第12話
また、私が佐倉との会話で救われ、気を緩めることが出来た原因は、彼女の人懐こさにありました。彼女が好意的に接する相手は、私一人では決してなかったのです。私は個人個人に「皇桜痴」という一個人として認識される事を極度に恐れていたのです。有象無象のなかの一人、または一部として、大海に揺蕩う藻屑のひとつにでもなれたのなら、それが一番好都合だったのですが、昔からどうにも人の目を集めてしまう質で、私自身その特性を大いに生かして道化をしていましたので、その夢は所詮夢にしかなり得ませんでした。
然し、佐倉は私を、個人ではなく大衆のなかのひとり。もっと穿った考え方をすれば、人間というカテゴリのなかの一点として捉えていたのです。大衆の中の一人、その中に居る、秘密を共有しただけの学友として見ていることが、どうしようもなく嬉しく、心地良かったのです。私は、彼女との交流で、息苦しさを感じる事は、もうありませんでした。
彼女との取り留めのない会話は、道化同士のつまらないものですから、本心などという高尚なものは求めてはいません。一言、二言呟いて、はい、いいえ、若しくはそうですか、なんて相槌を打っていれば完結するものだったのです。それは、彼女も同じ考えでした。
相変わらず、恋に関しては無知でしたが、人の心の温かさに触れると、不思議と愛おしいという感情を理解出来るようになりました。
「書き終わったら見せる」
という約束の通り、書きかけの部分を見せろとせがむようなことを、彼女はしませんでしたし、私も見て欲しいなどと言うことは、決してありませんでした。
女性というものをほとんど知らずに生きてきたものですから、佐倉に対しても、特別女性を意識した言動をしていたつもりは毛頭なかったのですが、どうにも男女二人が長期間親密にしていると、あらぬ噂が立ってしまうようでした。
「嫌だね。私はただ、皇君の本が読みたいだけなのに」
放課後の図書室で、背筋を伸ばしながら呆然と呟いた彼女の表情は暗く、面倒であると顔に書いてありました。私は手元の文庫本閉じて、佐倉を一瞥してから、どうしたものかと首をひねりました。確かに、決まった四人組の中では勿論の事、教室内でも私と佐倉は特別な関係にあると、まことしやかに囁かれ始めていると知っていました。
「気にすることありませんよ。風化していくものです、皆、飽き性ですからね」
いくら私たちが血相変えて弁解したところで、彼らにとっての餌に他ならないですから、私は傍観を選びました。
「皇君は何を読んでるの? 私も読みたいな」
その時は、確かに有島の「或る女」を読んでいました。葉子のヒステリーに、母の面影を見ていたので、良く覚えています。
「最近恋愛小説が多いね。太宰はやめたの」
確かに、以前の私は、太宰ばかりを手に取り、同じものを何度も読み返していました。女性視点の恋愛小説は、彼の十八番と言っても過言ではありませんから、初めはそれこそ彼の作品を資料として扱おうと読んでは積み、また読み返していたのですが、どうにも贔屓目に見てしまって、学ぶという意識がすっかり抜け落ちてしまうことに気が付いて、やめてしまったのです。
「恋とは、難しいものですね」
葉子は、人が好きだったのです。人と同時に、自分は愛されるべきであると信じて疑わず、その過剰な自信が人の目を惹いたのです。
恋をする人間というものは、大前提、人が好きなのです。博愛主義と言ってもいいような愛を本心から掲げ、余すことなく他者に振りまくのです。
私には、それが分かりません。人を、人として見る事も、愛することも難しく、どうしても嫌悪が首を絞める。
醜悪。それは私を表す言葉かもしれません。人々を愛している、美しく、愛おしくて仕方が無いと口にしながら、その実、踏みつけるような目を向けて、近づけないように遠ざけ、伸ばされた手を振り払いながら生きているのですから。
澄んだ目を持った人は、美しい。いえ、羨ましくすらある。人の悪意に敏感になりすぎたのです。偽っている分、騙されていて当然なのだと、早くに気が付きすぎたのです。きっと、子供が多くの時間を費やして、少しずつ得るものを、早々に拾い集めてしまっていたのです。
読めば読むほど、私には模倣しかできないのではないかしらという気分になって、気分が落ち込み、もう、原稿用紙も視界に入れたくなくなってしまうのです。
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