第9話:星をめぐる権利

### 第一幕:ゆるふわな日常


「わあ、すごい! 木星の縞模様がくっきり見える!」


 佐々木優香は、事務所のバルコニーに据えた望遠鏡を覗きながら歓声を上げた。10月の夜空は澄み渡り、星々が特別に輝いて見える。


「先生、明日の国際会議の資料はご覧になりましたか?」


 秘書の田中美里が少し困った表情で声をかけると、優香はゆっくりと望遠鏡から顔を上げ、緩やかな笑顔を浮かべた。


「あら、もうそんな時間? ごめんなさいねぇ、夜空があまりにキレイだったから」


 事務所のメンバーはそんな優香の姿に慣れていた。東京大学法学部を首席で卒業し、国際法の専門家として名を馳せた秀才だったにもかかわらず、日常では抜けた一面を見せることが多い優香。「頭脳明晰なのに天然」という評判は、この「佐々木国際法律事務所」でも広く知られていた。


「あのね、先生」と田中は少し緊張した様子で言った。「明日の依頼者、アステリア・マイニング社のCEO高山さんは、かなり難しいケースを抱えていらっしゃるそうです。小惑星からレアメタルの採掘に成功したとか…」


「そうなの?」優香は星空から視線を移し、事務所の中に戻りながら首を傾げた。彼女の長い黒髪が月明かりに照らされて揺れる。「でも宇宙って素敵よね。あの広大な空間、数えきれない星々…」


 田中はため息をついた。「先生、明日は国際宇宙法の専門家としての意見を求められるんですよ」


「分かってるわよ~」優香は軽やかに言いながら、デスクの上に置かれた宇宙グッズに手を伸ばした。小さな惑星模型、星座早見盤、そして愛用のカエルのペーパーウェイト「ケロ助」。ケロ助は今日も宇宙飛行士の衣装を着せられている。


 翌朝、アステリア・マイニング社のCEO高山誠二郎が事務所を訪れた。40代半ばの精悍な男性は、深刻な表情で応接室に座っていた。


「はじめまして、佐々木優香です。どうぞお気軽にお話しください」


 優香の柔らかな声色に、高山の表情が少し和らいだ。


「高山と申します。突然の相談で申し訳ありません」


 彼の話によると、アステリア・マイニングは3年前に小惑星「XR-723」への探査機「はやぶさ3号」の派遣に成功。さらに驚くべきことに、この小惑星から希少金属のイリジウムとレニウムの採掘にも成功したという。地球では極めて稀少なこれらの金属は、次世代技術に不可欠とされている。


 しかし、この歴史的成功の報道直後、アメリカ、中国、ロシア、そしてEUの大手宇宙開発企業から所有権の異議申し立てが相次いだ。彼らは「宇宙空間とその天体資源は人類共通の財産である」とする1967年の宇宙条約を根拠に、アステリア・マイニングの独占的権利を否定していた。


「来週、ハーグの国際司法裁判所で初めての審議が行われます。人類史上初めての宇宙資源の所有権を巡る裁判です」


 高山の声には疲労と緊張が混じっていた。


「なるほど…」優香はぼんやりとした表情で、高山が持参した小惑星の鉱石サンプルを手に取った。キラキラと輝く黒い石は、確かに地球上では見たことのない輝きを放っている。


「これ、きれいですねぇ。まるで夜空のよう」


 高山は一瞬言葉に詰まった。「あの、佐々木先生…これは非常に重要な問題なんです」


「ええ、もちろんです」優香は微笑みながら頷いた。「あ、紅茶を淹れましょうか?私、最近火星をイメージしたブレンドティーを見つけたんです。ほんのり赤く、スパイシーな香りが…」


 高山の困惑した表情をよそに、優香は立ち上がってキッチンへ向かった。戻ってきた彼女の手には、星座柄のカップに入った紅茶があった。


「どうぞ。砂糖を入れると、もっと美味しいですよ」


 高山は半ば諦めたように紅茶を一口飲んだ。「佐々木先生、正直に言って…私のケースを引き受けていただけますか?」


 優香はカップを手にしたまま、空を見上げるようにして言った。「宇宙条約の解釈、新たな宇宙資源開発ルール、各国の国内法との整合性…調べることは多そうですねぇ」


 そして突然、はっとしたように高山を見た。その目は一瞬だけ鋭く光った。


「あ、そうだ! 高山さん、このサンプル、持って帰ってもいいですか?なんだか、キラキラして可愛くて」


 高山は困惑しながらも頷いた。「こちらは分析済みのサンプルなので…」


「では、お引き受けします」優香は唐突に言った。「来週のハーグに同行します。それまでに必要書類をすべてメールしてくださいね」


 高山が帰った後、田中が心配そうに尋ねた。「先生、大丈夫ですか?相手は世界最大の宇宙企業と複数の大国ですよ」


「そうなんですか?」優香は再び窓の外の空を眺めながら言った。「でも、あの小惑星のサンプル、何か特別なものを感じたんですよねぇ…」


 そして、ふわりと微笑んだ。


### 第二幕:法廷バトル


 国際司法裁判所、ハーグ。荘厳な雰囲気に包まれた大法廷は、世界中のメディアと宇宙法の専門家で埋め尽くされていた。


「アステリア・マイニング社対宇宙資源国際連合の審理を開始します」


 裁判長の宣言に、法廷内がさらに緊張感に包まれる。「宇宙資源国際連合」は、この訴訟のために一時的に結成された米国のスペースX、中国の長征宇宙、ロシアのロスコスモス関連企業、EUのアリアンスペースなど、世界の主要宇宙企業と各国政府の連合体だった。


