第3話:数字の裏側

### 第一幕:ゆるふわな日常


「あー、お腹いっぱい」


 佐々木優香は、事務所の応接ソファに寝転がり、満足そうに目を閉じていた。テーブルの上には、空になった弁当箱が5つも並んでいた。6月の陽光が窓から差し込み、彼女の横顔を柔らかく照らしている。


「先生、一人でこれ全部食べたんですか?」


 秘書の田中が驚いた様子で尋ねた。彼女の表情には呆れと感心が入り混じっている。


「だって、新しい弁当屋さんができたから、全種類試してみたかったんだもん」


 優香は子どものような言い訳をした。両手を伸ばして体を伸ばす仕草は、まるで昼寝から目覚めた猫のようだ。


「特に、唐揚げ弁当が美味しかったわ~」


 田中はため息をついた。彼女の手には予定表の書かれたタブレットが握られている。


「でも、3時からの依頼者との打ち合わせがありますよ」


「大丈夫。まだ時間あるし、ちょっと昼寝しよ…」


 言いかけたところで、優香の携帯電話が鳴った。彼女はぼんやりとした様子で電話に出た。


「もしもし、佐々木です」


 電話の相手は、今日の依頼者だった。急用で事務所に早く来てしまったという。


「あら、もう到着されたの?」


 優香はゆっくりと起き上がった。ソファから立ち上がる様子は少し重そうだ。


「じゃあ、今から会いましょう」


 田中が「先生、寝癖がついてますよ」と小声で言うと、優香は鏡も見ずに手で髪をなでつけた。


「これでいいでしょ?」


 応接室に入ると、スーツ姿の中年男性が緊張した様子で座っていた。きちんと整えられた髪と眼鏡、几帳面そうな雰囲気の男性だ。


「お待たせしました。佐々木優香です」


 彼女は穏やかな笑顔で挨拶した。髪を直したとはいえ、まだ少し寝癖が残っている。


「東野と申します。今日はよろしくお願いします」


 男性は丁寧に頭を下げた。彼の表情には不安と緊張が混ざっている。


 東野雄二は、大手建設会社「国際建設」の経理部に務める社員だった。彼によると、会社が大規模な粉飾決算を行っているという疑いがあるという。東野が偶然発見した不自然な会計処理の数々。しかし、上司に報告しても「気にするな」と一蹴されてしまった。


