第3話
……それが、今の私を作り上げた、最初の記憶です。私はそれから、舞台から降りることをしませんでした。一日の全てが演目で、私の人生に関わる全ての人間は、みな観客でした。私はそれが誇らしく、そして、私を見抜けない者を平凡で、どうしようもない愚鈍だと蔑み、同時に、私はそんなわたしを嫌っていた。己の心臓を晒すことも出来ず、日々を謳歌する人々を見て、羨み、妬む私を、私が人一倍疎みました。きっと、自分が見下していた人間が、自分よりもよっぽど人らしく生きていることが、羨ましかったのです。
私が「皇桜痴」を演じ始めてから、家族で過ごす時間が目に見えて増えました。父も母も、今まで私と過ごすことを避けていたのです。余りの変わり様に、困惑が募るばかりでした。私は、日々心地の良い空間に置かれて、人間の
然し、ひとつ問題がありました。君達は、三島の「仮面の独白」を知っていますか。リラダンの「人間たらんとする欲望」も、太宰の「道化の華」も、行き着く先は破滅でした。自己の喪失の末に、自分を見失ってしまうのです。例に漏れず、私は次第に、自分自身が分からなくなっていたのです。
父の気紛れで連れて行かれる舞台や観光地、音楽会は、私の芸術的感性を育てるのにとても役立ちました。同年代の子供と遊ぶことの少ない、可愛げのない子供でしたので、学校の終わった暇な時間は専ら、自宅の文庫を読み漁ることに使いました。母は気紛れに私に気に入っている物を勧め、それを素直に読むと、機嫌が良くなり私を褒めるのです。私はそれが嬉しくて、益々文学の世界に没頭していきました。
私の活字への執着は、ある時までは両親の御機嫌取りの産物でした。創作物に感動らしい感動を感じる事はなく、ただぼんやりと眺めていたのです。私にとって、綴られた物語は人を知る為の教科書に過ぎなかったのです。本の中には、絵に描いたような善人も、悪人も、平等にその心情が赤裸々に描かれますから、感受性の乏しい私が人を理解するには丁度良かったのです。その上、褒めそやされるのですから、これ以上は無いでしょう。
私の故郷は、静かな場所でした。車を数時間走らせなければ市街地に出る事の出来ないような辺鄙な場所に生まれたものですから、娯楽と呼べる娯楽もなく、ほんとうに、なんの楽しみもない幼少期を過ごしていました。子供らしさを持たない子供でしたので、同級生の子供たちが遊んでいるすがたを、馬鹿げているとすら思いながら帰途に着く毎日でした。桜の花が今にも重たい瞼を開きそうな、四月のこと。私は小学校に無事に入学しました。
その頃には定着していた道化ですが、それは、私の悩みの種でもありました。道化が板について来ると、両親を初めとした、関わるひと全てを騙していることが心苦しくてたまりませんでした。だからといって、これは私を守るための甲冑なのですから、簡単に剥ぐことなど出来ません。これに変わる代替案を探せる程、私の頭は出来が良くなかったのです。そんな、鬱蒼とした思考を抱えて、日々を過ごしていました。もう後に引くことが出来ない私は、一層完璧であることに固執して、勉学も、交友関係も気を緩めることをしませんでした。誰にも私が愚図であることを悟られないように、愛想を尽かされることが無いように、「こんなものか」と観客が席を立たないように努めて、笑って、時には涙を見せて。
観客に好かれる。ただそのためだけに息をしていたと言っても、決して過言ではありませんでした。
その甲斐があってか、小学校では、どうやら私は人気だったようです。少しの空き時間でも、私の周りには人が集まっていました。繰り広げられる会話は大抵くだらないもので、今では霧がかかったように曖昧で、思い出すことは到底出来そうにありません。
私を囲んでいた人々は、どうしても誰かの一番が欲しかったのです。「親友」などという、陳腐で、希薄な友情の印を、私の意志に関係なく結びつけられていました。その度私は息苦しく、胸やけのような不快感に占拠されていたのですが、完璧であることに固執した私はそれを拒みませんでした。「皇桜痴」という男は、そのような残酷な所業は、たとえ刃を向けられても、できないのですから。
特別な存在になりたがった彼らは、私からの硬い友情を勝ち取ったと錯覚した後、必ず両親に取り入ろうとしました。私の両親は、小さな町では権威ある人たちでしたから、彼らの周りの大人がそう指示していたのかもしれません。私に近付いた者達が、私を通して、両親を見ていたと実感する度に虚しくて堪りませんでした。自分を見て貰って、愛されるために道化と生まれ変わったのです。だのに、私個人を愛されることは、終ぞありませんでした。躍起になった私は、益々道化に精を出しました。
とびきりに笑って貰える自分を演じるのです。普段は毅然として、真面目で、隙の無い人間として振る舞いながら、時折間の抜けた場面を見せるのです。それは授業中、自分が指名されると分かっていながら、その直前に目を閉じる。教師が焦って、たじろぎ、「あの皇が」と呟き、軽く肩を叩いた瞬間に大袈裟に立ち上がって、素っ頓狂な声を洩らす。それだけで教室中はわっと笑いに包まれて、私は頬を紅潮させながら再び席に着くのです。
自分を偽る為なら、手段は問いませんでした。取り付く島のない超人よりも、親しみのある天才の方が、賛美の声が降り注ぐのです。人々の賞賛を掻き集める為に奔走し、切り捨てた己という骸の山の上で足を組み、観客を見下ろしていました。
これまで、散々な言葉を綴り上げましたが、私は、彼等を愛しているのです。彼らにとって、私が理解のできない異物である事に、私は納得しているのです。
みな、とても善いひとたちでした。常人では理解の出来ない、他者への嫌悪感の強さ。それを持ち合わせているというだけで、充分に厄介な話なのです。私が悪意に敏感なように、嘘に敏感な人間もいるでしょう。隠しきれない畏怖を感じ取った者にとって、私は確実に、異端者でした。
彼等が私を「世間」という型に押し込め、安堵の溜息を吐いたのは、人として当然のことであったと、今になれば理解が出来ます。ただ、私に向かって、彼等が振りかざしていた凶器は、世間一般で「普通」と謳われる、押し付けがましい概念でした。当時の私は浅ましい子供であったために、その事実が寂しく、悲しく。それを消化することも出来ずに、捻れて、擦り切れてしまったのです。
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