼むから、やめてくれ……」
さっき、事件現場で自分が警視庁の人間だと偽った。
通報したところで先ほどの警官が来るとは限らないが、最悪の場合、今日自分のやったことが明るみに出る可能性がある。今後の動きにも影響するだろうし、何よりこれ以上警察と関わるのは避けたかった。
憂炎は渋々、耳に当てた受話器を下ろす。
「わかりました。じゃあ、もういいですよ」
ひどく眉根を寄せたまま、そう不機嫌そうに吐き捨てる。
几帳面を軽く通り越し、潔癖の気がある人間にとっては少年の姿を見ているだけでも厳しいものがあるのだろう。
「その代わり、晃さんが責任を持ってその子の面倒を見てくださいね」
「は? 俺が⁉」
「当たり前じゃないですか! 貴方が拾って来たんですよ。いいですか? 私には無理ですよ。絶っっっ対に無理ですからねっ!」
まるで道ばたの汚物でも見るような目つきだった。
両肩をがしっと掴まれ、回れ右をさせられる。ドアが激しい音を立てて閉められ、そのまま事務所の外に追い出された。
まったくひどい扱いだ……。
そう心の中で嘆いていると、目の前にいるそいつと目が合った。
まだ何か、物欲しそうにじっとこちらを見つめている。
「お前、名前は」
とりあえず聞いてみた。
「……」
反応がない。
ぼさぼさの髪に隠れた、アーモンド型の黒い瞳。一日中陽光に晒されていたにしてはやけに白い肌。外国人には見えないので日本語は通じると思うのだが、コミュニケーションに問題があるタイプなら先が思いやられる。
晃は、深いため息交じりに呟いた。
「とりあえず、家帰って風呂だな……」
そいつはただきょとんとした顔をして、その場にじっと立ち尽くしていた。
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