「このままでは、いずれ発覚して会社が大打撃を受けるでしょう。株主や取引先にも迷惑がかかります」


 東野は真剣な表情で言った。その声には誠実さと良心が感じられる。


「内部告発するべきか悩んでいます」


 優香は東野が持参した資料を眺めながら「へぇ、数字がいっぱい」と呟いた。彼女の指先で資料のページがめくられていく。


「佐々木先生……」


 東野は少し不安そうに言った。彼の表情には困惑の色が浮かんでいる。


「これは非常に複雑な会計処理の問題です。商法や金融商品取引法の専門知識が必要になると思いますが……」


「あ、このグラフの色、綺麗ですね」


 優香は資料の一部を指さした。それは売上高の推移を表すグラフだった。


「青と緑のグラデーションが素敵」


 東野は明らかに困惑していた。彼の眉が寄り、一瞬言葉を失ったように見える。


「あの……これは売上推移のグラフなんですが……」


「分かりました」


 優香は突然真剣な表情になった。彼女の眼差しが一瞬だけ鋭くなる。


「少し確認したいのですが、東野さんは何年くらい国際建設にお勤めですか?」


「15年になります」


「この粉飾決算、いつ頃から始まったと思いますか?」


 東野は少し考えてから答えた。彼の表情は慎重で、言葉を選んでいるようだ。


「正確には分かりませんが、私が気づいたのは約2年前からです。徐々に規模が大きくなっているように感じます」


 優香はしばらく東野の話を聞いていたが、突然「あっ!」と声を上げた。


「そうだ! 東野さん、この資料コピーさせてもらってもいいですか? あと、国際建設の社内電話帳とか、組織図とかありますか?」


 東野は少し驚いたが、「はい、あります」と言って別の資料を取り出した。彼のカバンはきちんと整理されており、必要な書類がすぐに出てくる。


「全部コピーさせてください」


 優香は軽快な声で言った。彼女の目には好奇心が浮かんでいる。


「あと、今日の弁当も良かったら食べていきませんか? 唐揚げが特に美味しかったんですよ」


 東野は困惑した表情を浮かべながらも、「いえ、結構です」と丁寧に断った。彼の眼差しには、この弁護士は本当に頼りになるのだろうかという疑問が浮かんでいる。


 コピーが終わると、優香は突然真剣な表情になり、東野の目をまっすぐ見つめた。


「東野さん、あなたは正しいことをしようとしています。でも、内部告発は簡単ではありません。慎重に進めないと、告発者であるあなた自身が不利な立場に立たされることもあります」


 その鋭い視線に、東野は少し驚いたようだった。優香の声には、日常のふわふわした調子が消えている。


「お力になります。まずは証拠集めから始めましょう」


 優香はきっぱりと言った。その言葉には確固たる自信が感じられる。


 そして、再び柔らかな笑顔に戻り、「あ、弁当の空き箱、捨てなきゃ」とつぶやいた。


 東野が帰った後、田中が尋ねた。


「先生、引き受けるんですか? 企業の粉飾決算なんて、相手は大企業ですよ?」


「うん」


 優香はぼんやりとした表情で窓の外を眺めながら答えた。青空に浮かぶ雲を見つめる彼女の瞳は穏やかだが、何かを考え込んでいるようだ。


「数字って面白いよね。嘘をつくとね、必ずどこかに痕跡が残るんだ」


 田中には、その言葉の重みが分からなかった。しかし、優香の表情には確かな決意が浮かんでいた。


### 第二幕:法廷バトル


 証券取引等監視委員会の審問室。重厚な木製のテーブルと椅子が整然と並ぶ厳格な空間だ。


 長いテーブルを挟んで、国際建設の役員たちと、証券取引等監視委員会のメンバーが対峙していた。そして、告発者側の席には東野と優香の姿があった。東野は緊張した面持ちだが、優香はいつもの法廷での姿同様、冷静で鋭い眼差しをしている。


 委員長の挨拶の後、まず国際建設側の弁護士・村田が発言した。中年の肥満体の村田は、声だけは力強く響かせる。


「今回の告発は、単なる誤解に基づくものです。国際建設の会計処理はすべて適法に行われており、大手監査法人の監査も毎年通過しています」


 村田は自信満々に続けた。彼の声には傲慢さが混じっている。


「東野氏が『不審』と指摘する会計処理は、複雑な建設プロジェクトの進行基準に基づく正当な処理です。専門的知識がない方が見れば『不審』に思えるかもしれませんが、建設業界では一般的な手法です」