 被告側の席には、各国・各企業の代表とともに、国際宇宙法の権威であるジョナサン・スターリング教授の姿があった。一方、原告側にはアステリア・マイニングの高山CEOと佐々木優香が座っていた。


「被告側、主張をどうぞ」


 裁判長が促すと、スターリング教授が立ち上がった。


「1967年の宇宙条約第2条は明確に『宇宙空間は、主権の主張、使用若しくは占拠又はその他のいかなる手段によっても、国家による取得の対象とはならない』と規定しています」


 スターリング教授は自信に満ちた表情で続けた。


「したがって、アステリア・マイニング社が主張する小惑星XR-723の資源に対する排他的所有権は、国際法に違反します。宇宙の資源は人類共通の財産であり、一企業や一国家が独占すべきではありません」


 法廷内には納得の空気が流れた。宇宙条約の解釈としては、伝統的にスターリング教授の主張が通説とされてきた。高山は不安そうに優香を見たが、彼女は穏やかな表情を崩さなかった。


 裁判長が次に優香を指名した。「原告側、どうぞ」


「はい」


 優香はゆっくりと立ち上がった。法廷での彼女は、事務所で見せる穏やかな笑顔とは明らかに異なっていた。鋭く冷静な目で法廷を見渡すと、優香は静かに話し始めた。


「まず、被告側の主張する宇宙条約の解釈について検討したいと思います」


 その声は、先ほどまでの柔らかな口調とは打って変わって、冷静で論理的だった。


「確かに宇宙条約第2条は、宇宙空間の『国家による取得』を禁じています。しかし、注目すべきは、この条文が明示的に禁止しているのは『国家による』取得であり、民間企業による資源採掘とその成果物の所有については、明確な規定がないという点です」


 スターリング教授は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに落ち着いた様子で反論した。


「しかし、各国は自国の民間企業の活動に対して責任を負うとも規定されています。民間企業がすることは、本質的に国家の責任下にあるのです」


 優香は小さく頷いた。


「その通りです。しかし、宇宙条約第6条は民間企業の宇宙活動を禁止しているわけではなく、むしろ『非政府団体の活動は、条約の関係当事国によって承認され、継続的な監督を受けるものとする』と規定し、適切な監督下での民間活動を認めています」


 優香は手元の資料を取り出した。


「さらに、2015年以降、アメリカ、ルクセンブルク、日本、UAE、中国を含む複数の国が、自国の企業が宇宙で採取した資源の商業利用と所有を認める国内法を制定しています。つまり、国際社会は既に宇宙条約の現代的解釈として、民間企業による宇宙資源の取得と利用を認める方向に進んでいるのです」


 法廷内にささやきが広がった。


 優香は続けた。


「次に、アステリア・マイニングの活動の性質について明確にしたいと思います。当社は小惑星XR-723そのものの領有権を主張しているわけではありません。主張しているのは、同社が多大な投資とリスクを負って開発した技術によって採掘した資源の所有権です」


 優香は法廷中央に置かれた小惑星のサンプルを手に取った。


「このイリジウムとレニウムは、もはや自然状態の天体の一部ではなく、人間の労働と技術によって新たな価値を付与された『製品』です。これは、漁船が公海で魚を捕まえた場合、その魚の所有権が漁船を運営する企業に帰属するのと同じ原理です」


 スターリング教授は腕を組み、眉をひそめた。


「漁業と宇宙資源開発は全く異なる性質のものです。宇宙空間は『人類共通の領域』として特別な法的地位を与えられています」


 優香は穏やかに微笑んだ。しかし、その笑顔には鋭さがあった。


「では、もう一つの観点から考えてみましょう。被告側は『宇宙資源国際連合』として訴訟を起こしていますが、この連合に参加している企業の多くは、自国の宇宙資源法の下で既に同様の活動を計画しています」


 優香は新たな資料を示した。


「これは、スペースXが小惑星ベルトへの商業採掘ミッションの許可を米国政府から取得した際の申請書です。同様に、長征宇宙、ロスコスモス関連企業、アリアンスペースもそれぞれの国内法の下で宇宙資源の商業利用を計画しています。つまり、被告側の企業は、自分たちが同じ立場になれば、私たちと同じ権利を主張するでしょう」