 国際建設の財務部長も同調した。50代半ばの痩せた男性は、冷静沈着な様子で話す。


「当社の決算は、すべて企業会計原則に準拠しています。また、コーポレートガバナンスも万全であり、社外取締役や監査役による厳格なチェックも行われています」


 委員長は優香の方を見た。


「告発者側の弁護士、いかがですか?」


 優香はゆっくりと立ち上がった。いつもの穏やかな表情は消え、鋭い眼差しで相手を見据えていた。濃紺のスーツは彼女の凛とした姿勢を引き立てている。


「まず、国際建設側の主張について確認させてください」


 優香の声は冷静で論理的だった。日常のふわふわした声色はどこにも感じられない。


「貴社は『すべての会計処理が適法』と主張されました。では、具体的にお尋ねします」


 優香は一冊のファイルを開いた。その手の動きは無駄がなく正確だ。


「昨年度の決算において、御社が保有する東南アジアの土地資産の評価額が前年比で30%増加していますが、この根拠は何ですか?」


 財務部長は少し考えてから答えた。彼の表情は冷静だが、目が少し泳いでいる。


「現地の不動産価格の上昇を反映したものです。正規の不動産鑑定士による評価に基づいています」


「その鑑定士の名前と所属事務所を教えていただけますか?」


 財務部長は資料を確認し、一つの名前を告げた。


 優香はそれを聞くと、小さく頷いた。彼女の目に浮かんだのは、何かを確信したような光だ。


「ありがとうございます。次に、アジア地域での建設プロジェクト『サンライズタワー』の進捗率について伺います。昨年度の決算では90%と報告されていますが、これは正確でしょうか?」


「はい、正確です」


 財務部長はきっぱりと答えた。しかし、彼の声には微かな緊張が感じられる。


 優香は新たな資料を取り出した。


「これは、東野氏が収集した社内メールのコピーです。プロジェクトマネージャーから財務部への報告によれば、実際の進捗率は65%とあります。なぜこのような差異が生じているのでしょうか?」


 財務部長は少し動揺した様子で「それは……工事の技術的な評価方法の違いによるものでしょう」と言った。彼の目は優香から逸らされている。


「なるほど」


 優香は冷静に続けた。彼女の姿勢はまっすぐで、声に揺らぎはない。


「では、もう一つ質問します。国際建設は過去3年間、『サンセット・プロパティーズ』という会社に対して多額の支払いを行っています。この会社は御社とどのような関係にありますか?」


 財務部長と村田弁護士は顔を見合わせた。二人の間に不安の色が走る。


 村田が代わりに答えた。


「取引先の一つです。東南アジアでの不動産取引の仲介を行っています」


 優香は意味深な笑みを浮かべた。その笑みには鋭さがあり、まるで罠にかかったねずみを見る猫のようだ。


「実は、私どもはこの『サンセット・プロパティーズ』について調査しました」


 彼女は新たな資料を示した。整然と並べられたデータと図解が見える。


「この会社、登記上の本社はケイマン諸島にあります。そして、その役員リストをご覧ください」


 委員会のメンバーが資料に目を通すと、静かな驚きの声が漏れた。


「役員の一人に、国際建設の現会長の実弟の名前があります。そして、もう一人は現在の財務部長の奥様ではありませんか?」


 財務部長の顔が青ざめた。額に汗が浮かんでいる。


 優香は容赦なく続けた。彼女の声は静かだが、鋭い刃のように切れ味がある。


「さらに、先ほど述べられた不動産鑑定士についても調査しました。その鑑定士は『サンセット・プロパティーズ』から定期的に報酬を受け取っています。つまり、完全に独立した第三者による評価とは言えませんね」


 村田弁護士が「異議あり!」と声を上げた。彼の声は少し震えている。


「これらの情報がどこから入手されたのか、合法的なものなのか疑問です」


 証券取引等監視委員会の委員長は優香を見た。厳しい眼差しだが、その中に興味の色も混じっている。


「佐々木弁護士、その情報源を明かしていただけますか?」


 優香は穏やかに頷いた。


「はい。東南アジア諸国の公開企業登録情報と、国際的な金融情報機関のデータベースから入手した合法的な情報です。必要であれば、そのアクセス記録も提出できます」


 委員長は納得した様子で頷き、「続けてください」と言った。


 優香は最後の証拠を示した。


「これは、国際建設の過去5年間の四半期ごとの売上推移です」


 グラフが画面に映し出された。それは東野が最初に持ってきた、青と緑のグラデーションで彩られたグラフだった。優香が「綺麗」と評したあのグラフだ。


「このグラフを見ると、ある興味深いパターンが浮かび上がります。各年度の第4四半期に、突然売上が急増するのです。この急増分の多くが、先ほど触れた『サンセット・プロパティーズ』との取引によるものです」


 優香はグラフの特定の部分を指した。青と緑のグラデーションの中で、特に突出している部分が明確に示されている。


「さらに興味深いことに、この急増は翌年度の第1四半期には必ず反落します。これは典型的な『決算対策』のパターンです」


 法廷内に緊張が走った。


「最後に」


 優香は静かに言った。彼女の声は穏やかだが、その言葉一つ一つが重みを持っている。


「東野氏が最初に不審に思ったのは、このような数字の不自然さでした。単なる『誤解』では説明できない一貫したパターンがあります。また、今回提示した証拠は氷山の一角に過ぎません」


 優香は委員長を見つめた。彼女の眼差しは真摯で、確信に満ちている。


「証券取引等監視委員会におかれましては、国際建設に対する本格的な調査を行っていただきたいと思います。特に『サンセット・プロパティーズ』との取引に関する全記録の開示を求めるべきでしょう」


 村田弁護士と財務部長は言葉を失ったように見えた。国際建設の他の役員たちの間にも動揺が広がっていた。顔を見合わせる者、うつむく者、汗を拭う者もいる。


 委員長は厳しい表情で「本件については、正式な調査を開始します。国際建設の役員の皆さまには、全面的な協力をお願いします」と宣言した。


 優香は静かに席に戻った。東野は感謝の眼差しで彼女を見つめていた。彼の目には安堵と敬意が浮かんでいる。


### 第三幕:ゆるふわな日常への回帰


「優香先生、また勝ちましたね!」


 事務所に戻ると、田中が興奮した様子で迎えた。証券取引等監視委員会が国際建設への調査を決定したニュースは、経済紙の一面を飾っていた。


「そうかしら?」


 優香は再びあのぼんやりとした表情に戻っていた。真剣な法廷の表情はどこへやら、穏やかな微笑みを浮かべている。


「あ、そうだ、今日のお弁当どうしようかな。やっぱり唐揚げかな~」


 田中は呆れたように言った。彼女の表情には、もはや驚きよりも諦めが浮かんでいる。


「先生、これからどうなるんですか? 国際建設は?」


「そうねぇ」


 優香は窓の外を眺めながら言った。夕日に染まる空を見つめる彼女の横顔は柔らかな光に包まれている。


「きっと大規模な粉飾決算が明らかになって、役員の責任が問われることになるでしょうね。でも、会社自体は存続できるはず。東野さんのおかげで、もっと大きな破綻の前に発覚したんだから」


「東野さんは?」


「内部告発者保護法によって身分は守られます。でも、会社に居づらくなるかもしれないから、転職の相談に乗ってあげようと思って」


 優香は優しく微笑んだ。その表情には思いやりが満ちている。


 田中はふと思い出したように尋ねた。


「あの、先生。どうやってあの『サンセット・プロパティーズ』の情報を集めたんですか?」


 優香は少し考えてから、くすりと笑った。少女のような笑顔だ。


「実は、弁当屋さんで偶然聞いたの」


「え?」


「あの日食べた5つの弁当、覚えてる?」


 優香は楽しそうに言った。彼女の目は輝いている。


「実は、その弁当屋さんの常連客に、東南アジアの不動産投資に詳しい方がいて。私が国際建設の組織図を見ながら『難しい仕事が来ちゃった~』って言ったら、『あそこは怪しい関連会社使ってるって噂だよ』って教えてくれたの」


 田中は呆れて言葉を失った。彼女の表情には「これが本当なの?」という疑念が浮かんでいる。


「それをきっかけに調べたら、いろんなことが分かってきたのよね」


 優香は空を見上げながら言った。夕焼けが彼女の顔を赤く染めている。


「あ、明日のお弁当も予約しておかなきゃ」


 窓の外では、夕方の柔らかな日差しが街を包んでいた。事務所のテーブルには、また新しい弁当メニューのチラシが置かれていた。その上に置かれたのは、国際建設の粉飾決算を暴いた書類の束だった。

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