 法廷内にざわめきが起こった。スターリング教授の表情が硬くなる。


「さらに重要な点があります」優香は小惑星のサンプルを高く掲げた。「被告側は、このサンプルを見たことがありますか?」


 スターリング教授は「直接見たことはない」と認めた。


「では、私たちの調査結果をご覧ください」


 優香は画面に分析データを映し出した。


「小惑星XR-723の特異な点は、その組成にあります。通常の小惑星と異なり、この小惑星は約12年前に起きた超新星爆発の破片が太陽系に侵入したもので、系外起源の特性を持っています」


 法廷内が静まり返った。


「つまり、厳密に言えば、この小惑星は従来の宇宙条約が想定していた『天体』には当てはまらない可能性があります。なぜなら、宇宙条約が主に想定していたのは太陽系内の天体だからです」


 スターリング教授が「それは詭弁だ」と抗議したが、優香は静かに話を進めた。


「最後に、最も重要な観点として、持続可能な宇宙開発のあり方について考えたいと思います」


 優香はゆっくりと法廷を見回した。


「もし宇宙資源の開発に投資した企業がその成果を享受できないとすれば、誰が莫大な費用とリスクを負って宇宙開発を進めるでしょうか? これは『コモンズの悲劇』を宇宙にもたらす危険があります」


 優香はデータを示した。


「アステリア・マイニングは、採掘したレアメタルの20%を国際宇宙機関に提供し、発展途上国の宇宙開発支援に使用することを提案しています。また、採掘技術のライセンス供与も検討しています。これは『人類共通の利益』という宇宙条約の精神に沿うものではないでしょうか」


 法廷内に考え込む空気が流れた。


 優香は最後に、決定的な一撃を放った。


「裁判長、もう一つだけ証拠を提示させてください」


 優香は小さな装置を取り出した。


「これは、小惑星XR-723の三次元ホログラム地図です」


 装置から青い光が放たれ、小惑星の詳細な3Dマップが空中に映し出された。


「ご覧のように、アステリア・マイニングが採掘を行っているのは、小惑星全体のわずか4%の領域です。この4%は、既に当社の技術と労力によって変形されており、もはや自然状態ではありません。一方、残りの96%は手つかずのままです」


 優香はホログラムの特定の部分を拡大した。


「私たちは、この手つかずの部分については排他的権利を主張していません。他社もまた、適切なライセンスと国際監視の下で、この小惑星の未開発部分にアクセスできるようにすることを提案します」


 法廷内は完全に静まり返った。スターリング教授も、被告側の代表者たちも、言葉を失ったように見えた。


 裁判長は優香を見つめ、「それは興味深い提案です。この案についての詳細を書面で提出してください」と言った。


 第一回公判は、予想外の展開で幕を閉じた。


### 第三幕:ゆるふわな日常への回帰


「優香先生!素晴らしかったです!」


 事務所に戻ると、田中が興奮した様子で迎えた。ハーグからの帰国後、すでに世界中のメディアが「宇宙資源の歴史的判決」として報じていた。


「あら、そうかしら?」優香は再び、あのぼんやりとした表情に戻っていた。「私、ハーグにあるプラネタリウムに行ってきたの。とっても素敵だったわ」


 田中は呆れたように言った。「先生、歴史的な判決だったんですよ!『区分所有権と国際共有の両立』という新たな宇宙法の原則を確立したって、法学者たちが大絶賛しています」


「そうなの?良かったわね」優香は窓の外の空を眺めながら言った。「でも、あの小惑星のきらめき、本当に美しかったわ。まるで星屑のようだった…」


 高山CEOが感謝の電話をかけてきた。「佐々木先生、本当にありがとうございました。おかげで我々は採掘権を確保し、同時に国際協力の道も開けました」


「いえいえ、小惑星が教えてくれたのよ」優香は軽やかに答えた。「あ、そうだ!高山さん、宇宙飛行士の募集とかしないの?私、一度宇宙に行ってみたいんです」


 電話の向こうで高山が笑いながら「検討します」と答えた。


 田中はため息をついた。「先生…どうして法廷の外ではそんなに…」


「あっ!」優香は突然声を上げた。「今夜は流星群が見られるんだった! 田中さん、一緒に見に行きましょう?屋上に望遠鏡を設置しておいたの」


 田中は諦めたように笑った。


 その夜、事務所の屋上。優香と田中は星空を見上げていた。


「先生」と田中が静かに尋ねた。「どうして宇宙にそんなに興味があるんですか?」


 優香は望遠鏡から顔を上げ、満天の星を見つめた。その瞳には法廷で見せる鋭さと、日常の優しさが混ざり合っていた。


「宇宙は公平だから」彼女は柔らかく言った。「星たちは誰が見ても同じ光で輝いている。所有でもなく、支配でもなく、ただそこにあって、私たちを照らしてくれる」


 流れ星が一筋、夜空を横切った。


「正義も、そうあるべきだと思うの。特定の誰かのためではなく、すべての人のために輝くもの」


 田中は初めて見る優香の一面に、言葉を失った。


 デスクの上では、宇宙飛行士の衣装を着たケロ助が小さな隕石のサンプルを抱えていた。まるで宇宙の神秘を守るかのように。

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